天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

島田裕巳著『捨てられる宗教』インド思想「林棲期」同様65歳から札幌過ごし芸術文化学問に触れ納得したい

2021-05-01 15:20:43 | 日記
今日の日記は、今読んでいてとても共感した私と同年齢の島田裕巳著『捨てられる宗教 葬式・墓・戒名を捨てた日本人の末路』で書かれていた「四住期」での心構えの事です。添付した写真は、その著書(SB新書2020年9月刊)の表紙です。
私は、藤沢の自宅を新築した間もない頃(もう30年以上前)、今は別居状態になっている妻から、『生前墓地』を購入するように勧められ、手回し良く墓石(墓誌名は鶴見家と彫る)まで事前に作っています。だから、この著書のサブタイトル『墓を捨てた日本人』には、私は該当しません。
でも、現在の私の夫婦間は、全くの音信不能状態です。だから、私の死後は、より現実的には墓を捨てられた老人になるかもしれないと思い、この著書を購入し今札幌で興味深く読んでいます。そして、とても共感した著書の記述があり、以下にその一部を引用・掲載します。
『インドには、「四住期」という考え方がある。これは、インドの宗教を背景として生まれた考え方である。最初は、経典などを学ぶ「学生期」があり、次には家庭生活を営む「家住期」が訪れる。仕事を続け、子どもを育て上げたところで家庭生活から退き、「林棲期」を迎える。世俗を離れた場所で、静かに瞑想の日々を送るのだ。そして、自らの死を意識するようになった段階で、「遊行期」に入る。この段階では、すでに社会的には死んだものと見なされる。このように、人間は最後、世俗の生活から身を引いて生きる必要がある。世の中を批判的に見ていけば、あらばかりが目立つ。それに一々反応していても、いつまでも生きられるかわからないのだから、無駄で無益なことである。現実に起きたことの原因を探るために学ぶ。そのためには、芸能や芸術、文化や学問にふれておく。大切なのは、世界を理解することである。何かを納得できたとき、私たちは、自分の生が決して無駄なものではなかったことを知るのではないだろうか。』
この宗教学者である島田裕巳氏は、1953年生まれ(私と同年齢)でオウム真理教事件の頃から、私は存知あげていました。でもその著書を読むのは、今回が初めてです。そして、その著者のインド宗教思想「四住期」(季節に準えた五木寛之氏に近い)の説明に、私は強く共感しました。
それは、私は65歳になってまさしくこの著者が指摘する「林棲期」に到達したと、強く得心したからです。私は、【世俗を離れた場所】ではないですが、家庭生活から退き、札幌の地で静かに(注:瞑想の境地には達せず)過ごしています。そして、筆者が勧める「芸能や芸術、文化や学問にふれておく」を同じように実践したいといつも心掛けています。
そして、私自身も【何かを納得できた時、自分の生が無駄ではなかった】との悟りの境地に早く達したいと、今強く思っています。
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