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大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

小田原酒匂界隈(酒匂神社)

2016-05-10 | 小田原

新編相模国風土記稿に浜邊御所についての記述がある。酒匂村の小名に「はんべ」という地名があり「東海道の通衛にて、西の方長一町余(109m余)の所を云、按ずるに「東鑑」に酒匂浜邊御所など見えしは、則此地なるべし」、事は旧蹟の條に詳なりとある。御所蹟は「八幡の社前なり、濶三千坪、白田を開けり、北域に土手の形尚残れり、高六尺、今は瓦屋舗と云、中古此所にて瓦を焼しと云、土人云、源廷尉義経の邸蹟なり」さらに「此地の南東海道の大路をはんべと呼び、はんべより北に折れて爰に至る横街を、もと御所小路と唱へし」という。文中に「文治元年五月十五日、義経内大臣宗盛父子を相具し、酒匂駅に著せしに、義経は鎌倉に入ことを停められ、暫らく此地にありて、六月九日帰洛せし」とある。酒匂浜邊御所の南の東海道大路を「はんべ」と呼び、ここから北に入る横道を御所小路と呼び、八幡神社前で今は瓦屋舗と呼んでいるという。

小田原市史に「いま、八幡神社は酒匂神社(もと駒形神社)に合祀されて存在しないが、もともとは酒匂神社のすぐ西側の、字瓦屋敷(舗) (瓦屋敷は河原屋敷とも記した)付近に鎮座していた」要するに、「宿の西寄り、東海道の北側の、酒匂川の渡渉地点にほど近い自然堤防上の微高地に浜辺御所があったと推定される」としている。さっそく、酒匂神社の近くの浜邊御所を探しにいった。境内にあった酒匂神社の由来によると「原神は、大和朝末期(650頃)大和朝から派遣された統治者が守護神として「八幡社」を祀ったのが最初であり、この頃、 高麗民族が渡米して、先進文化、特に棚織(はたおり)を広め「棚織社(七夕社)」等も祀られていた」また「安久五年(1149)に、箱根権現の富士上人参朝が、 寄進された地[免耕地(現在地)]に、箱根権現を勧請し「駒形社」を祀った」「明治初年に始まるさまざまな神仏分離令により、近くの八幡社を、明治十年四月に駒形社の場所に移して酒匂神社とした」とあった。
 
  
  
同じ境内に教育委員会で行った酒匂神社周辺の酒匂遺跡群発掘の説明板に「約90m西にある、現在の小田原市保健センター周辺にはかって鎌倉幕府の「浜辺御所」という将軍の宿泊・休憩施設があり」とあり、あっさりと酒匂浜邊御所の大まかな場所が判った。教育委員会の酒匂遺跡群の発掘説明と調査地点の図が掲示してあった。
  
調査地点のNO5では弥生後期の周溝、溝状遺構、NO4では近世鍛冶集落の存在を示す1800kもの鉄を製錬する際に出る不純物「鉄滓・てっさい」が見つかっている。
平清盛三男宗盛・宗父子を連行して鎌倉へ向け七日に京都を出た義経は、文治元年(1185)五月十五日夜、酒匂宿に着いたが、頼朝に鎌倉に入る事を許されず、暫く其邊で留まつよう指示された。此間、義経は酒匂邊で待機していたが、頼朝に拝謁することが叶わず、文治元年(1185)六月九日、前内府平宗盛を連行して京都へ向かった。その時の義経の心情を吾妻鑑は「其恨已深於古恨」と表現している。五月廿四日に腰越駅でいたずらに日を過ごしていた義経は前因幡守廣元に託して嘆願書一通、奉じた。これが世に腰越状と称するもので、風土記稿は「弁慶が書記せしと傳ふれどおぼつかなし」としている。しかもこの腰越は鎌倉の内、「不被入鎌倉中」と云われた義経はどうして腰越で「徒渉日之間」と過ごすことが出来たのだろうか。
鎌倉腰越 満福寺
 

