芦屋小雁「笑劇の人生」その1
小雁さんが本を出した
「僕らが日夜走り回っていた上方芸能の世界を知る人は今となっては殆ど見当たらなくなってしまいました そこで今回上方芸能の歴史の一コマとして残しておきたいというささやかな望みもあり 僕が今まで見聞きしてきたことを一冊にまとめておくことにしました
よう その歳までスカタンやってきたなあ どうぞ そう笑ってやってください」
そのタイトルは「笑劇の人生」という
僕は小雁さんのことは何でも知っていると自負していたが この本を読むと初めて知ることが多い まさに衝撃の人生だ
師匠のこと 芸名のこと
二人の師匠は漫才の芦乃家雁玉 当時ちゃんとした弟子筋でないと一流の寄席(戎橋松竹、富貴)には出られなかったのでツテを頼って弟子入りした 当時「上方演芸会」の司会で人気絶頂だった 雁玉は笑福亭門下の噺家出身 相方の林田十郎は仁輪加の女形出身 二人のしゃべくりが微妙に食い違うという面白さで人気だった(二人の肉声が残っているが聞いたことのある喋り方だと思っていたら雁玉師匠は芦屋凡々そっくりだった) 二人は弟子入りして「芦乃家雁之助 小雁」の芸名を貰う 後にOSミュージックに出るとき古くさ過ぎると勝手に乃の字を取ってしまって破門されるが有名になって許してもらえた
小雁ギャグ
・・・さらに「笑いの王国」を結成してからは舞台もやるようになった それも昼夜6本立 それにテレビのレギュラーが週に8本もある 芝居の合間にテレビ局に駆け付け生放送をやってまた舞台に戻る もう滅茶苦茶もいいところであった どうやったらそない仰山セリフ覚えられます その頃僕がよくやったギャグがあります 両手をねじり合わせて突然「おかーちゃん おかーちゃん」と奇声を上げて叫ぶんです このギャグはセリフを忘れた時によくやったもので・・・とある
僕もデビュー作「星の砂」でこれをやられた しかも人気絶頂の小柳ルミ子が踊りながら全盆で上がってきて踊りが決まって 満員のお客が万雷の拍手 次の第一声が小雁さんの父親の酋長のセリフを詰まり それをこのギャグで胡麻化された
大宝芸能
僕が不思議だったのは「笑いの王国」以降「喜劇座」でも松竹に籍を置いていた芦屋三兄弟が 僕が入った時は何故 同じ東宝芸能関西に所属していたかということである
これについてはこういう文章がある
「実はその頃 東宝から梅田コマ劇場の裏に劇場を造る計画がある そこで専属に芝居をやってもらいたいという話があった アチャラカとは違う真面目なシリアスな芝居をしたいと思っていたぼくらはこの話に飛びついて松竹を辞め東宝に移った ところがなかなか劇場を造ってくれない 僕らは本拠地もなく大阪、名古屋、東京の劇場を廻っていました」 とある
要するにこの新劇場をエサに東宝に呼び戻したということである
この予定の劇場はボーリング場跡に出来た阪急ファイブ(昭和53年)の中のオレンジルームのことだと推測されるが結局商業劇場は出来ず しかし大阪小劇場運動の拠点となって「そとばこまち」や「新感線」を育てた
浪花千栄子さんのこと
あんまり芝居には出ない人なんですが 僕と雁ちゃんが話し合って出て貰った
浪花さんは暴走するんです 舞台の上でセリフを言いながら乗ってきたら早口の京都弁で
客の喜ぶようなことをどんどん言い続ける こうなったらもう止まりません 僕は彼女の表情を見てて まだやというサインやったら黙ってる OKのサインが出たらやっと自分のセリフをいう そんな感じやったね
松竹新喜劇のこと
新しい役者が欲しかったんでしょうね 僕と雁ちゃんに松竹新喜劇に入らへんかという話があった もし僕らが入っていたら松竹新喜劇はどないなってたかな 雁ちゃんは「芸風」が違うと言って寛美とは一緒に芝居をせんかった
吉本新喜劇について
毎日放送は昭和34年3月に放送を開始を控えていた すでに大阪では読売TV 関西TVが放送を開始していて 毎日は後発組になっていた それに放送会社は毎日新聞の社屋を改造した建物だったのでスタジオが狭かった そこで開局記念番組を吉本と組んでうめだ花月杮落し公演として上演したのが吉本バラエティー「アチャコの迷月赤城山」を放送した これが吉本新喜劇の始まりです
(ずっと後昭和55年12月に梅田コマで上演した「雁之助主演」「僕の脚本」・「むちゃくちゃでござります物語」のラストシーンはこの芝居がモデルになっている)
実は僕ら兄弟は吉本に在籍していたことがある そやけど僕らの芸は吉本とは肌合いが違っていた 僕らはミュージックホールから出て来たいわばコメディアンです コメディアンと芸人の間には少し違いがある というか座長がいて台本があり それに合わせてやっていくのが基本的なスタイルだった吉本は僕らにとって古かった 売れていたので僕らを呼んだんでしょうが 特に雁ちゃんが吉本の芸風が嫌いやったこともあって わずか一年で辞めてしまった 「今の若いもんは辛抱たらん」なんて言われたけど僕らには別の思いがあった 花登さんも同じ考えやったね 要するに戦前までの関西の笑い 吉本とは違ったものをやろう ということで僕らもそれについて行った
以下 その(2)へ
小雁さんが本を出した
