天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

『エクソシスト完全版』製作した脚本家W・P・ブラッティを見習い東野圭吾氏も『聖女の救済完全版』製作を

2013-07-06 12:04:04 | 日記
今日の日記は、今読んでいる坂本光著『英国ゴシック小説の系譜「フランケンシュタイン」からワイルドまで』(2013年4月・慶應義塾大学出版会刊)に書かれた映画『エクソシスト』と原作本との違いのことです。添付した写真は、その著書の表紙です。
私は、昔からホラー映画が好きでこの著書のサブタイトル「フランケンシュタイン」に惹かれて、この著書を購買して今自宅で読んでいます。その中で、第2章ユートピアと怪物/『エクソシスト・悪魔祓い』の節で、とても興味深い記述がありました。以下に、その一部を引用・掲載します。
『1973年に公開された映画版では、結末の印象が大きく異なる。この映画はそもそもブラッティの製作になるもので、脚本執筆に加え、監督の選定も原作者みずからが行っている。脚本は原作にほぼ忠実であり、撮影もそれにそって行われた。しかし編集の最終段階で、監督であるフリードキンは大なたを振るい、いくつかの重要なシーンを削除している。その一つがカラス神父とメリン神父の問答で、もう一つが結末部分である。・・いずれのシーンも、信仰をめぐる肯定的なメッセージを伝え、作品をハッピーエンディングへと導く上で不可欠なものだ。・・実際これらの削除は、多くの観客が陰鬱なトーンとたたみかけるようなテンポに引きずられ、結末の意味を誤解する、という結果を引き起こしたのである。この映画は悪魔の勝利によって幕を閉じる、と理解した観客が大多数を占めたのだ。・・2000年に日本で公開された「エクソシストディレクターズカット版」では、プロデューサーであるブラッティの意図をそのまま反映された。1973年版で削除された前述の二つの場面が復活し、映画『エクソシスト』は明らかな怪物退治の物語、異常事態を克服することによって既存の秩序が強化されるという、典型的な怪物物語として再生されたのである。』
私も、この映画を1973年にリアルタイムで劇場鑑賞した観客の一人です。観終わった後、私は、”悪魔は完全に退治されておらず、また誰かに獲り付くかもしれないという強い恐怖感”を抱きました。そして、私は当時、映画鑑賞の後このウィリアム・ピーター・ブラッティの原作を購入して読んでみました。でも、逆に、この著書には、映画に観られるような強烈な闘いでの嫌悪しかつ強い恐怖感を待たず、キリスト教信者でもない私でも、不思議な安心感を抱きながら読むことが出来ました。
それは、<映画では原作本での重要なシーンを削除している>との筆者の指摘の為だったと、私は今強く得心しました。
それに関連して、最近、話題になった有名推理小説、東野圭吾著『聖女の救済』をフジTVがテレビドラマ化(最新ガリレオシリーズ最終回)しました。私はこの原作本を読んでいたので、期待して観たのですが、この犯人設定が原作と大幅に変更・改悪(注:原作はガリレオと面識のない不妊者であるが、TVドラマでは流産経験者の妊娠可能なガリレオ高校同級生になっていた)されていました。
この改悪に、原作者の東野圭吾氏は同意し納得していたのでしょうか?もし、そうだとしたら、私は、彼は彼の作家としての力量・社会での評価より、書籍販売拡大を図る利益増大を優先したのだと、彼に強く失望します。
やはり、私は、小説家・東野圭吾氏にも、「エクソシストディレクターズカット版」を製作させた脚本家・ウィリアム・ピーター・ブラッティを見習い、『聖女の救済・原作完全版』を映画製作するように、その関係者に要請して欲しいです。
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