天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

軍艦島徴用朝鮮人は日本人同様当時最新鋭RC造快適宿舎に居住した事実を現地視察外国研究者から発信依頼を

2015-06-13 10:24:15 | 日記
今日の日記は、韓国が主張する「戦前の韓国人を内地炭鉱への強制徴用」など無かったと主張するの西岡力氏の見解(自著『日韓「歴史問題」の真実』から)です。以下に、今月末ユネスコ世界文化遺産登録の成否に強く関係する「強制徴用」説を、否定したこの著書からその一部を引用・掲載します。
『いわゆる「朝鮮人強制連行」とは、1939年に「国家総動員法」に基づいて作られた「朝鮮人内地移送計画」によって、朝鮮人労働者が朝鮮から日本内地(樺太と南洋を含む)に移送されたことをさす。・・戦時動員が始まる前年の1938年末にすでに80万人の朝鮮人が日本に渡ってきていた。そして、1945年8月にはその数は約200万人に増えた。となると、その差120万人がいわゆる「強制連行」によって日本内地に連れてこられた人口だといえるのか。結論から言うと、それは大きな間違いだ。終戦当時、事業現場にいた朝鮮人労務者は32万2890人だ。(厚生省「大東亜戦争下における勤労状況」より)・・実は、植民地統治時代35年間、とくに、1921年から終戦までの25年間は、朝鮮半島から日本本土へ大量の移住が行われた。つまり、終戦の際の在日朝鮮人人口200万人の八割は戦時動員でなく、自らの意志で日本に渡ってきた出稼ぎ移住であった。また、戦時動員が実施された1939年から1945年の期間にも、出稼ぎ移住は続き、むしろそちらの方が約2倍多かったのだ。・・朝鮮では徴兵も徴用も適用されておらず、若い男性の労働力がかなり残っていた。それが高い賃金を求めて、水が高いところから低いところに流れるように内地に向かった。しかし、彼らは大部分が農民出身であり、規律が厳しく地下での作業となる炭鉱、鉱山を嫌ったのだろう。そして、当時、内地には朝鮮人の親方が取り仕切る日雇いの建設現場での仕事がどこにでもあった。また、戦時動員が行われていた同じ時期に、本土では「不正渡航者」の取り締まりが実施され、1939年から1942年の4年間で、約2万人が摘発され朝鮮に送還されている。この送還こそが、まさに「強制連行」であった。・・徴用現場における日本人と徴用労働者との間の人間関係は、概して良好だった。終戦後、朝鮮に帰る途中に、徴用された工場の日本人寮長に、帰国挨拶に行った朝鮮人徴用者もいた。それくらいその「親切」が身にしみていたということだ。』
西岡氏の主張は、当時の人口統計や公文書・当時の徴用体験者私記等の資料を、正しく引用しており、とても強い説得力があります。そして、ユネスコ世界文化遺産登録候補の軍艦島炭鉱に徴用されただろう朝鮮人らも、日本人と同じ当時最新鋭RC造の快適な宿舎に寝泊まりして、日々の作業していたのです。
逆に、韓国政府に現地・軍艦島を視察してもらい、このRC造構築物の実態(個室・風呂場等間取りを含めて福利厚生対策)を良く知ってもらうことが肝要です。まあ、悪漢国家・韓国は、その歴史的建造物の実体を正しく理解せず、ただ屁理屈をこねるだけでしょうが。
だから、読売新聞解説欄にあった現地調査をした諸外国20か国のRC造研究者らに、韓国の暴論(朝鮮人が強制連行された産業施設)に反論してもらうのが、私は最善の策だと思います。だから、この最善策の早期実行を、日本政府のユネスコ世界遺産登録推進担当者に、私よりお願いしたいです。

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