東洋文庫の山川浩著「京都守護職始末」年譜によれば、
「閏八月朔日(文久二年)、幕府は公(松平容保)を京都守護職とし、
正四位下に陞(のぼ)せ、職棒五万石を賜う」とある。
この「京都守護職始末」は、京都守護職の起因から筆が起されている。
西郷、田中両家老の諌止に、容保公は「そもそも我家には、宗家と
盛衰存亡をともにすべしという藩祖公の遺訓がある」と述べ、
藩重臣に藩の進退を任せたとある。その場にいた重臣はいずれも公の
衷悃に感激し、義の重きにつくばかりで、君臣もろともに京師の地を
死に場所と、議は決したと書かれている。
同じ東洋文庫に「昔夢会筆記」という渋沢栄一による徳川慶喜公回想談話が
ある。明治四十年を始めとして、大正四年に部数二十五冊を関係者のみに頒布
したもので、渋沢栄一が、慶喜から朝敵の汚名を雪ぎ、王政復古の功労者の
一人として弁護するため、「聊かの虚飾もなく飽く迄も事実を直筆」する方針で
書かれたとある。
明治四十三年の慶喜回想に、京都の守護職のことが書かれていた。
「浪人だの藩士だのが大勢京都に集まり、なかにも長州、薩州だとか、
所司代の力で押えることはできかねる、そこで兵力のある者をあすこへ
置こうというのが一番最初の起りだ、それで肥後守(容保)が守護職となった」
「薩州にしろ長州にしろ、会津を憎んだのは、何で憎んだというと、会津の
兵力を憎んだのだ。幕府の用いるのも兵力だ。会津の兵力というものが、
まったく両方で見るところであったんだね」と回顧している。
「京都守護職始末」が世に出たのが、明治四十四年のこと、旧会津藩士の
山川浩、沼沢士郎、黒河内良名義が、もし「昔夢会筆記」を読んで、兵力が
あったから、会津に守護職を任せたという慶喜の言葉を知っていたならば、
藩祖公の遺訓として「宗家と盛衰存亡をともにすべしと」と書き残したのだろうか。
讒言により、失脚した家康の重臣大久保忠隣を思い出した。後年、忠隣の
冤罪を嘆願しようと図ったところ、忠隣は無実が明らかになれば、主君の
非をあらわす事になるとして、これを断ったとされる。忠義も辛いものがある。
会津藩 家訓十五條の第一条、「大君の義、一心大切に忠勤を存すべく」、
改めて、会津の義は誰に対するものだったのか?
「閏八月朔日(文久二年)、幕府は公(松平容保)を京都守護職とし、
正四位下に陞(のぼ)せ、職棒五万石を賜う」とある。
この「京都守護職始末」は、京都守護職の起因から筆が起されている。
西郷、田中両家老の諌止に、容保公は「そもそも我家には、宗家と
盛衰存亡をともにすべしという藩祖公の遺訓がある」と述べ、
藩重臣に藩の進退を任せたとある。その場にいた重臣はいずれも公の
衷悃に感激し、義の重きにつくばかりで、君臣もろともに京師の地を
死に場所と、議は決したと書かれている。
同じ東洋文庫に「昔夢会筆記」という渋沢栄一による徳川慶喜公回想談話が
ある。明治四十年を始めとして、大正四年に部数二十五冊を関係者のみに頒布
したもので、渋沢栄一が、慶喜から朝敵の汚名を雪ぎ、王政復古の功労者の
一人として弁護するため、「聊かの虚飾もなく飽く迄も事実を直筆」する方針で
書かれたとある。
明治四十三年の慶喜回想に、京都の守護職のことが書かれていた。
「浪人だの藩士だのが大勢京都に集まり、なかにも長州、薩州だとか、
所司代の力で押えることはできかねる、そこで兵力のある者をあすこへ
置こうというのが一番最初の起りだ、それで肥後守(容保)が守護職となった」
「薩州にしろ長州にしろ、会津を憎んだのは、何で憎んだというと、会津の
兵力を憎んだのだ。幕府の用いるのも兵力だ。会津の兵力というものが、
まったく両方で見るところであったんだね」と回顧している。
「京都守護職始末」が世に出たのが、明治四十四年のこと、旧会津藩士の
山川浩、沼沢士郎、黒河内良名義が、もし「昔夢会筆記」を読んで、兵力が
あったから、会津に守護職を任せたという慶喜の言葉を知っていたならば、
藩祖公の遺訓として「宗家と盛衰存亡をともにすべしと」と書き残したのだろうか。
讒言により、失脚した家康の重臣大久保忠隣を思い出した。後年、忠隣の
冤罪を嘆願しようと図ったところ、忠隣は無実が明らかになれば、主君の
非をあらわす事になるとして、これを断ったとされる。忠義も辛いものがある。
会津藩 家訓十五條の第一条、「大君の義、一心大切に忠勤を存すべく」、
改めて、会津の義は誰に対するものだったのか?