参考 吾妻鑑(国会刊行会篇 1943)
文治元年(1185)五月十五日丁酉、
廷尉使者景光參着、相具前内府父子令參向、去七日出京、今夜欲着酒匂驛、明日可入鎌倉之由申之、北條殿爲御使、令向酒匂宿給、是爲迎取前内府也、被相具武衛者之所宗親、工藤小次郎行光等云々、於廷尉者、無左右不可參鎌倉、暫逗留其邊、可随召之由被仰遣云々。小山七郎朝光爲使節云々、
文治元年(1185)五月廿四日戊午、
源廷尉義經、如思平朝敵訖、剩相具前内府參上、其賞兼不疑之處、日來依有不義之聞、忽蒙御気色、不被入鎌倉中、於腰越驛徒渉日之間、愁欝之餘、付因幡前司廣元奉一通歎状、廣元雖披覧之、敢無分明仰、追可有左右之由云々、
文治元年(1185)六月九日庚申、
廷尉此間逗留酒匂邊、今日相具前内府歸洛、二品差橘馬允、淺羽庄司、宇佐美平次已下壯士等、被相副囚人矣、廷尉日來所存者、令參關参向東者、征平氏間事具預芳問、又被賞大功、可達本望歟之由思儲之處、忽以相違、剩不遂拝謁而空歸洛、其恨已深於古恨云々

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小田原酒匂界隈(大見寺・法善寺・法船寺)

2016-05-02 | 小田原

東海道分間延絵図(酒匂村)

新編相模風土記によると大見寺は「光明山無量院と号す、天文三年(1534)僧退堂、小菴の古跡に就て起立す、境内に小島氏の墳三あり、各五輪なり」という。
 
三つの墓石は、市内にある個人の墓のうち、年代を明記した最も古いもので、徳治三年(1308)銘の宝篋印塔は左衛門入道、天文二十一年(1552)銘の宝篋印塔は小島行西、天正二年(1574)銘の五輪塔は小島治部少輔だという。小嶋家十六代当主による由来碑によると、小嶋家は藤原氏を源流とした二階堂道蘊貞藤を開祖として、南北朝後の政変により二階堂姓を小島姓に改め、北條時代には代官として、小田原藩では郡代として務めたとある。
 
風土記稿によれば旧家徳右衛門、小嶋を氏として先祖小嶋左衛門入道、徳治三年(1308)の卒としている。小菴の古跡に大見寺が建立されたのは左衛門入道が亡くなってから二百年以上も後の天文三年(1534)、元禄十六年(1703)の大地震、宝永四年(1707)の富士山大噴火や酒匂川の氾濫にも敗けず、左衛門入道の宝篋印塔はよく残ったものだと思う。
一旦、東海道にでてから法善寺に向かう途中に武家屋敷と間違うほどの立派な門構えの建物があった。酒匂宿名主川辺家の屋敷長屋門といわれており、現在は児童養護施設ゆりかご園として使われている。
 
大見寺境内の本堂前には川辺氏代々の墓が並び、おくに円柱の上に仏様が腰掛けたような石柱が川辺家当主川辺清兵衛家次墓で当時の繁栄ぶりが残されていた。
 
江戸時代に整備された東海道五十三次の宿場は大磯宿の次が小田原宿で、東鑑にでてくる酒匂駅・酒匂宿はいつのまにか消えていた。東海道分間延絵図にも川辺本陣の記載はない。酒匂川の渇水期には土橋が架けられ、渡し賃は高くなるが水かさ四尺五寸(1.36m)まで渡れたようだが、増水期の旅人は少なかったのだろうか。
 
寺縁起に永享十一年(1439)、法善入道と云われる中野禅門がここに真言の庵を結び、十九年後、伯父にあたる本法院日敬聖人の教えにより号を神力山として日蓮宗に改宗した法善寺に寄ってから同じ日蓮宗の法船寺に向かう。
 
法船寺の寺傳に文永十一年(1274)五月十二日、日蓮鎌倉より身延山に赴く時、當所をめぐり歩くに、修験者飯山法船の帰依の餘り、日蓮を家に寓宿させた。のち宅地を捨て寺とし、越中阿闍梨朗慶を延て、開山第一祖とし、開基は法船夫婦。飯山入道夫妻の法號は「済度法船居士」「蓮慶妙船大姉」、山号を済渡山という。ここに小田原市内の全てのお寺を廻った訳ではないが、市内で唯一の五重塔があるという。法船寺の山門を潜っても五重塔が見えなかった。本堂の前に来て、やっと左手に相輪が見えた。
 
高さが想像したのと大分違っていた。しかし、小さいながらも総檜本瓦葺きの本格建築で、相輪まで含めると高さ8.55mあるという。神奈川県では藤沢の龍口寺を除き総木造りの五重塔は残っていない。身近で見られる貴重な五重塔となっている。

