大佗坊の在目在口

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いわき平 官修墓地

2012-10-04 | 掃苔

磐城郷土史に昭和初期、磐城郡町村所在の官修墳墓の記載がある。本書によると磐城郡内の泉、植田、勿来と平に胡麻沢、長橋、堤ノ内、禰宜の4ヶ所、高久に官有墳墓地、小名浜が蛭川、明神前、小湊の3ヶ所、磐崎龍勝寺、神谷大円寺、草野沢帯、大野脇の計15ヶ所の官修墓地の記載があった。平長橋町の十九坪を除いて、いずれも六坪から一坪と小規模だが地目は官有墓地、官有地第2種地、民有地、共同墓地,民有墓地、民有畑と様々。官修墓地の制度は、戊辰戦で西軍が各地に転戦した際、各藩の士卒でこれに従軍し、戦病死した者の遺骸がそれぞれの地に埋葬されたので明治七年これを慰霊すべき旨の仰出があり、翌八年内務省所管のもとに定額の修繕費(墳墓一ヶ所について六円二十五銭)等を支出して国に於いて祭祀することとなった。同十五年には西南ノ役の戦没者の墳墓もこれに加えられた。官修墓地の管理には監守者を置き、開設の沿革、域内の坪数並びに地種、埋葬人名表を記載する各墓地の明細帳調製の制度ができたが、昭和二十年八月の終戦により、同年十二月連合国最高司令部から政教の分離と神社の国家管理廃止等を厳重に指令してきたため、「護国神社及び官修墳墓」の歳出科目が削除となり、官修墳墓に対する国庫支出がなくなった。官修墳墓の所管省であった内務省も廃止となり、所管する国家機関がなくなった。昭和二十八年四月、文部省調べによると官修墓地の所在は全国で1013所(福島県186所、熊本県164所、秋田県127所)(東海・北陸・信越から北側各県で672所、近畿から西側で341所、計1013所)となっている。
明治四年、社寺上知令により社寺財産について境内地以外は、すべて官有地とされたのが始まりで、国有地である陸海軍墳墓地と異なり、明治初期から寺地内官有地として無償貸付されていた官修墓地は戦後、一定の条件のもと無償還付された。もっとも社寺国有境内地の譲与(無代価払下)処分は明治十一年五月に始まるが、社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の境内地処分は昭和十四年から始まり戦後、全文改正のあと本格的に始まった。大蔵省管財局編「社寺境内処分誌」に戦後、全国の社寺別処分地の明細が記載されている。
以前、官修墓地のあった胡麻沢長源寺と長橋町性善寺、欣浄寺を廻る。胡麻沢の官修墳墓埋葬の薩摩藩の十四名は、大正六年八月、白河に移転して合葬されて、胡麻沢長源寺には薩州藩士の墓石だけが残されていた。
 
 
長橋町性善寺には、広島、因州、岩国、長州、伊州、佐倉諸藩の戦死者二十二名の戊辰役戦歿者之碑があったが、前述の磐城郷土史に記載のある備前藩士の墓碑は確認できなかった。
 
 
同書に長橋町民有地第二種六坪と記載のあった筑前藩士の墓碑は今、古鍛冶町の欣浄寺に移されている。欣浄寺境内の無縁仏の墓域の右側に筑前藩士の墓があったが、この墓域の左端に小姓青山九八郎と刻まれた墓があった。この墓が磐城平内藤藩のお家騒動の序幕となった小姓騒動の首謀者一人の墓だった。
 
 


良善寺 戊辰戦死者追福改葬浄地      いわき欣浄寺 小姓塚

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