大佗坊の在目在口

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八戸南部家菩提寺南宋寺

2018-11-21 | 

八戸領内五ヶ寺の一寺、南宗寺は月渓山と号し、開基は八戸藩初代南部直房で、父利直の菩提を弔うため、寛文七年(1667)に類家に建立、寛文十二年(1672)に現在の塚糠に移転した。寺号、山号は南部利直の法名「南宗院殿月渓晴公大居士」に由来している。延宝元年(1673)南宗寺東側の長者山中腹に八戸藩歴代藩主とその家族の墓所を建造、八戸南部家の菩提寺とした。
 
 
八戸市のH・Pに「八戸南部家墓所は、南宗寺東側の長者山中腹にあります。墓所は、南宗寺が現在地に移った翌年の延宝元年(1673)に建造され、歴代藩主の郭とその家族の郭の2区画に分かれています。
家族墓域(藩主墓域手前左側)
 
 
  
藩主の郭には、初代藩主直房から11代麻子(大正2年没)までの歴代藩主の五輪塔や石燈籠などが整然と並んでおり、変形の五輪塔15基、角柱の石塔20数基や石燈籠・洗鉢及び経塚もあります」とあり、八戸市教育委員会の八戸南部家墓所説明板に「石塔は徳川時代に用いられた形式のもので普通に五輪塔と呼ばれているものである。初代直房から九代信順までが同じ型で大きさも同じく建てられている。一段下がった北側隣接の地に家族たちのもの二十ばかりの石塔が建てられている」とあった。
 
 
 
歴代藩主の墓域にはコの字型に五輪塔の笠に宝篋印塔の相輪をのせたちょっと変わった五輪塔が九基、両端に三基、他に角石塔型墓石が二基、この二基は八代藩主信真の養子(薩摩藩藩主島津重豪男)に入った九代藩主信順と十一代藩主南部麻子の墓石で、残りの三基の五輪塔は藩主の墓域手前左側にある家族の墓域にある。それにしても市では変形の五輪塔といい、教育委員会では普通に五輪塔といい、市と教育委員会、あまり仲がよくないのだろうか。それにしても九代藩主信順の墓碑が歴代藩主の並ぶ正面の中央近くに建てられている。ほかの大名墓地ではあまり見慣れない光景となっている。
ほかに八戸南部家の墓所は東京芝の金地院、明治以降は青山霊園にある。青山霊園の八戸南部家墓域の墓誌には十代藩主栄信、十一代麻子、十二代、十三代の名があった。
 
寛政重修諸家譜によれば八戸藩初代藩主直房、三代藩主通信、五代藩信興の葬地は八戸南宋寺、二代藩主直政、四代藩主廣信、六代藩主信依の葬地は芝金地院とあり、六代藩主までは八戸南宋寺と芝金地院を交互に藩主の葬地としていたようである。七代信房、八代信真の墓も金地院にある。
 
 
金地院の八戸南部藩墓地前面は盛岡南部家の墓域で、藩主の墓はないが、江戸にいた正室、側室、子女の墓碑が残っている。
 
この墓域の端に盛岡藩四代藩主行信の次男實信の墓があり、その後方に津軽藩主津軽寧親の暗殺を計画した南部藩士下斗米秀之進(相馬大作)の墓があった。
 
 

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