大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

八戸領内五ヶ寺(禅源寺、光龍寺、本寿寺)

2018-11-15 | 

八戸の古刹を訪ねようと思った。古い楼門が残る三寺と県内最古の建築物の清水寺観音堂、それに国宝がのこる櫛引八幡宮はすんなり決まったが、後が決まらなかった。八戸の案内書をみると領内十ヶ寺、領内五ヶ寺と書いてあるが、どこが領内十ヶ寺、領内五ヶ寺なのかさっぱり分からなかった。ある資料に八戸領内五ヶ寺は南宗寺、光龍寺、禅源寺、本寿寺、豊山寺(廃寺、鬼門鎮護)の五寺だとあった。文政改正八戸城下略図の城中に豊山寺が描かれていた。八戸二万石南部氏と関係が深そうな領内五ヶ寺を廻ることにした。

早朝は霧がひどかったが、2時間もするとこれから出かける長者山らしき山が見えてきた。
 
八戸城から1,7Kの長者山の禅源寺に向かう。禅源寺は臨済宗妙心寺派で山号は臥龍山、始め禅源院と称し、のち禅源寺と改め、一時無住の廃寺となったが桂林禅師が再興し、八戸藩祈祷寺となった。
 
 
ここの参道脇に天保十三年(1842)、鳥屋部町から禅源寺まで敷石を設けた。その犠牲者がでたのか敷石供養塔が在ると云うが、残念なことに気が付かなかった。ご住職が不在でシ~ンと静まり返っていた。隣の光龍寺に行く。
 
 
 
光龍寺は石田山と号し、名久井の白華山法光寺の分寺で、八戸藩二代南部直政が開基、峯山光雪師元禄五年(1692)、開山と伝わる。山門はもと市役所の門であり宗氏の門であったといわれている、と説明にあったが、宗氏って誰だろう、宗家の書き違いだろうか。ここに曽我十郎、五郎の父河津祐泰を殺した工藤祐経の位牌がある。工藤祐経の子犬吠丸が糠塚地方に流人となった時に父の位牌を持ってきたものだという。八戸南部藩祈願寺の本寿寺に行く。
 
 
正栄山と号し、京都妙満寺の末寺で、寛永十八年(1641)、日久上人の開基による。境内で法事が行われており、早々に中心街に向かう。
八戸の街はお城の大手門から本丸東門への中心線に対して仰角で六十度も斜めに道路が造られており、歩いていても距離感が難しい。城は南向きに築城されている。城下町は馬渕川に平行になるように構築されたのか、それとも市内から15kの青森と岩手の県境に一等三角点のある雨と水の神で龍神の分身といわれる岳大明神の信仰を集める標高739mの階上岳がある。信仰の対象となる山に対して正面になるよう対角に城下町が作られたのだろうか。自在山豊山寺がいつ廃寺となったか不明だが、寛文四年(1664)、後継ぎ決めていなかった盛岡南部氏二十八代重直の病死後、その遺領十万石を、幕府は盛岡領八万石を重直弟重政に八戸領二万石を重政弟直房に与え、新たに八戸藩が立藩した。八戸南部家は八戸に南宋寺、江戸に金地院と菩提寺を持ち、初代藩主直房病死(暗殺とも)のあと、二代藩主直政が将軍徳川綱吉の御詰衆となり、柳沢吉保と共に御側御用人となった。将軍護持僧筑波山権僧正隆光との縁により、藩主祈祷寺として場内に祈祷寺として豊山寺を設けたという。新たに八戸の家臣は南部藩から二十一名(実際は二十七名)を分士させた。御分国之節御分人廿一人と呼ばれている。この廿一人という数は遠祖南部光行が奥州糠部を賜り、承久二年(1992)甲斐から奥州に随行した侍数にちなんでいるという。御分国之節御分人の中に明治の教育家で有名な新渡戸稲造の祖先にあたる新渡戸左五右衛門常政がいる。左五右衛門常政娘吟が南部重信の側室となったため、盛岡藩に帰参している。八戸南部藩の菩提寺、南宗寺に向かう。

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