大佗坊の在目在口

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京都守護職

2009-02-14 | 會津
東洋文庫の山川浩著「京都守護職始末」年譜によれば、
「閏八月朔日(文久二年)、幕府は公(松平容保)を京都守護職とし、
正四位下に陞(のぼ)せ、職棒五万石を賜う」とある。
この「京都守護職始末」は、京都守護職の起因から筆が起されている。

西郷、田中両家老の諌止に、容保公は「そもそも我家には、宗家と
盛衰存亡をともにすべしという藩祖公の遺訓がある」と述べ、
藩重臣に藩の進退を任せたとある。その場にいた重臣はいずれも公の
衷悃に感激し、義の重きにつくばかりで、君臣もろともに京師の地を
死に場所と、議は決したと書かれている。

同じ東洋文庫に「昔夢会筆記」という渋沢栄一による徳川慶喜公回想談話が
ある。明治四十年を始めとして、大正四年に部数二十五冊を関係者のみに頒布
したもので、渋沢栄一が、慶喜から朝敵の汚名を雪ぎ、王政復古の功労者の
一人として弁護するため、「聊かの虚飾もなく飽く迄も事実を直筆」する方針で
書かれたとある。

明治四十三年の慶喜回想に、京都の守護職のことが書かれていた。
「浪人だの藩士だのが大勢京都に集まり、なかにも長州、薩州だとか、
所司代の力で押えることはできかねる、そこで兵力のある者をあすこへ
置こうというのが一番最初の起りだ、それで肥後守(容保)が守護職となった」
「薩州にしろ長州にしろ、会津を憎んだのは、何で憎んだというと、会津の
兵力を憎んだのだ。幕府の用いるのも兵力だ。会津の兵力というものが、
まったく両方で見るところであったんだね」と回顧している。

「京都守護職始末」が世に出たのが、明治四十四年のこと、旧会津藩士の
山川浩、沼沢士郎、黒河内良名義が、もし「昔夢会筆記」を読んで、兵力が
あったから、会津に守護職を任せたという慶喜の言葉を知っていたならば、
藩祖公の遺訓として「宗家と盛衰存亡をともにすべしと」と書き残したのだろうか。

讒言により、失脚した家康の重臣大久保忠隣を思い出した。後年、忠隣の
冤罪を嘆願しようと図ったところ、忠隣は無実が明らかになれば、主君の
非をあらわす事になるとして、これを断ったとされる。忠義も辛いものがある。

会津藩 家訓十五條の第一条、「大君の義、一心大切に忠勤を存すべく」、
改めて、会津の義は誰に対するものだったのか?
コメント
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