川村善右衛門重忠妻(岡部氏)の事
会津藩記録「家世実紀」に「井上主計頭様御母は台徳院之御乳人にて大乳母殿と唱、
御城大奥に被差置御出頭に候、台徳院様にも折々其部屋に被為入候程之格別成
女中に候間、浄光院様此方へ御奉公被成、不図も台徳院様御側近召仕」とあるが、
台徳院は井上清秀三男正就(1577生)、四男正重(1584生)兄弟のあいだの天正七年
(1579)生まれなので、井上主計頭母(永田氏)が台徳院の乳母というのは無理があり、
「うば」の表記違いか、それとも浄光院が奉公した大うば様を大乳母殿とすることで権威を
もたせたのだろうか。
寛政重修諸家譜に台徳院の御御乳母で大姥局と呼ばれた人がいる。藤原氏秀郷流
川村筑後守秀高九代の孫、川村善右衛門重忠の妻、岡部與三兵衛貞綱が女で、
重忠死んだ後東照宮に召されて台徳院の御乳母となり大姥局と称した。
川村氏は相模国足柄郡川村より起るとあり、寛政系譜に「重忠、武田信玄に仕え、
穴山梅雪が組に属す、妻は岡部與三兵衛貞綱が女にして重忠死するののち駿河国
岡部に居住す。時に豊臣太閤のめしに応じ、善次郎重久猶いとけなきをくして船路より
大坂に赴く」とあり、このあと東照宮の仰せにより台徳院の御乳母となり慶長十八年
(1613)正月に八十九歳で亡くなったとある。
川村重忠が亡くなったあと、大姥局は娘(岡部局)を上杉謙信の旧臣大石豊後後長次に
嫁がせ、その子大石重久に岡部家を継がせ、天正十六年(1611)、十三歳で台徳院に
属させている。
川村重忠と大姥局の子、主水に大姥局の遺跡を賜い、別に家を興し岡部を称させている。
この岡部氏は岡部権守清綱の後胤で大姥局父岡部貞綱は今川氏直に仕え、家を継いだ
庄左衛門長綱は東照宮に仕えたが元和元年(1615)亡くなっている。
同族で駿河権守清綱始め岡辺を称し、泰綱のとき岡部に改めた岡部氏がいる。代々
今川氏に仕え、常憲男次郎右衛門正綱は天文十一年(1542)駿河国に生まれ、
今川義元に仕える。今川家に人質としていた家康は正綱に御よしみふかく、しばしば
御筆の御書を与えていた。
寛政系譜に「武田一族穴山梅雪、勝頼を恨る事ありて東照宮に降をこうといえども、
正しく親族なれば御疑ありて正綱がもとへ御使を下され、其虚實を問い給う。正綱彼が
いつはりなきよしを言上す。これより梅雪が降をゆるさる」とあり、天正十年(1582)
織田右府甲斐国に出馬のとき、東照宮も出馬、駿河より兵を進め、このとき正綱先導となり
梅雪も兵を率いて共に勝頼と戦う。岡部一族は穴山氏の事をよく知っていたことになる。
大姥局が亡くなったのが八十九歳で慶長十八年(1613)、単純に逆算して大姥局の
生まれ年は大永四年(1524)、秀忠誕生が天正七年(1579)大姥局五十五歳のときであり、
幾らなんでもこの歳で乳母は無理がある。歳永く生きられた年長者として威厳を与えたということか。
正之公生母浄光院とその周辺(5)
正之公生母浄光院とその周辺(1)