白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(431) ミヤコ蝶々「おんなと三味線」

2023-03-06 02:43:23 | 演劇資料

ミヤコ蝶々「おんなと三味線」

 

   昭和51年梅田コマの近く(北区茶屋町1-1 共信ビル) に「蝶々新芸スクール」が誕生した  同時に出来たのが㈱日向企画で松竹芸能から来た野田嘉一郎と云う方が仕切っていた 何故かこの日向企画は東京(乃木坂秀和デジデンシャルビル) にも事務所を構えていて主にTBS系の舞台制作を手掛けていた

この野田さんとは仲良くさせて貰っていた関係でその仕事のお手伝いをさせて貰っていた(参照白鷺だより141 日向企画の頃)  昭和51年に南田洋子と長門裕之夫婦のダブル主演で「極楽夫婦」という作品を九州巡業でやった時蝶々さんが社長の立場で観に来て興味なさげに「ふーん」と言って帰った  蝶々さんにあった芝居なのになあと思っていたので意外だった

長門裕之さんの染丸と石浜裕次郎さんの春団治がマッチ棒を並べて女の数を子供のように比べ合うシーンは何度みても面白かった

この「極楽夫婦」と云うのは1969 年NHK銀河ドラマで亡くなった林家トミさん夫婦をモデルに南田洋子、金田龍之介主演で放送され評判を取ったドラマで原作田辺聖子「でばやし一代」富士正晴「紅梅亭界隈」で茂木草介さんの脚本だった 南田はこのドラマが気に入り茂木草介さんに舞台化して貰っての公演であった 

翌52 年中座の前を通って驚いた  6月公演のポスターを見るとミヤコ蝶々特別公演「おんなと三味線」とあった なんだ蝶々さんはこの芝居を気に入っていたんだ、しかし著作権は大丈夫なのか と心配になって見ると田辺聖子「でばやし一代」より 茂木草介原作 日向鈴子脚色・演出となっていて彼女にとって初めての脚色作でありモデルが存在する作品だった

さてここに「おんなと三味線」のパンフレットが3冊ある トップホット時代からの盟友芦屋凡凡こと中村朋唯さんからお借りしたものだ 昭和53年7月名鉄ホール公演、昭和54年南座だ それに僕がポスターを見て驚いた昭和52年の中座のものもあった

中座の配役は西村晃さんの林家染丸、品川隆二の桂春団治 初恋の相手は本郷功次郎、林家とみさん役は58歳のミヤコ蝶々だ 

名鉄ホールは初演と同じで西村晃さんの染丸、春団治は沢本忠雄 初恋の相手は荒谷公之 

南座公演はいかにも決定版として芦屋雁之助の染丸、小島秀哉の春団治と関西の役者で固めた 二枚目は川地民夫 しかも蝶々さんは紅梅亭の御簾内で出囃子を実際弾くし 雁之助は落語「野崎詣り」のサワリを聞かせたりサービスタップリだった

林家とみ

明治16年生まれ  当時の風習通り6つの年の6月6日から三味線からの稽古を始め、好きこそものの上手で16.7歳の頃から寄席のお囃子部屋に出勤するようになった そこで二代目林家染丸に見初められ夫婦となったのが大正9年.とみさん32歳の時だったというから晩婚であった その時染丸は48歳、もちろん初婚ではなくすでに3人の子持ちであった そして結婚してからも染丸の放蕩は続く しかしとみさんはそんな染丸にまめまめしく仕え貧乏世帯をやり繰りし、そして自らは寄席のお囃子部屋に座り 例えば亭主の十八番の「電話の散財」を演る時は三味線を弾いて夫を助けた

「昔の落語家はんの嫁はんちゅうものは亭主の浮気と金の苦労は付きモンやった 頼りない男やけど自分がついていてやらなければほんまにどうしょうもないような男、そんなグウタラ亭主にトコトンまで付いて行くアホな女のいじらしさ 女として夫を愛して芸人として三味線に打ち込んだそんな女の芝居です」 そう云う蝶々さんだんだん主人公とダブってくる

進行(舞台監督)に堀本太朗さんの弟子で身体が小さかったので「コタロウ」との愛称で呼ばれていた井原共和さんの名前がある この後中座の芝居ではよく助けて頂いた

 

 


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