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御殿場線沿線 山北の桜

2016-04-19 | 小田原

「小田原の桜」を検索すると、小田原城址、長興山紹太寺のしだれ桜に交じって、山北駅御殿場線沿い桜並木が出てくる。国府津駅で御殿場線に乗換え山北駅に向かう。殆どの人が小田急線とクロスする松田駅で降り、次の駅、県立山北高校がある東山北駅で高校生が降りると、急に車内が寂しくなる。雨が降っていたせいもあるのか、山北駅の下車した客は僅か6名、櫻の時期にしては寂しい。
 
 
山北駅は丹沢山塊の南麓で、酒匂川上流域にあるJR東海所属で国府津駅から御殿場駅経由の静岡沼津駅を結ぶ御殿場線の駅で無人駅だと思っていたら地元のNPO法人が委託をうけて切符販売を行っていた。JR東日本のICカードはJR東海の一部の地区を除いては使えないので非常に不便を感じる。どうにかならないのかと思う。
駅前にはレトロ調の循環バスが客を待っていた。しばらく見ていたが乗る客は一人もおらず、電車の時刻に合わせてタクシーもいたが、いつの間にかいなくなっていた。駅前にある見守り観音の前を西に200mほどの行くと最初の十字路がある。そこを左に曲がると直ぐ桜の木が見えてくる。
 
 
跨線橋(三良橋)に先客が二名、もうすぐ電車が通過すると教えてくれた。やってきたのは御殿場と新宿を結ぶ特急「あさぎり」、一瞬で山北駅を通過していった。
 
 
雨で寒いので駅に戻るため跨線橋を渡ると駅の裏手にある山北町鉄道公園にでる。ここにD5270号機が静態保存されていた。この蒸気機関車を石炭燃焼ではなくコンプレッサーによる圧縮空気を動力源とし自力で動かす計画を進め、今年の秋(十六年)一般公開の予定だという。運転距離は動輪2回転分のわずか12mだというが、身近で蒸気機関車が動くのを見られるのは楽しい。
 
 
電車が付いたばかりなのか駅前にも大勢の人が、といっても六・七人だった。小田原までの切符を買う。裏が黒い横長の切符なのに自動改札が通れないと言われた。
 
JR東海の簡易委託駅でもマルス端末がほとんどの駅で導入されているが、山北駅では端末が未設置のために管理駅にて印刷発行したマルス券を手売りしているJR東海での三駅の一つだった(中央本線古虎渓駅、高山本線下油井駅)。雨が酷くなってきたので早々に国府津駅に向かう。小田原駅でこの切符を自動改札に入れたらどうなるか試したかったが、混んでいたので止めた。

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小田原酒匂界隈(長楽寺・南蔵寺・上輩寺)

2016-04-14 | 小田原


東海道分間延絵図  酒匂宿
 
「富士の高嶺を西に見て 南に望む相模灘」は酒匂小学校校歌の一節で、酒匂小の前身は長楽寺より始まり、その頃のまわりの風景を、詞にしたものだという。酒匂小は、明治五年(1872)、酒匂村長楽寺を仮校舎として足柄上郡、下郡で初めて前川村常念寺の崇高館支校として小学校教育をこの地で始めた。明治六年、酒匂学校が発足、前川村常念寺崇高館のもと第一支校(酒匂村山王原・弘経寺)、第二支校(酒匂村・長楽寺)、第三支校(小船村・源長寺)の三支校を設置し、同九年支校を廃し酒匂小学校とて独立した。現酒匂小から西、500mぐらいに位置する長楽寺からお寺巡りを始めた。
 
長楽寺は勧学山修行院と号し、開山は応永十五年(1408)、浄土宗のお寺さんです。
長楽寺から200mほど離れた南蔵寺に向かう。
 
南蔵寺、新編相模国風土記稿に「号は酒匂山不動院、寺伝に古は福田寺と号し、寺地も今の所在より四五町を隔ててあり東鑑、建久三年(1192)八月小九日 御臺所御産氣、鶴岡相摸國神社佛寺、奉神馬、被修誦經、福田寺酒匂、按ずるに、佛寺十五寺の一なり」としている。源頼朝は、鶴岡八幡宮ほか相模国の神社仏閣二十七ヶ所に妻北条政子の御産加持を命じている。本尊は十一面観音で、秘仏として一切公開していないとの事であった。
隣接の上輩寺に廻る。
 
