白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(428)立田豊さんのこと

2023-02-01 11:57:53 | 演劇資料

立田豊さんのこと

1935年昭和10年大阪生まれ

父親は当時引き抜いたワカナ一郎らを擁し破竹の勢いだった(当ブログ 引抜き参照)新興芸能が仕切っていた浪花座はじめ道頓堀のいくつかの劇場の棟梁を務めていた そのような環境に育ちながら彼は。演劇というものを見た事がなかった むしろ建築の仕事がしたくって専門の学校に進み、さる建築会社に就職したが3日で家に帰された そんな彼が初めて生の舞台をみたのは無理やりアルバイトとして連れて行かれた中座のOSKの公演だった 19歳の若い彼が若いダンサーたちが繰り広げる華のような世界に惹かれるのは当然のことだった 当時中座を仕切っていたのは藤田大道具という父親の友人が棟梁をやっている会社でアルバイトが終わって正式に中座に就職させられた(1954年) 

そしてその友人が亡くなり中座の後を父親が継ぐことになった(立田組)

10年ばかりした頃 中座で働きながらこっそり京都太秦にある東映の入社試験を受けたことがある 映画の宣伝の仕事がしたかったのである 試験が受かり「出社日は追って連絡する」と云われて待っていたが一向に連絡が来ない たまりかねて電話すると「母親から断りの電話があった」とのこと 母親が父親に相談してのことだった 親にくってかかると昔から会社にいてる人から「東映に入ったら定年まで只のサラリーマン、ここで働いていたら大将、棟梁にもなれる」と諭された 彼の言ったように1972年父親が亡くなり、3年前「立田舞台」と改めた会社の社長に就任した 

昔で言ったら「家業を継ぐ」と云うことだがOSKの華やかな世界にだまされました

僕が立田さんと初めて会ったのは丁度彼が社長に就任した直後で「よっしゃん」と呼んて親しくして貰った

中座と松竹新喜劇はきっても切れない関係だが数々の寛美さんとの思い出を少々

初日の朝、6時ころ大道具を作成していると いかにも遊び帰りの寛美がやってきて「お前らまだやっとんのか?」と云われ「やらな幕あきまへんがな」といいかえした

松竹芸能勝社長曰く「芝居にはダメがつきものや ダメ出されて嫌な顔するのも解るけど なんぼ嫌でもどうせやらなアカンのやったらニコッと笑って受けんかい ほんなら云うたほうかて気持ええ」

新喜劇がリクエスト狂言をやった時、「大道具も舞台に出て道具飾るのをみせてくれ」と云うので「それはおかしい お客さんに顔晒して大道具を飾るんなら役者になってるわい」といいかえした そしたら寛美が「定式幕の前で俺が喋ってる間に幕の後ろで飾ってくれ」と  渋々承知して幕裏で飾っていたら急に幕を開いて「これが大道具の仕事です」と観客に見せ更にマイクを差し出してインタビューを始めた ペテンにまんまと引っかかりました

平成2年     藤山寛美死去(60歳)  中座にて劇団葬 舞台一杯の藤の花

平成9年 中座閉館

同    松竹座開場 大道具一切を担う

平成18年   社長を長男 薫に譲る 会長に就任

平成24年   文化庁長官表彰

平成29年  日本演劇興行協会 表彰

この文章は興行協会会報に載ったインタビュー記事をまとめました

 


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