大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

新撰組

2009-02-18 | その他
文久二年から元治元年までの会津藩庁の文書を集め、大正七年から
刊行された記録集、会津藩庁記録盤錯録(容保伝記)の
文久三年三月十日に「幕命 新撰党二十人を以て我に隷す」とある。

同書密事往復留(会津藩庁と京都藩邸・江戸藩邸間の往復文書)、
浪士の取扱について京都よりの通知に、京都江戸で応募した有志の者の内、
京都に残る者については「会津家々中に引渡、同家差配に可随可」として、
将軍徳川家茂上洛警護として上洛させた浪士組の取締役に就任した
鵜殿鳩翁が京都残留組の取りまとめを委任したのが殿内義雄と家里次郎。

この時、江戸浪士のうちの二十四名が京都に残ったが、殿内と家里は
近藤派との勢力争いのためか、暗殺、詰腹を切らされている。

なぜかこの時の密事往復留にある浪士人別、弐拾人外に四名の中に、
のち新徴組に参加した清水吾一の名が記載されていない。

文久三年春、将軍徳川家茂上京のおり、江戸に横行していた浪人の
処分について徳川慶喜の回想録「昔夢会筆記」その記載がある。

守護職松平肥後守の「今浪人を荒い処分をすると、また面倒が起こるから、
浪人に対してはなるべく言路を開いて、言うことは言わせる方がよい」との
主張に、慶喜は「浪人に思うままのことを言わせると、ますます我がまま
勝手になって、ついに秩序を乱すことになるから、よろしくない」と
強い意見であった。
文久三年二月に再度肥後守より主張があったので、会津に任せたとある。

慶喜は「浪人をどうゆうふうに処分しようかという考えは、別になかった。
会津の方へ任して、会津が主として総括して、それがよかろうというだけの
考えで、それより上の深い考えはまずなかったのだ」と回顧している。

一方、山川の「京都守護職始末」に、江戸で募った浪士二百人余、
京都へ入るなり、議論轟々として挙動も粗暴をきわめ、幕臣寄合
鵜殿鳩翁の手に負えず、東帰するものを鳩翁みずから率いて東下し、
止りたいと欲するもの二十余人について、幕府老中より
「当所に罷りあり候浪士のうち、尽忠報国の志ある輩これある趣に相聞え候、
右等の者ども、一方の御固も仰せ付けらるべく候間、その方一手に引きまとめ、
差配致さるべく候事」の内旨があり、これによりわが公(会津藩主松平容保)に
附属させることにした。

これを新撰組という。
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