上輩寺は品山浄土院と号し、開山は他阿真教、開基は酒勾右馬頭、永仁五年(1294)起立した。
 
ここにあるイチョウは乳柱が多く独特な樹形で飯泉の勝福寺、城山の光円寺と並ぶ小田原三大イチョウの一つでもある。このイチョウの傍に三基の五輪塔が並んでいる。お寺によると地元の豪族、酒勾一族の墓と伝わるということでした。

参考
建久三年、北条政子御産加持の相模国神社仏閣二十七ヶ所
福田寺〔酒匂〕     平等寺〔豊田〕          範隆寺〔平塚〕
宗元寺〔三浦〕     常蘇寺〔城所〕          王福寺〔坂本〕
新樂寺〔小磯〕     高麗寺〔大磯〕          國分寺〔一宮下〕
弥勒寺〔波多野〕    五大堂〔八幡。号大會御堂〕 寺努寺
觀音寺〔金目〕      大山寺              靈山寺〔日向〕
大箱根          惣社〔柳田〕           一宮〔佐河大明神〕
二宮〔河匂大明神〕  三宮〔冠大明神〕         四宮〔前取大明神〕
八幡宮          天滿宮                 五頭宮
黒部宮〔平塚〕     賀茂〔柳下〕           新日吉〔柳田〕

小田原酒匂界隈(大見寺・法善寺・法船寺)

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国立印刷局小田原工場観桜会

2016-04-11 | 小田原

小田原酒匂に国立印刷局の小田原工場がある。ここのH・Pに業務内容が日本銀行券の製造とあり、しかも年度ごとに達成すべき目標までもあってビックリした。この小田原工場敷地内を桜の開花時期に合わせて土・日に一般開放して観桜会を開催している。第37回目の28年は4月2・3日に開催された。
 
今年は全国的には桜の開花は早かったが、小田原の桜の満開は遅く、周りの桜も三分咲き程度だったが、普段入れない所に入れるという興味で出かける。正門で職員らしき人達が宣伝のテッシュを配っている。折角、休みの土日に駆り出されて気の毒になる。
 
  
敷地が広い所為か、櫻の枝が高く、幹も太く、のびのび自由に育った桜の木で、まだ満開と云う訳には行かなかったが、ミツマタの花が満開で楽しめた。工場に入ったら、何かの役に立つかも知れないから、工場・建物をバチバチ写そうと思っていたが、中庭正面の125m位の工場一棟に遮られ諦める。Googleマップの航空写真の方がよっぽど役にたちそう。印刷局創設期の紙幣頭が渋沢栄一なのも驚きだった。
 
30分ほどで桜鑑賞を終えて、東海道に面した古いお寺さんを廻ろうと国道1号線に向かう。途中小さな社があった。この社は「道三稲荷」と呼ばれ、説明板によると、徳川幕府典医「道三」の邸宅内に祀られていたお稲荷が祖であると伝えられている。関東大震災以前は丸の内、日清生命の裏手に鎮座されていたという。日清生命のあった建物は現在の大手町野村ビル(大手町2-1)で、隣町が道三町で横に道三堀があり、明治期に大蔵省印刷局もあった場所でもある。
関東大震災後は大手町官舎横にも遷宮されていたが、昭和十八年、丸の内から印刷局小田原工場開設と同時に同工場内に遷宮されたが、終戦により個人宅に移され、昭和二十九年に現在地に鎮座されたという。道三堀は江戸城への輸送路として和田倉門橋から平川の河口の呉服橋門まで開削した人工の水路で南岸に幕府の侍医、曲直瀬道三家の屋敷があったことから、道三堀と呼ばれたという。
 
寛永三年(1626)、二代将軍秀忠に従い滞洛中、秀忠の正室崇源院(お江の方)の病のため江戸に帰る途中、箱根山中で没した今大路道三玄鑑(曲直瀬道三玄朔(正紹)の子)の墓が箱根湯本の早雲寺にある。
 
 
二代将軍秀忠公侍医 曲直瀬家三代
今大路道三玄鑑之墓
寛永三年九月十九日歿 享年五十歳

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伊豆山神社

2016-03-30 | 小田原

鎌倉幕府の準宗祀として、将軍自ら箱根権現、走湯権現に参祀を行い、武士の守護人として二所詣が優遇された。走湯権現は伊豆山権現とも称され、現在の伊豆山神社のことで、その縁起書である「走湯山縁起」「箱根権現縁起絵巻」が残されている。
箱根権現縁起絵巻荻野政家本(伊豆山走湯大権現)

