今日の日記は、今読んでいる塩野七生著『十字軍物語3』(2011年12月新潮社刊)に登場する中世のシチリアのことです。添付した写真は、この著書の掲載された神聖ローマ帝国・皇帝フリードリッヒ二世の領土(ドイツとイタリアの両国にまたがる)を紹介した挿絵です。
私は、塩野七生氏が語る神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ二世の人柄に、とても親近感を抱きました。何故なら、彼は母の領土であったシチリア・ノルマン王国(注:私は去年の南イタリア旅行で現地を訪問しているので良く理解できる)で育ったとても異色な王だからです。以下に、その興味深い記述を著書から引用・掲載します。
『フリードリッヒは、父方からドイツ人の血を、母方からはイタリア化したノルマン人の血を引き、イスラムの文明が今なお濃く残るシチリアで育ったのである。・・成年に達するまでに読み、書き、話すことが自由にできるようになった言語とは、シチリアで育てば日常耳にするアラビア語の他に、古典を読むためのギリシア語とラテン語。それにドイツ語とフランス語とイタリア語の六ヵ国語である。・・シチリアでのキリスト教徒とイスラム教徒の共生は、一神教同士が敵対し合っていた中世という時代を考えれば、別世界のことかと思うくらいに上手く行っていた。・・要するに、フリードリッヒ支配下のシチリアでは、学識や技能に長じたイスラム教徒にとって、キリスト教徒の王なり皇帝なりの支配下に生きる不都合はなかったのである。』
このドイツ皇帝のフリードリッヒ二世は、イタリア人でもとても親近感を持つ国王です。だから、彼が1224年、南イタリア・ナポリに創設した大学の正式な名称が、フリードリッヒをイタリア語読みした”フェデリーコ二世大学”であることを、塩野七生氏は語っています。とても興味深いことですが、イタリア人の名前で多い”フェデリーコ”は、ドイツ語の”フリードリッヒ”だったのです。
また、私が去年訪問したシチリアのパレルモ市街には、この当時のイスラム社会の面影を残す歴史的な建造物が多くありました。その街並みが、イタリアの本土とは何か雰囲気が多少違っていました。だから、このような街で育ったフリードリッヒが、六ヵ国語の言語を話す”国際人”になったのも至極当然のことだと、私は今得心しています。
そして、今は歴史の表舞台に登場することがないシチリアが、900年前の中世には重要な国の一つだったことに、私は今驚いています。この名著『十字軍物語3』を読んでいて、私は再びシチリアを訪れたくなりました。
私は、塩野七生氏が語る神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ二世の人柄に、とても親近感を抱きました。何故なら、彼は母の領土であったシチリア・ノルマン王国(注:私は去年の南イタリア旅行で現地を訪問しているので良く理解できる)で育ったとても異色な王だからです。以下に、その興味深い記述を著書から引用・掲載します。
『フリードリッヒは、父方からドイツ人の血を、母方からはイタリア化したノルマン人の血を引き、イスラムの文明が今なお濃く残るシチリアで育ったのである。・・成年に達するまでに読み、書き、話すことが自由にできるようになった言語とは、シチリアで育てば日常耳にするアラビア語の他に、古典を読むためのギリシア語とラテン語。それにドイツ語とフランス語とイタリア語の六ヵ国語である。・・シチリアでのキリスト教徒とイスラム教徒の共生は、一神教同士が敵対し合っていた中世という時代を考えれば、別世界のことかと思うくらいに上手く行っていた。・・要するに、フリードリッヒ支配下のシチリアでは、学識や技能に長じたイスラム教徒にとって、キリスト教徒の王なり皇帝なりの支配下に生きる不都合はなかったのである。』
このドイツ皇帝のフリードリッヒ二世は、イタリア人でもとても親近感を持つ国王です。だから、彼が1224年、南イタリア・ナポリに創設した大学の正式な名称が、フリードリッヒをイタリア語読みした”フェデリーコ二世大学”であることを、塩野七生氏は語っています。とても興味深いことですが、イタリア人の名前で多い”フェデリーコ”は、ドイツ語の”フリードリッヒ”だったのです。
また、私が去年訪問したシチリアのパレルモ市街には、この当時のイスラム社会の面影を残す歴史的な建造物が多くありました。その街並みが、イタリアの本土とは何か雰囲気が多少違っていました。だから、このような街で育ったフリードリッヒが、六ヵ国語の言語を話す”国際人”になったのも至極当然のことだと、私は今得心しています。
そして、今は歴史の表舞台に登場することがないシチリアが、900年前の中世には重要な国の一つだったことに、私は今驚いています。この名著『十字軍物語3』を読んでいて、私は再びシチリアを訪れたくなりました。