大佗坊の在目在口

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正之公生母浄光院とその周辺(5)

2015-04-20 | 會津

秩父氏と大奥の事
浄光院の父母は神尾伊豫栄加、杉田氏の娘だけで浄光院の母方一族の系譜はまったく謎で
定かな記録がないのも不思議だが、河内山雅郎著の「神尾氏考」に、「会津藩諸士系譜」によると、
神尾氏は秩父十郎武綱の後裔となっているという。会津藩諸士系譜は会津図書館にあるが
未見なので、河内山雅郎氏「神尾氏考」に、神尾氏は秩父十郎武綱を遠祖として神尾伊豫栄加父
帯刀左衛門政高祖父秩父伊豫武総としている。

河内山雅郎氏も「秩父氏の十二世紀から十五世紀末までの約四百年間は空白である。桓武平氏
良文系に神尾姓はないので、何時・どこ様な過程の中で秩父氏から神尾氏にかわったのか全く
解らない」としている。渡辺世裕・八代国治著「武蔵武士」に「武蔵に生長せし武士を概称して武蔵武士と
称すれども、これを子細に区分すれば秩父氏先づ主たるものにして之に加ふるに七党併に他数氏あり。
秩父氏の分布は、秩父郡及び大里郡の内を中心として武蔵各郡は勿論、全国に及べり」とある。
北條氏康の三男虎壽丸を藤田康邦の女大福御前に娶せ、秩父新太郎氏邦と名乗らせており、北條
氏族ともまんざら関係がないわけではないが、秩父氏は大族であり各地の支族も多く、秩父氏と
北條家家臣神尾氏との結びつきを見つけるのは難しい。小柳和夫編「神尾家史」でも神尾加栄が何者で
あったか詳細は見いだせなかったとしている。

神尾栄加の娘、お静が大ばば殿を頼ったのか、呼ばれたのか判らないが、いずれにしても、
お城に「部屋方」か「部屋子」として勤めている間に秀忠の子を二度懐妊している。
会津家世実紀に「将軍様之御子を、両度迄水と奉成候儀天罰恐敷義」と二度目の時に出産したのが
幸松丸(正之公)、不思議なのは秀忠の御台所、崇源院(浅井三姉妹の末子お江与の方)がお静の
二度の懐妊を全く知らなかったのだろうか。懐妊を誰にも気が付かれずに城から出ることも可能
だったのだろうか。

何時から江戸城で大奥と呼ばれるようになったかハッキリしないが、秀忠は元和四年(1618)、
局より奥へは男子入べからず。女上下とも券なくして出入すべからず。酉牌過ては門の出入
有べからず。走り入女ありて其よしつげ来らば。速やかに返し出すべし等の條約をだしている。
あまり守られなかったのか元和九年(1623)、まったく同じような法度が出されている。

高橋金芳茶著「大奥の生活」によれば「奥と表の境を厳重ににし、その間の法規や手続きが厳しく
なったのは六代家宣のころであり、八代吉宗の享保六年(1721)の大奥法度でほぼ完成した」という。
享保六年の大奥法度は主に奥女中と外部との文通、往来を規制したもので、大奥内部の機密性は
幕末の徳川家崩壊まで保たれた。

大姥局の父、岡部貞綱は今川氏直に仕えた。大姥局の夫、川村重忠は武田信玄に仕え、
穴山梅雪が組に属していた。大うば様の子、主計頭の井上氏は織田家佐久間信盛に属し、
のち大須賀康高に属し徳川家に仕えたが、武田氏から北條に仕えた井上一族もいた。
幸松丸(正之公)を預かり育てられたのが武田信玄の娘で穴山梅雪の未亡人見性院です。
五月節句祝などには見性院の差図で上に葵の御紋、下には武田菱の紋を付けさせたという。

武田家滅亡のあと、家康は穴山梅雪・見性院の嫡男穴山勝千代(武田信治)に武田氏名跡を
継承させたが勝千代、天正十五年 (1587)十六歳で早世、家康は武田家に関係する女性を多く
側室としたが、その中の一人、お都摩の方が出産した家康五男福松丸を武田信義と称させ
武田氏の名跡を継承させたが、天正十八年(1590)松平姓に復し、松平信吉と改名したが、
慶長八年(1603)十九才で死去した。武田氏の断絶を惜しんだ見性院と今川・武田・北条氏に
関係する人々が、家光と忠長の家督争いが激しくなるなか、秀忠に子を作らせ、その子に
甲斐武田氏の名跡を継がせる事を望んだとしてもまんざら荒唐無稽な話とも思えないのだが。

正之公生母浄光院とその周辺(6)

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