群書類従「走湯山縁起」巻一に、応神天皇二年、東夷相模国唐濱磯部の海槽に光明と音曲を放つ日輪のような円鏡が出現し、自らを「異域神人」、「沙謌沙羅」(湯泉之梵語)といい、日金の嶺に飛んだという。異域の神が相模の唐浜(大磯)に来て、日金山への権現垂迹が書かれている。「筥根山縁起并序」前に「走湯山縁起第五」が載っていた。深秘すなわち見るべからず、とある。見るなと言われれば読めない漢文も一生懸命読んでみたくなる。
 
「当山日金者。本名久地良山也。此地下赤白二龍交和而臥。其尾漬筥根之湖水。其頭在日金嶺之地底。温泉沸所此龍両眼二耳并鼻穴口中也。」凄い事が書いてあった。日金山の地底に赤白の二匹の龍が交和していて、その尾は筥根の湖水に漬り、その頭は日金嶺の地底に在って、この龍の両眼・二耳・鼻穴・口中から温泉が沸でるという。また「此山地底有八穴道」とあり、一の通路は戸蔵第三重巖穴に通じ、二の路は諏訪の湖水に通じ、三の路は伊勢大神宮に通じ、四の路は金峯山上に通じ、五の路は鎮西阿曾の湖水に通じ、六の路は富士山頂に通じ、七の路は浅間山の嶺に至り、八の路は摂津の住吉神社に通じるとある。修験霊場と全国の神仏とのネットワークの存在を感じさせる。日金山は今の十国峠ケーブルカーが通っている山で、伊豆山神社社伝によると当社は当初は最初日金山(久地良山)に鎮まり、次で本宮山に移り、更に三遷して現在地に鎮座したという。明治になって現在の社名に改称された。
 
伊豆山神社は出発地点の伊豆山浜から本殿まで八百三十七段あるという。幸いなことに車だと本殿横まで上ることが出来る。山頂近くにある本宮は無理でも途中の白山神社までは行こうと思ったが、社務所で聞くと結構大変だという。ここは素直に本殿横の白山神社遥拝所で参拝することにした。
  
 
ここの手水舎に可愛い赤白の二龍がいた。赤は火を、白は水を表しているとのことだった。
 
本殿横の駐車場入口に小泉今日子が奉納した鳥居があった。伊豆山神社と小泉今日子、どんな関係があるのだろうか。
 
左)雷電社 右)結 明神社(日精・月精社)
 
足立権現社(役の小角社)
 
祖霊社(伊豆大権現に仕えた氏人の祖霊を祀る)

近くの伊豆山神社の別当寺でもあった般若院に寄る。
 
 
 
天正十五年(1590)北条氏滅亡により伊豆山権現と共に別当院の密厳院も消亡、その後、家康が高野山より快運を招き、伊豆山別当職に補任し、般若院の称号を与え復興。その後は高野山系の僧が別当職を受け継ぐ。近世の伊豆山は四十八谷供僧十二坊と修験七坊があったという。

 

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箱根神社

2016-03-22 | 小田原

大磯の高来神社(旧高麗権現)に行った。数日後、箱根神社を訪ねた。東海道分間延絵図に高麗山の山頂に高麗権現、その下に伊豆権現・箱根権現が描かれていて、その結び付きは強かったと云う。
 
 
箱根神社のH・P縁起によれば、「人皇第五代孝昭天皇の御代(2400有余年前)聖占上人が箱根山の駒ケ岳より、同主峰の神山を神体山としてお祀りされ、奈良朝初期、天平宝字元年(757)万巻上人は、箱根大神様の御神託により現在の地に里宮を建て、箱根三所権現と称え奉り、仏教とりわけ修験道と習合しました。鎌倉期、源頼朝は深く当神社を信仰し、二所詣(当神社と伊豆山権現参詣)の風儀を生み執権北条氏や戦国武将の徳川家康等、武家による崇敬の篤いお社として栄えた」云々とあり、さらに「明治の初年には神仏分離により、関東総鎮守箱根大権現は、箱根神社と改称された」とある。人皇第五代孝昭(孝照)天皇の御代云々は建久二年(1191)箱根権現別当行実が編纂した「筥根山縁起并序」に箱根山の由来や箱根神社の成り立ちが記載されている。
  
 
 
