熊野古道と王子社
熊野古道沿いには多くの王子社あるいは王子跡が存在する。トレッカーの中には純粋(?)にトレッキングと割り切って素通りする人もいたが、私はせっかくの機会である。一つ一つの王子社、王子跡を参りながら歩を進めた。
熊野で言う王子とは、熊野権現の御子神だそうだ。
その王子が院政期(11世紀後半から12世紀末)において熊野詣が盛んになったときに、紀伊路(大阪・淀川~紀伊田辺)・中辺路ルートに多数出現したということだ。俗に熊野九十九王子と称されるが、それは実数ではなく「数が多い」という意味で称されているようだ。
その王子社、または王子跡を、今回私は17ヵ所訪れ、参拝することができた。
王子のうち「社(やしろ)」が残っていたり、再建されたりしたのは僅かで、残りは「王子跡」という標石が残っているだけだった。というのも、文献によると院政期が過ぎると王子はあまり顧みられなかったということがあるようだ。(以下、皆さまには面白くもなんともない写真ばかりですが、「社」があったところは社の写真を、王子跡の標石しかなかったところはその標石を羅列します。併せて、各所にあったスタンプを写真の横に配します。)
※ 「熊野古道」中辺路ルートの出発点にある「滝尻王子」社です。
※ 中辺路ルートのスタート間もなくにあった「不寝(ねず)王子」跡です。
※ スタートからおよそ3時間、かなり疲れを覚え始めたころに現れた「大門王子」跡です。
※ 「大門王子」を後にしてから厳しい上りの後に「十丈王子」跡がありました。
※ この日のピークは過ぎ、近露集落が近づいてきたこところに「大坂本(おおさかもと)王子」跡がありました。
※ 第一日目のゴール、近露集落内にあった「近露王子」社です。
※ 近露集落からの険しい上りを終えたころに「比曽原(ひそはら)王子」跡です。
※ 現役の茶屋があったり、近くに民宿(野中集落)があったりと、他とは雰囲気が違った「継桜王子」社です。
※ 「継桜王子」からそれほどいかないうちにあった「中川王子」跡です。
※ 「中川王子」から2キロほど先に行ったところにあった「小広王子」跡です。標石が少し欠けていました。
この辺りのスタンプが残っていないのは、置かれていなかったのか、私が見逃したか、どちらかよく分かりません。
※ 続いて現れた「熊瀬川王子」跡の標石の文字もよく判別できないほど薄れていました。
※ 辛い迂回路を終えて谷間の集落跡がうかがえるようなところにあった「湯川王子」社です。
※ この日の最後の上りの三越峠を越えてしばらく行ったところに表れた「猪鼻王子」跡です。
※ 数多くある王子の中でも「五体王子」と言わる大切な王子の一つ「発心門王子」社です。
※ 人家のある集落内に入ってからあった「水呑王子」跡です。
※ あたりに茶畑が広がり、東屋がしつらえられた近くにあった「伏拝(ふしおがみ)王子」跡です。
※ もう「熊野本宮大社」は目と鼻の先、はやる気持ちを抑えながら写真を撮り、スタンプの捺印をした「祓戸王子」跡です。
特徴的なのは、同じ中辺路ルートでも、第三日、第四日に歩いた小雲取越、大雲取越には王子が一つもなかったことだ。これは院政期に盛んに熊野詣をした後白河上皇や後鳥羽上皇が歩いた紀伊路・中辺路(紀伊田辺~熊野本宮大社)ルートとは別の派生ルートだったためと思われる。
中辺路ルートには、王子ばかりでなく、「乳岩」、「胎内くぐり」といった大きな岩があったり、「高原熊野神社」、「蛇形地蔵」があったりと、見たり、寄ったりするころがたくさんあった。
しかし、小雲取越、大雲取越の方は「百間ぐら」と「円座石」くらいしか見どころというものがなく、その点でも対照的だった。
中辺路ルートにおいて、こうした王子社、または王子跡、その他、神仏習合にまつわる数々の遺跡や史跡が熊野古道を独特の宗教性や神秘性を纏わせ、特異な雰囲気を醸し出してきたものと思われる。
急登の路、石畳など、とても体力のない私はハラハラドキドキで、読ませて頂いたり、
写真を拝見してきました。
そして遥か千年前より過酷な熊野古道を歩かれた方達・・思索させられた次第です。
いずれにしましても、貴兄は確かに山登りのような悪路を幾たびか歩き通されて、
貴兄ご自身、思いで深い貴重な旅路なられた、と私は思いながら貴兄を称賛する次第です。
私のライブレポをご覧いただいていたのですね。ありがとうございます。
憧れの熊野古道でしたが、思いのほか手ごわい山道でした。
しかし、それだけに思い出も一段と深くなったように思います。
熊野古道の魅力を十分に伝えることができるかどうか、その点は不安ですが、いましばらく熊野古道にこだわってみたいと思います。