「僕らが日夜走り回っていた上方芸能の世界を知る人は今となっては殆ど見当たらなくなってしまいました そこで今回上方芸能の歴史の一コマとして残しておきたいというささやかな望みもあり 僕が今まで見聞きしてきたことを一冊にまとめておくことにしました
よう その歳までスカタンやってきたなあ どうぞ そう笑ってやってください」
そのタイトルは「笑劇の人生」という
僕は小雁さんのことは何でも知っていると自負していたが この本を読むと初めて知ることが多い まさに衝撃の人生だ
師匠のこと 芸名のこと
二人の師匠は漫才の芦乃家雁玉 当時ちゃんとした弟子筋でないと一流の寄席(戎橋松竹、富貴)には出られなかったのでツテを頼って弟子入りした 当時「上方演芸会」の司会で人気絶頂だった 雁玉は笑福亭門下の噺家出身 相方の林田十郎は仁輪加の女形出身 二人のしゃべくりが微妙に食い違うという面白さで人気だった(二人の肉声が残っているが聞いたことのある喋り方だと思っていたら雁玉師匠は芦屋凡々そっくりだった) 二人は弟子入りして「芦乃家雁之助 小雁」の芸名を貰う 後にOSミュージックに出るとき古くさ過ぎると勝手に乃の字を取ってしまって破門されるが有名になって許してもらえた
小雁ギャグ
・・・さらに「笑いの王国」を結成してからは舞台もやるようになった それも昼夜6本立 それにテレビのレギュラーが週に8本もある 芝居の合間にテレビ局に駆け付け生放送をやってまた舞台に戻る もう滅茶苦茶もいいところであった どうやったらそない仰山セリフ覚えられます その頃僕がよくやったギャグがあります 両手をねじり合わせて突然「おかーちゃん おかーちゃん」と奇声を上げて叫ぶんです このギャグはセリフを忘れた時によくやったもので・・・とある
僕もデビュー作「星の砂」でこれをやられた しかも人気絶頂の小柳ルミ子が踊りながら全盆で上がってきて踊りが決まって 満員のお客が万雷の拍手 次の第一声が小雁さんの父親の酋長のセリフを詰まり それをこのギャグで胡麻化された
大宝芸能
僕が不思議だったのは「笑いの王国」以降「喜劇座」でも松竹に籍を置いていた芦屋三兄弟が 僕が入った時は何故 同じ東宝芸能関西に所属していたかということである
これについてはこういう文章がある
「実はその頃 東宝から梅田コマ劇場の裏に劇場を造る計画がある そこで専属に芝居をやってもらいたいという話があった アチャラカとは違う真面目なシリアスな芝居をしたいと思っていたぼくらはこの話に飛びついて松竹を辞め東宝に移った ところがなかなか劇場を造ってくれない 僕らは本拠地もなく大阪、名古屋、東京の劇場を廻っていました」 とある
要するにこの新劇場をエサに東宝に呼び戻したということである
この予定の劇場はボーリング場跡に出来た阪急ファイブ(昭和53年)の中のオレンジルームのことだと推測されるが結局商業劇場は出来ず しかし大阪小劇場運動の拠点となって「そとばこまち」や「新感線」を育てた
浪花千栄子さんのこと
あんまり芝居には出ない人なんですが 僕と雁ちゃんが話し合って出て貰った
浪花さんは暴走するんです 舞台の上でセリフを言いながら乗ってきたら早口の京都弁で
客の喜ぶようなことをどんどん言い続ける こうなったらもう止まりません 僕は彼女の表情を見てて まだやというサインやったら黙ってる OKのサインが出たらやっと自分のセリフをいう そんな感じやったね
松竹新喜劇のこと
新しい役者が欲しかったんでしょうね 僕と雁ちゃんに松竹新喜劇に入らへんかという話があった もし僕らが入っていたら松竹新喜劇はどないなってたかな 雁ちゃんは「芸風」が違うと言って寛美とは一緒に芝居をせんかった
吉本新喜劇について
毎日放送は昭和34年3月に放送を開始を控えていた すでに大阪では読売TV 関西TVが放送を開始していて 毎日は後発組になっていた それに放送会社は毎日新聞の社屋を改造した建物だったのでスタジオが狭かった そこで開局記念番組を吉本と組んでうめだ花月杮落し公演として上演したのが吉本バラエティー「アチャコの迷月赤城山」を放送した これが吉本新喜劇の始まりです
(ずっと後昭和55年12月に梅田コマで上演した「雁之助主演」「僕の脚本」・「むちゃくちゃでござります物語」のラストシーンはこの芝居がモデルになっている)
実は僕ら兄弟は吉本に在籍していたことがある そやけど僕らの芸は吉本とは肌合いが違っていた 僕らはミュージックホールから出て来たいわばコメディアンです コメディアンと芸人の間には少し違いがある というか座長がいて台本があり それに合わせてやっていくのが基本的なスタイルだった吉本は僕らにとって古かった 売れていたので僕らを呼んだんでしょうが 特に雁ちゃんが吉本の芸風が嫌いやったこともあって わずか一年で辞めてしまった 「今の若いもんは辛抱たらん」なんて言われたけど僕らには別の思いがあった 花登さんも同じ考えやったね 要するに戦前までの関西の笑い 吉本とは違ったものをやろう ということで僕らもそれについて行った
以下 その(2)へ
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