この本を探したら近代ライブラリー「群書類従巻一の二十五」に載っていた。「原夫扶桑之津、湘江之西、相州西富郡足柄」、一文字目から何て読んだらいいのか解らず、スタートからつまずく。相模に西富や足柄の地名があるが、西富は今の藤沢から平塚附近の古い地名だったらしく、湘江は相模湾一帯を指すとして、原はなんと読むのか解らなかった。字源を見ると、「厂」(がけ)+「泉」で崖から水がわくことを意味し「源」の原字だという。さらに調べると「淮南子」に「原、本也」とあるという。「原夫」は(モトハソレ)とでも読むのかと思っていたら、「原」は(~のもとをたずねるに)という文体だという。結局、よくわからないまま、小田原駅前から箱根に行った。小田急グループの箱根登山バスと伊豆箱根鉄道系列の伊豆箱根バスがあり、箱根一日バスフリー券が安い伊豆箱根バスで行った。この二社のバスフリー券は共通でないため、それぞれのバスにしか乗れず、荷物を持った観光客が戸惑っていたのは気の毒だった。これでは観光地が泣いてしまう。箱根神社に大勢の若い女性が多くお参りしていたのにはビックリした。恋愛運に効果が高いパワースポットだと宣伝しているのだろうか。
(右)箱根権現縁起并序訓読本(箱根神社編集「箱根の宝物」より)
 
箱根権現縁起絵巻荻野政家本(箱根大権現)

神社の宝物館に「筥根山縁起并序」の複製が展示してあった。「原」に(タツネシハ)と訓読みが附ってあった。訓読み筥根山縁起の「もとをたずねれば」という読みでやっと意味が通じた。もう一つ、箱根神社所有の「筥根山縁起并序」には「足柄郷」と郷の文字が入り、神社にある伊勢氏綱(北条)や徳川家康の社殿造営棟札にも相州西富郡足柄郷筥根山東福寺三所大権現とある。明治元年(1868)、神仏分離により別当寺である金剛王院東福寺は廃寺となり、箱根神社と称しているので、相州西富郡足柄郷と云うのは筥根山東福寺三所大権現を表す特殊な地名だったのかも知れない。

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大磯(高麗山 高来神社)

2016-02-18 | 小田原

東京から東海道線に乗り平塚を過ぎ、川(花水川)を渡ると右手に背の高い古墳みたいな山が突然見えてくる。この山が標高167mの高麗山で花水川右岸海岸には唐ヶ原(もろこしがはら)と云う地名も残っている。嘗て、高麗山の山頂に上宮があり、高麗権現社といい、右の峰に白山権現を、左の峰に毘沙門天を勧請して「高麗三社権現」と称した。東海道分間延絵図には伊豆・箱根権現が描かれている。 


風土記稿、高麗寺村(加宇羅以慈牟良)の項に「当村名は、村内高麗寺に因て近く名づくる所なれども、元来旧き唱へにて」として、続日本書紀(延暦十六年(797)完成)に「霊亀二年(716)、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七国の高麗人、千七百九十九人を以て、武蔵野国に移し、高句麗郡を置とあるに拠れば、当国(相模)も其住国たち、さては当時高麗人、此地に屯居せしなるべし故に地名も是に起りし物と云べし」と記し、以前から相模国に渡来人である高麗人が居住していたとしている。
高麗権現社は麓の別当寺の鶏足山雲上院高麗寺と神仏混淆の形態をとっているが神仏分離で明治元年(1868)、高麗寺が廃されて「高麗神社」と改称され、さらに明治三十年(1897)に高来神社(たかく)と改めた。
 
  
平安時代中期に作られた辞書である和名類聚抄十巻(倭名類聚抄)に国名・郡名・郷名を加筆した和名類聚抄二十巻本に、相模国には足上(足辛乃加美)・足下(准上)・餘綾(與呂岐)・大住(於保須美国府)・愛甲(阿由加波)・高座(太加久良)・鎌倉(加末久良)・御浦(実宇良)の各郡があり、今の伊勢原市を中心に平塚市・秦野市・厚木市の一部を含む大住郡の郷名に高来の名があり、読みの註はないが、例に拠れば「太加久」と唱えると風土記稿はしている。
 
