天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

文藝春秋3月号『2・26事件娘の八十年』遺族の渡辺和子氏は黒幕の真崎元教育総監を軍人でなぜ逃げ隠れを

2016-05-21 20:25:02 | 日記
今日の日記は、今自宅で再読している文藝春秋2016年3月特別号に掲載された『2・26事件 娘の八十年:渡辺和子(ノートルダム聖心学園理事長)』で語られた事件の当事者(暗殺された渡辺錠太郎教育総監の娘)だけが言える悲痛な肉声のことです。添付した写真は、その著書の表紙です。
私は、この保阪正康(昭和史研究家)氏との対談を読み直して、人間としての評価は、逃げ隠れをせず自己を貫く信念の有無だと強く確信しました。そして、私の前回の日記で紹介した、臨時総会で理事長経験者の確認を問われ逃げ隠れして、現理事長の質問に完全沈黙した卑怯な男は、80年前の日本陸軍上層幹部にも存在したのだと、今深く得心しました。以下に、私が深く感銘を受けた渡辺和子氏の語りの一部を引用・掲載します。
『私は四人兄弟の末っ子でした。父が53歳、旭川の師団長だった時に生まれた子供でしたので、それは可愛がられました。・・子供の頃の私は劣等生。小学校は学習院を受験したものの、落とされました。でも、父はとても喜んで、「学習院なんかに行くな。それよりも民間の学習院と言われる成蹊に行け」と言ってくれました。・・父はまるで二宮金次郎のような人でした。・・成蹊は風変わりな学校で、小学一年生から論語を素読させたんです。私はそれが好きでした。父は論語の意味を教えてくれました。父が好きだったのは「巧言令色、鮮し仁」でした。・・父が亡くなってから、色々な話を伝え聞きました。私がもし腹を立てるとすれば、父を殺した人たちではなく、後ろにいて逃げ隠れをした人たち(荒木貞夫元陸相・真崎甚三郎元教育総監)です。・・私が本当に嫌だと思うのは、真崎大将が事件直後、青年将校に対し、「君たちの精神は能く判っている」と理解を示しながら、昭和天皇が断固鎮圧をお命じになると、態度を一変させたことです。(真崎は軍法会議では無罪)軍人なのになぜ逃げ隠れなさったのか。そういう思いは今も持っています。・・母は、私が20歳の頃、「和ちゃん、今の天皇さまに決して弓を引いてはいけませんよ。陛下のおかげでお父様の面目が立ったのです」と話していました。・・母によれば、父はよく「俺が邪魔なんだよ」と語っていたそうです。・・私が自分の本を読んでもらいたいと思ったのは、社会でうまく行かず打ちひしがられている人、誰からも大事にされていないと思っている人、会社をやめようと思っている人たちです。・・若い人もそれなりの年の人もスマートフォンばかりやっているのを見ているとこの国の将来は大丈夫だろうかかと怖くなってみます。・・あの日、「和子はお母様のところへ行きなさい」と言った父の言葉で、私は一生分愛されたと思っています。』
渡辺和子氏は累計二百万部のベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』の著者で、昭和59年、マザーテレサ来日の時には通訳を務めたとても立派な宗教家・教育者です。この著書も、とても感銘深い名著です。私は、この著者の父を直接殺した青年将校よりも逃げ隠れをした真崎甚三郎元教育総監の方に抱いている強い憤りが、私の5月7日臨時総会の体験談にもまさしく合致している事に、今再読してとても驚いています。さらに、私が座右の銘にしている論語「巧言令色、鮮し仁」を、渡辺和子氏の父・渡辺錠太郎教育総監も好きだった事を知り、とても嬉しくなりました。
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