新編相模国風土記稿に浜邊御所についての記述がある。酒匂村の小名に「はんべ」という地名があり「東海道の通衛にて、西の方長一町余(109m余)の所を云、按ずるに「東鑑」に酒匂浜邊御所など見えしは、則此地なるべし」、事は旧蹟の條に詳なりとある。御所蹟は「八幡の社前なり、濶三千坪、白田を開けり、北域に土手の形尚残れり、高六尺、今は瓦屋舗と云、中古此所にて瓦を焼しと云、土人云、源廷尉義経の邸蹟なり」さらに「此地の南東海道の大路をはんべと呼び、はんべより北に折れて爰に至る横街を、もと御所小路と唱へし」という。文中に「文治元年五月十五日、義経内大臣宗盛父子を相具し、酒匂駅に著せしに、義経は鎌倉に入ことを停められ、暫らく此地にありて、六月九日帰洛せし」とある。酒匂浜邊御所の南の東海道大路を「はんべ」と呼び、ここから北に入る横道を御所小路と呼び、八幡神社前で今は瓦屋舗と呼んでいるという。
小田原市史に「いま、八幡神社は酒匂神社(もと駒形神社)に合祀されて存在しないが、もともとは酒匂神社のすぐ西側の、字瓦屋敷(舗) (瓦屋敷は河原屋敷とも記した)付近に鎮座していた」要するに、「宿の西寄り、東海道の北側の、酒匂川の渡渉地点にほど近い自然堤防上の微高地に浜辺御所があったと推定される」としている。さっそく、酒匂神社の近くの浜邊御所を探しにいった。境内にあった酒匂神社の由来によると「原神は、大和朝末期(650頃)大和朝から派遣された統治者が守護神として「八幡社」を祀ったのが最初であり、この頃、 高麗民族が渡米して、先進文化、特に棚織(はたおり)を広め「棚織社(七夕社)」等も祀られていた」また「安久五年(1149)に、箱根権現の富士上人参朝が、 寄進された地[免耕地(現在地)]に、箱根権現を勧請し「駒形社」を祀った」「明治初年に始まるさまざまな神仏分離令により、近くの八幡社を、明治十年四月に駒形社の場所に移して酒匂神社とした」とあった。
同じ境内に教育委員会で行った酒匂神社周辺の酒匂遺跡群発掘の説明板に「約90m西にある、現在の小田原市保健センター周辺にはかって鎌倉幕府の「浜辺御所」という将軍の宿泊・休憩施設があり」とあり、あっさりと酒匂浜邊御所の大まかな場所が判った。教育委員会の酒匂遺跡群の発掘説明と調査地点の図が掲示してあった。
調査地点のNO5では弥生後期の周溝、溝状遺構、NO4では近世鍛冶集落の存在を示す1800kもの鉄を製錬する際に出る不純物「鉄滓・てっさい」が見つかっている。
平清盛三男宗盛・宗父子を連行して鎌倉へ向け七日に京都を出た義経は、文治元年(1185)五月十五日夜、酒匂宿に着いたが、頼朝に鎌倉に入る事を許されず、暫く其邊で留まつよう指示された。此間、義経は酒匂邊で待機していたが、頼朝に拝謁することが叶わず、文治元年(1185)六月九日、前内府平宗盛を連行して京都へ向かった。その時の義経の心情を吾妻鑑は「其恨已深於古恨」と表現している。五月廿四日に腰越駅でいたずらに日を過ごしていた義経は前因幡守廣元に託して嘆願書一通、奉じた。これが世に腰越状と称するもので、風土記稿は「弁慶が書記せしと傳ふれどおぼつかなし」としている。しかもこの腰越は鎌倉の内、「不被入鎌倉中」と云われた義経はどうして腰越で「徒渉日之間」と過ごすことが出来たのだろうか。
鎌倉腰越 満福寺
参考 吾妻鑑(国会刊行会篇 1943)
文治元年(1185)五月十五日丁酉、
廷尉使者景光參着、相具前内府父子令參向、去七日出京、今夜欲着酒匂驛、明日可入鎌倉之由申之、北條殿爲御使、令向酒匂宿給、是爲迎取前内府也、被相具武衛者之所宗親、工藤小次郎行光等云々、於廷尉者、無左右不可參鎌倉、暫逗留其邊、可随召之由被仰遣云々。小山七郎朝光爲使節云々、
文治元年(1185)五月廿四日戊午、
源廷尉義經、如思平朝敵訖、剩相具前内府參上、其賞兼不疑之處、日來依有不義之聞、忽蒙御気色、不被入鎌倉中、於腰越驛徒渉日之間、愁欝之餘、付因幡前司廣元奉一通歎状、廣元雖披覧之、敢無分明仰、追可有左右之由云々、
文治元年(1185)六月九日庚申、
廷尉此間逗留酒匂邊、今日相具前内府歸洛、二品差橘馬允、淺羽庄司、宇佐美平次已下壯士等、被相副囚人矣、廷尉日來所存者、令參關参向東者、征平氏間事具預芳問、又被賞大功、可達本望歟之由思儲之處、忽以相違、剩不遂拝謁而空歸洛、其恨已深於古恨云々