神像
       
 
神奈川県神社庁によれば高麗神社は「磯長国造は成務天皇の朝意富鷲意弥命を以て国造と定め給へる事見ゆ。姓子録国造本紀考等に意富鷲意弥命は天津日子根命の第十五世の孫なる由記せり。当社初神の神は此の国造の祖先の系統に係れるは勿論殊に建国の大業を成し給える皇祖の神に坐しませるは則ち此国造等が創祀し奉れるならん。明治三十年三月十五日、高麗神社を高来神社と社号復旧許可せらる」とある。天津日子根命は神道大辞典によれば天照大神と素盞鳴尊との御誓約の際、生まれた五男神中の一人とある。明治になって高句麗人が祀った高麗神社を高来神社とすることで渡来人との関係を断ち切ったのだろうか。
箱根権現縁起絵巻荻野政家本(大磯こうらい山)

金達寿の「日本の中の朝鮮文化」と云う本がある。金氏によれば古代日本文化はほとんど朝鮮から渡来したことになってしまうが、かなり説得力をもっている。高麗神社は高麗王若光の一族、その高句麗系渡来氏族の祖神を祭った神社、寺院だったとして、大磯の横穴墓群を大磯に上陸し定着した高句麗系渡来氏族の墳墓とみなしている。
高麗寺の子院として慶長十八年(1613)に創建された慶覚院が、明治二十三年の大磯町南下の大火で、現在地の高麗寺地蔵堂跡に鶏足山雲上院別当高麗寺慶覚院として移った。この地蔵堂はその昔、遊女虎が草庵を結び、幽居したとも云う。
 
 
国道1号線(東海道)沿いの虚空蔵堂
 

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大磯(善福寺)

2016-02-12 | 小田原

大磯と平塚の境を流れる花水川の傍に親鸞聖人常随の高弟で関東六老僧の一人、平塚入道了源上人創建の龍頭山華水院善福寺がある。寺傳によれば了源は曽我十郎祐成の子で祐若であるという。新編風土記稿では「了源、伊東入道祐親二男、九郎裕清が子にして、裕清木曽義仲の為に討死の後、外祖狩野介に養はれ、伊東四郎祐光と称す」とあり、伊東祐光は伊豆伊東祐親の次男・伊東九郎祐清の子で曽我兄弟とは従兄弟の関係だという。
 
 
平塚入道了源は延応元年(1239)には壗下(まました)(現・南足柄市壗下公民館)にも草庵を結び阿弥陀堂を建立した。当初、この阿弥陀堂は七軒門徒が中心に護持をしていた。大磯山下にあった善福寺が小田原北条氏による一向宗(浄土真宗)の禁制により打ち壊しとなったため、寺基が阿弥陀堂のある壗下に移され相州西之坊善福寺としたと伝わる。
 
東京の麻布にも善福寺がある。ここも了源が開基したお寺かとおもったら、ここは同じ関東六老僧の一人、了海が開基だった。
 
 
麻布山善福寺に福沢諭吉の墓所があるが、相州西之坊善福寺には福沢小学校開校之場(明治三十四年十月十九日開校)の碑があった。明治二十二年の町村合併の折、近くの六ヵ村が集まり、此の地と深い繋がりのある福沢諭吉の承諾を得て、福沢村として、ここに小学校を開設したという。
 
福沢諭吉の親交のあった三田の龍源寺の住職が、明治九年、六十五歳で隠居して、千津島の臨済宗天福寺に住職として移住し、諭吉は度々この寺を訪れたという。山門は小田原城家老職・大久保忠衛の屋敷門を移築したものという。
寺の裏側の小山にある範茂史蹟公園に承久の乱で敗れた後鳥羽上皇側の公卿で近くの川で入水した藤原範茂の墓があった。
 
 

承久記に範茂時世の歌が載っている。
思いきや 苔の下水 せきとめて 月ならぬ身も やどるべきと

さらに風土記稿は大谷遺跡録に「曽我祐成が子と云、三浦郡東浦賀乗誓寺の傳記にも、祐成が子とし、母は大磯ノ虎女、童名祐若河津三郎信之と称すと見えて、其傳へ一定せず」と異説を載せている。東浦賀乗誓寺は開基を了源とし出家前の名を河津三郎信之としている。浦賀の乗誓寺には戊辰戦記「結草稿」を書き残した旧会津藩士、杉浦成忠の墓碑を探しに行った。お寺の説明に文明年間に了源によって平塚阿弥陀寺(平塚3丁目5、浄土宗)が浦賀に移り寛永十四年(1637)に乗誓寺となり、歴代住職は、世襲により継承されており、曽我兄弟十郎の子孫とあり、浦賀に曽我一族の子孫がいるとビックリしたのを覚えている。
 

