いわき平欣浄寺に戊辰役戦死者、筑前藩士の墓碑を見にいった。無縁仏となった墓碑を集めた一画に異質な墓が一基あった。その墓には小姓青山九八郎と刻まれていた。この墓が元文三年(1738)の百姓一揆と共に平藩内藤家の大事件であった、延宝八年(1680)に起きた小姓騒動の首謀者の一人、青山九八郎の小姓塚とも呼ばれる墓碑だった。
磐城平藩は関ヶ原の合戦のあと鳥居氏最初の藩主となったが、最上氏の改易により出羽山形22万石に加増移封され、あと磐城平に入った藩主が内藤政長で、その三代藩主が内藤義概、義概の長男は義邦(早死)、次男義英は廃嫡、晩年の子義孝が四代藩主となり、五代藩主は義孝次男義稠が継いだが若くして亡くなったため、廃嫡となった義英の長男政樹が六代藩主となった。三代藩主内藤義概から六代藩主内藤政樹が大規模な百姓一揆などにより日向延岡に転封された延享四年(1747)までの僅か七十年位の間に起きた出来事だった。小姓騒動そのものは、三代平藩主内藤善概のとき、延宝八年(1680)四月、小姓頭山井八右衛門を確執のあった小姓たちが山井八右衛門夫婦を斬殺した事件で、内容については「磐城史料筠軒稿本」(以下稿本)や「内藤侯平藩史料」(以下藩史料)に小姓騒動として記録が残っていた。小姓騒動を「稿本」は三代藩主左京亮義概の項に附録として松賀族ノ逆謀、小姓騒動、六代藩主備後守政樹の附録として松賀一族滅亡を記載して一連の事件として扱っている。内藤家記録に色々な参考資料を加えて編纂した「藩史料」の小姓騒動項目の前には浅香十郎左衛門牢舎す(旧記)とあった。一連の混乱は、三代平藩主家内藤善概の家老松賀族之助は妻を善概に差出し、生まれた子を藩主の子とし、内藤大蔵と名付け、やがては大蔵が藩主となるよう松賀一族が画策する。善概は晩年の子三男義孝を藩主とするため次男義英を廃嫡させ重臣浅香十郎左衛門を讒訴により切腹させた。この時期に小姓が小姓頭を討取る事件が起きた。「藩史料」は密聞書という資料も加えてこの騒動が書かれている。志賀伝吉著「平藩小姓騒動誌」に藩史資料「密聞書・御小姓騒動一件」の記載があった。「藩史料」小姓騒動は「密聞書・御小姓騒動一件」と殆ど内容は同じで、「藩史料・密聞書」と「稿本」も、粗筋はほぼ同じですが、騒動に加担した小姓の人数、氏名が異なっている。「藩史料・密聞書」は山本金之丞、篠崎友之助、山口岡之助、井家九八郎、大胡勝之進の五名。「稿本」では松井源二、篠崎勝之進、松浦吉弥、松川粂之助、瀧本三弥、青山九八郎の六名となっている。「藩史料・密聞書」の篠崎友之助と井家九八郎と「稿本」の篠崎勝之進と青山九八郎の二名が似たような姓名となっている。「藩史料・密聞書」も「稿本」も九八郎が事件後、頼ったのが安藤平八(七百石)であり、井家九八郎と青山九八郎は同一人物だと考えられる。延宝八年閏八月の内藤家分限帳には井家、青山という家臣の家は無く、事件後、家は断絶したか、または何かの立障りがあり偽名を藩史に記録して家名を存続させたのかもしれない。義概の次男で廃嫡となった義英の子、政樹を義孝の養子として六代藩主となった時、松賀一族が六代藩主の毒殺を図り、その陰謀が露見して松賀一族は失脚滅亡した。しかし、藩士同士の対立も激しく、毒殺の話も松賀一族を失脚させた後の作り話だったかも知れない。