天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

塩野氏『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』問題意識持つだけ学者と違い政治家は眼前に立ちはだかる課題を解決

2015-06-28 06:28:01 | 日記
今日の日記は、今札幌別宅で読んでいる塩野七生著『皇帝フリードリッヒ二世の生涯(上)』(新潮社・2013年刊)で書かれているとても含蓄に富む当時の法律家と政治家の全く違う役割のことです。添付した写真は、その著書の表紙です。
最近、日本の一部の法学者の「憲法第9条違反」の見解と政府が進めている安全保障関連法案との違いが指摘されていますが、この著書にはその言われなき糾弾を政治の場から排除する、とても深く強い含蓄に富む傍証記述がありました。以下に、その指摘した記述の一部を引用・掲載します。
『法律には、二種ある。第一種は神が作って人間に与えたとされている法で、モーセの十戒やコーランがこれにあたる。第二種は、人間が人間の必要に応じて作った法を指す。代表的なのはローマ法だが、人間が作った法だけに、適応しなくなれば変えていっこうにさしつかえない、いや、変えるべき、とさえ考えられていた。皇帝フリードリッヒと法学者ロフレドが考えていた法は、この第二種に属した。ただし、神の意を伝えるということを大前提にしている教会法が支配的であった中世社会では、既存の教会法とのすり合わせがやはり必要だ。教会法のメッカであったボローニャ大学で教えていた法律の専門家の協力が、フリードリッヒには重要きわまりなかった理由もここにあった。・・キリスト教の考え方が日常生活のすみずみまでを律する社会に生きていながら世俗の法の公正な施行を実現するにはどうすればよいか、という問題意識がこの法学者と皇帝の間にしか存在しなかった。しかし、いかに高尚な問題意識を持っていようと、眼前に立ちはだかる課題を解決していかないかぎり、認められる統治者であり続けることはできない。問題意識を持つだけで充分な学者と、政治家ではそこが違った。』
この「教会法と世俗法との闘い」に関する記述を読んで、この現在の日本の政治状況に照らし合わせてみると、中世教会法=日本国憲法第9条・皇帝フリードリッヒ二世=安倍晋三と思えてきました。一部の第9条厳守を主張する硬直化した憲法学者は、中世教会法の帰属権威法学者であり、安倍内閣は、神聖ローマ帝国の皇帝フリードリッヒ二世の執行機関という構図がぴったりするからです。
そして、いかに高尚な問題意識(憲法第9条)を持っていようと、眼前に立ちはだかる課題(最近の安全保障体制の緊迫化)を解決する必要のない学者と、その課題を克服する必要がある政治家では、その立ち振る舞いが全く違うとの塩野氏の含蓄に富む歴史観に、私は強く共感しました。
だから、安倍首相は、一部マスコミ機関や憲法学者の強い反対に萎縮せず、中世を変革する強い信念があった皇帝フリードリッヒ二世を見習い、頑張って必ず初志貫徹を貫いてほしいです。
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