大磯の善福寺境内に龍頭山と称する岩盤が露出した岩山があり、その斜面に10以上の横穴墓群がある。
 
近くの楊谷寺横穴墓群では七世紀初頭の土師器や後半代の須恵器が出土されており、善福寺横穴墓群も同時代に造られたと推定されている。東は花水川なのでここの横穴墓群はほとんどが西向きに掘ってあった。近くの高麗山の麓には楊谷寺谷戸横穴墓群、石切場横穴墓群、王城山横穴墓群と多くの横穴墓群が残されている。どんな人々が埋葬されていたのであろうか。

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大磯(延台寺)

2016-02-05 | 小田原

延台寺は新島襄終焉之地碑から東京方面に5分程度歩いた国道1号線の海側にお寺の入口がある。ガイドマップを見ると入口は国道1号線の1本海岸側の道から参道が続くようにみえ、裏道を歩いたのでお寺の入口が分からず付近をウロウロしてしまった。
 
江戸時代の東海道絵地図の寺入口に「虎御石」という名物の石が掲載されている。この石が曾我兄弟の兄、十郎佑成の「身代り石」と伝えられる御霊石「虎御石」で、寺の古文書によると「当寺は元法虎庵と称し、虎御前の草庵なり。中古大磯宿の東林の辺虎池に創設ありしを永禄年間(1558年)に今の寺に移す」とあり、朽ち果てた草庵には十郎の想われ人、虎女、すなわち虎御前が兄弟亡き後、十九歳で尼となり、虎御石を兄弟とも思って大切に守り暮らした法虎庵の跡と伝えられており、法虎庵曽我堂には、御霊石として奉安されている。
 
天保十二年(1841)完成した相模国の地誌、新編相模国風土記稿によれば「延台寺 宮経山と号す、法華宗(甲州身延末)、開山日道(本寺十九世、慶長七年十二月十二日寂す)」「虎子石 番神堂中に置く(長二尺一寸、幅一尺許、高四寸五分、青黒色なり、重三十六貫目許)、曽我十郎祐成身代り石と号す、石面に鏃痕あり、其昔十郎祐成、遊女虎が許に通ひし夜、怨嫉の者遠矢をもて射たりしかど、此石其所に飛到り、其矢空しく石に中りて、祐成恙なかりしかば、虎奇として歓び、深く是を愛玩せしとぞ、彼が遺愛の石なるをもて、虎子石と称すと伝ふれども信じ難し、旧は鴫立沢辺に在りしを、廿年許已前爰に移せしと云」と容赦ない。
「江戸時代、高麗寺村の高麗山山頂と高麗権現社があり、その麓の別当高麗寺は鶏足山雲上院と号した。この社内に地蔵堂があり、延命地蔵と唱え、遊女虎が持念佛と云、又腹籠りに弘法作の銅像を安ず、是は曽我祐成が持念佛なりとぞ、堂内に虎が位牌を置く。虎女は建久四年五月、曽我祐成討れし後、尼となりて諸山を巡拝し、後当山に入て草庵を結び、幽居せしと云、按ずるに、此堂は其庵跡ならんか」と新編風土記稿では推測し、さらに高麗寺山の麓、山下村に虎草庵跡、「山下長者宅跡の傍にあり、此所に閑居せしと傳ふれど、既に「曽我物語」には高麗寺の奥に籠りしと云へば、其地方大い違へり、されど此所も高麗寺山下なるが故、地名となると云へば、頓て「曽我物語」に云所も、全く此地なるにや、今詳にし難し」と書き残している。

曽我物語は仇討ちを成就しながら非業の死を遂げた兄弟の霊の思いを霊媒として巫女に語らせその伝承が始まったと言われている。中世、東国と西国の境の山であった箱根山は、死者たちの霊魂がさまよう山であり、曽我兄弟仇討ち「曽我語り」の口承者は、箱根の駒形権現、大磯の高麗権現に係る遊行比丘尼であったという。あちこちに虎と呼ばれる伝説的女性がいたという口伝が各地に残されていったのだろう。
 
大磯宿遊女の墓
 
新編相模国風土記稿の完成は天保十二年、建久四年(1193)に起きた曽我敵討事件の六百年以上も後のことであり、また吾妻鑑の成立時期は鎌倉時代末期の千三百年前後でもあり、こちらも敵討から百年位後の歴史書で、遊行巫女たちが各地に広めた「曽我語り」からいくつもの「曽我物語」出来上がり、各所で口伝として残されていったと思われる。

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