白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(315)芦屋小雁著「笑劇の人生」その(2)

2018-04-27 08:26:31 | 読書
その2
巻き

僕の初めての商業演劇の舞台は昭和49年5月の中日劇場での中日喜劇「どんこな子」「花のお江戸の悪太郎」という芝居で前者が雁之助の作演出で もう一本は小野田勇作 津村健二演出だった 貸し切り公演の日 何かテンポが速いなあと思っていたら1時間チョットの芝居が40分ほどで終わってしまった 製作や営業にはこっぴどく叱られたけど小雁ちゃんに文句を言う前に「判ってる、けどセリフ抜いたか カットは一切してないはずや」と言われた よくよく考えてみると一つのセリフのカットもない 
これについて小雁さんはこのように書いている
「今日の客は食いつきが悪いなと思ったらセリフの数は同じでも30分も巻いて早く終わることもあった どうも全体に笑いが少ない セリフに対するノリが悪いと判断したら芝居中でも指をクルクル回して「巻き」のサインを出す 芝居のテンポを早くしろという合図です 笑いが少ないときはテンポよくパッパッというてあげた方がええんです」

芦屋雁之助のこと


僕と違って雁ちゃんは堅い芝居が好きなんです 基本的に人前では面白いこと言うのに根は居たってマジメ 強いものへの反発心みたいのがあって「お客にも媚びない 使う側にも媚びない」とよう言うてました 
そういうわけで三本立てやったら 一本目は雁平ちゃんら若手の芝居 二本目は僕と雁ちゃんがやる堅い芝居 三本目はお笑いの芝居というふうに構成していました
その二本目の芝居の為にわざわざ自分で池波正太郎さんや司馬遼太郎さんを訪ねて「芝居をやらせてください」とお願いしてましたね 看板は喜劇と出しているけど僕らがやっていたのは真面目な人情喜劇 人間悲喜劇でした この他に当時の喜劇座の台本を書いていた作家の中から藤本義一、茂木草介など後に名を成す作家たちがいました
雁ちゃんも脚本を書くのですがこれが早いこと早いこと そやけど僕の役にあてて ややこしい長いセリフを書いてくるのには困った 稽古で僕がちょっとでもセリフ間違えたら
皆の前でボロクソに怒鳴り散らすんやから困った
雁ちゃんはどっちかいうと「社会派」やった 一度赤旗の時集記事の取材が来た時 そんなのの広告塔になったらあかんと引き留めました でもお客さんとしたらお笑い路線を期待してたのに僕らがやっていたのは真面目なシリアスな劇で 期待外れ
「どうにも北海道やと思たら九州でした」と言うたのをよく覚えています

ブログ(46)芦屋雁之助のこと ブログ(94)優しい目をした戦士の休日 参照

芦屋雁平のこと

雁平は僕と6歳年が離れているし芸能界へ入ったのも遅かった 僕に直接言わなかったけど僕の嫁はんには「芦屋三兄弟の中で上の二人は看板が大きいけど 自分はいつも小っちゃいなあ」とよく言っていたらしい ずっとコンプレックスを持っていたみたいやね
雁ちゃんは本人の前では「何やってんねん」と強いこと言うけど おらんとこでは「雁平はどこへ行っても好かれる ちゃんと仕事をしてる 偉いやつや」と褒めていた そやけど雁平は自分が褒められてるとは知らなかったみたいやね 「ふつうのオヤジさんになりたい 芸能界には定年がない 自分で決めようと思っていた」
そういうて65歳で芸能界を引退したんやけど 平成27年 76歳で兄の僕より先に亡くなった

ブログ(19)思い出カバン 参照

藤田まことのこと

売れっ子になってから雁ちゃんに自分の舞台の演出してほしいとか 脚本を書いて欲しいとか出演してほしいとか僕を通じてよう言うてきたけど雁ちゃんは「そんなもん出られるかい」となかなか首を縦に降らへん デビュー前から雁ちゃんを「オッキイ兄ちゃん」僕を「小っちゃい兄ちゃん」と呼んでた そんな時代を知ってるから自分の方が先輩やというライバル意識があったんやろな そやから僕だけ出ることがようありました(昭和53年7月中座の「必殺仕置き人」が最後の共演である)

中座 貼り紙事件の真相

昭和38年のこと 「笑いの王国」で「土性っ骨」という芝居をやったときのこと
花登筺が初めて書いた根性もの(のちに「あかんたれ」としてテレビドラマ化)
主役は大村崑、雁之助は「阿保ぼん」と言われる憎まれ役で 初日が開いてしばらくした頃 雁ちゃんがスッピンで舞台に出た 
それを聞いた花登さんは怒ってこんな貼り紙をした
「舞台稽古通りに芝居するように 誰とは言わないが舞台化粧もせずに出演している不心得者がいる 絶対に許せん」
そういった内容でした 僕は花登さんのところへすっ飛んで行って「お前、表に出え、話つけよ」と楽屋の外まで引っ張り出して怒鳴り上げた 貼り紙なんて卑怯なことするより
直接本人を呼んではっきり口に出して注意すりゃええやないか そう思ったんです 彼はこの時の僕を「私にとっては小雁君のその時の抗議は狂っているんではないかと思うほど激しかったのだ」と書いているが それほどに僕は怒ってた
花登さんは僕とは仲が良かったから僕に雁之助との仲を取り持ってもらおうと思っていたみたいですね 彼が僕を可愛がってくれたことは間違いないし 劇団の中で一番可愛がってくれていたかも知れない 
 翌年「笑いの王国」は解散する

小雁さんの女のこと

最初の結婚は昭和35年 雁之助や大村崑との合同結婚式の相手で東京から連れて来たデユット歌手で 二人の間には年子の息子も出来た 因みに雁之助の相手はOSミュージックのダンサーの中山某 中山喜久郎、現在の芦屋雁三郎の母親である 雁之助のペンネームの一つに中山十戒がある おそらくここからきている 大村崑は橘瑤子
小雁夫婦は五年ほどで事実上破綻 別居するが離婚が成立したのは昭和61年 その間ディスクジョッキーのAと同棲 半ば夫婦と言ってもいい関係だったが昭和58年 小雁が御園座の舞台で骨折して三か月ほど入院している間に逃げられてしまいました・・とある
この時は僕も傍にいて小雁さんの名古屋のマンションにお見舞いに行くと そのマンションの女性と某日活ポルノ女優とAさん(いかにも本妻というふうに見えた)が仲良く三人で看病しているように見えて驚くやら羨ましいやら思っていたのだが・・・
その後は「娘よ」の巡業で斎藤とも子と出来たことを写真週刊誌にスッパ抜かれて翌年前妻との離婚が成立してすぐ結婚した 小雁さん53歳 斎藤とも子25歳 歳の差28歳の結婚で話題になった 二人の間には一男一女をもうけるが平成7年 離婚 
それから一年後30歳年下の勇家寛子と再再婚 

昭和49年5月僕が初めて中日劇場で芦屋兄弟と仕事をした前の月 芦屋雁之助は梅田コマミュージカルチームのダンサー大島久里子と結婚した


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