大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

正之公生母浄光院とその周辺(6)

2015-04-24 | 會津

神尾一族のその後
正之は徳川秀忠の第四子、母は神尾静、慶長十六年(1611)、静の姉の夫、竹村助兵衛次俊宅
(家主四条藤右衛門)で生る、幼名幸松丸。慶長十八年田安邸に移り、信玄の娘穴山梅雪の継室
見性院に養われる。元和三年(1617)、幸松丸、年はじめ七歳、将軍秀忠、保科正光に命じて
之を養はしむ。是に於て保科氏を称す。同年十一月、正光の居城信濃国高遠に移る。

随行は小姓神尾左門、見性院より万沢権九郎、野崎太左衛門、有泉金弥、虎若、上臈小侍従
太左衛門妻、端下女松、同娘、他に土井大炊頭利勝の指図にて、公儀黒鍬頭橋爪久左衛門、
組之黒鍬共召具致御供、道中警護のため保科正光より宮下孫三郎、徒歩二三人遣わされ、
八日江戸を出発、十四日には高遠に入国した。
随行者のうち、万沢権九郎は保科正光により追放、野崎太左衛門は孫新右衛門のとき家断絶、
有泉金弥(有泉五兵衛重治嫡男新左エ門忠吉 召出慶長十八年)、虎若(小川治兵衛直 召出
慶長十八年)、橋爪久左衛門義定(召出元和三年(1617))らは会津松平家に幕末まで仕えた。

神尾加栄嫡男神尾嘉右衛門政秀二男神尾左門(六左衛門友清 召出元和三年)、加栄嫡男
嘉右衛門嫡男四郎左衛門清一、栄加二男神尾才兵衛政景嫡男才兵衛公忠 召出寛永十四年)、
栄加二男神尾才兵衛孫神尾八之丞房也三男嘉右衛門英丞(召出元禄二年)、竹村助兵衛次俊
嫡男半左衛門(召出元和三年)、竹村助兵衛四男五郎兵衛忠俊に寛永二年(1625)杉田家を
継承させている。

助兵衛の家主四条家は宝永六年(1709)、四条藤右衛門の子、与左衛門永叔を藩士に取り立て、
いずれも明治まで会津藩士として勤めた。竹村助兵衛嫡男半左衛門の子孫に思案橋事件の
竹村俊秀がいる。竹村助兵衛次俊の四女の夫が日向半之丞次吉、この子孫に日向内記がいる。

神尾加栄二男才兵衛の後胤鉄之丞英俊と妻くら(田中土佐養女?)の娘が栄と春。
明治二年(1872)、開拓使は開拓使仮学校を東京の芝増上寺内に設け、この中に賢母育成の
ため女学校を併設した。神尾姉妹はこの女学校に入学した。2年後、腸チブスの流行により女学校は
一時閉鎖され、札幌への移転が決まった。札幌移転後一年も経たない明治九年(1876)四月、
女学校に起きた紛憂により女学校廃止が決定されてしまった。校長は調所広丈(開拓使少判官)、
幹事は福住三(開拓使大主典兼邏卒長)で福住が栄・春姉妹を可愛がり私的に使い、世間の風評と
なっていた。そんななか、女学校生徒によって栄・春姉妹の中傷と校長及び幹事に対する訴訟書が
出された。
事件を担当した開拓使大判官松本十郎によれば、この姉妹を「美にして艶なり」と書き残している。
調査は民事局辰野宗城(旧会津藩士)ら同席し、女学生全員に及んだが噂の根拠もない事から
訴訟書は取り上げられなかったが、かねてから高等女学校に反対だった開拓使上層部は女学校
廃止を決めてしまった。
この女学校廃止問題は、米国の鉱山学者で北海道開拓使に招かれ、北海道の地質調査に従事した
B・S・ライマンと開拓使との確執も遠因となっていたのではないだろうか。
女学校の札幌移転に伴い女教師ビューケマ(旧姓ツゥワァテル)とデロイトルの追い出し
策略とライマンが恋した開拓使女学生広瀬常との結婚問題を妨害したと福住三の罷免をライマンは
要求したが受け入れられなかった。

同じ開拓使仮学校出身の旧会津藩士山際永吾と旧鳥羽藩士稲垣徹之進はライマンの弟子で、
神尾姉妹の妹春は山際永吾と、姉の栄は稲垣徹之進とそれぞれ結婚している。
仮学校で山際永吾の父兄引受人は榎本武揚兄、榎本武与、稲垣徹之進は攻玉舎設立した
旧鳥羽藩士近藤真琴だったという。
春の子、太郎の嫁は志賀直哉異母妹の淑子、会津藩士の系譜はかなりややこしい。


正之公生母浄光院とその周辺(1)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする