大佗坊の在目在口

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撤兵隊

2009-02-16 | その他
今年1月、会津藩士の墓碑を訪ねて、千葉県市原にいった。
姉ヶ崎の妙経寺で、会津藩士の墓と並んでいたのが「義軍墓」
上総義軍と名乗った幕府撤兵隊の一部だったという。

幕府撤兵隊の事柄は、千葉の地方史以外、あまりその名も書物に
出てこないが、最近読んだ「江戸幕府集成」に少し記載があった。

幕府は文久二年(1862)、講武所奉行を陸軍奉行として、兵力増強の
歩兵、騎兵、大砲の三兵に陸軍をよる創設し、洋式訓練が行われた。

役職集成によれば、撤兵奉行が慶應四年一月に設けられ、歩兵隊の
予備隊として、江戸府内の防備に当るよう急に編成されたが、
戊辰江戸城開城と共に解散させられたとあり、細目は不明という。



撤兵奉行は、慶應四年一月二十八日から同年四月まで倉橋但馬守が
つとめている。倉橋但馬守は、慶応四年正月十四日の開成所会議出席者に
名があり、開成所頭取から撤兵奉行になったものと思える。ちなみに
この会議の出席者に戊辰を会津で戦った林正十郎が開成所教授職として
名を連ねている。開成所は現在の東京大学の前身の一つとなった。

幕軍の陸軍軍事体制は、軍事総裁職の下に、陸軍総裁・陸軍奉行を置き、
歩兵奉行・騎兵奉行・大砲之頭、別隊として撤兵奉行・京都見廻役・
遊撃隊頭等を置いた。会津藩松平容保が陸軍総裁職改め、軍事総裁職を
命ぜられたのが元治元年二月だったが、僅か二箇月後の四月に、幕府は
容保の軍事総裁職を免じ、京都守護職に再任させている。

禁門の変の起こる三ヶ月前のことであった。

(明治元年の撤兵隊、仕官と兵士(戊辰戦記絵巻より))
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