北海道の歴史は、その時代区分において東北以南の本州とは違う時代区分がなされている。 そのためもあって、考古学的に北海道の文化は独特の発展を遂げてきたとも云える。 私にとっては難しい考古学の話を専門家からお聴きした。
昨日午前、札幌市社会福祉協議会が主催する「わたしの生き方セミナー」の今年度第1回講座が、札幌市社会福祉総合センターで開講されたので受講しました。
第1回講座のテーマは「考古学から探る北海道の歴史~北海道をめぐる古代の交流・交易~」と題して、北海道博物館学芸員(考古学)の鈴木琢也氏が講師を務められました。
昨日午前、札幌市社会福祉協議会が主催する「わたしの生き方セミナー」の今年度第1回講座が、札幌市社会福祉総合センターで開講されたので受講しました。
第1回講座のテーマは「考古学から探る北海道の歴史~北海道をめぐる古代の交流・交易~」と題して、北海道博物館学芸員(考古学)の鈴木琢也氏が講師を務められました。

考古学は私にとっては関心の低い分野なこともあり、さらにはお話がやや専門的でもあったことから十分な理解ができたとは言い兼ねますが、理解できた範囲でレポしたいと思います。
まず、リード文でも触れた北海道と本州の時代区分の違いですが…。
東北以南の本州の時代区分は①縄文時代、②弥生時代、③古墳時代、④古墳時代、⑤飛鳥時代、⑥奈良時代、⑦平安時代、… と続きますが、北海道は少し違った時代区分となっていることは諸兄もご存じのことと思います。 その北海道の時代区分とは…、
①縄文時代、②続縄文時代、③擦文文化時代、④考古学上のアイヌ文化時代、と続きますが、その間、続縄文時代と擦文文化時代の間にオホーツク地方だけに独特の「オホーツク文化」が花開いた時期があります。
こうした時代区分の違いが生じた原因は、東北以南は米作が可能だったため米作中心の生活へと移行していったのに対して、北海道内は米作には不適なために、基本的にはそれまでと同様に狩猟や採集生活が続いたことが最大の原因でした。
さて、今回考察する「擦文文化」ですが、擦文文化の時代は、7世紀後半から13世紀にわたって北海道において栄えた文化とされています。 「擦文」の名前の由来は、土器を作る際に、土器の表面を整えるために木のへらで擦ったことから、その擦った(こすった)文様が残ったことから「擦文文化」と称されたそうです。

考古学の世界においては、7世紀後半から13世紀にわたって栄えた擦文文化をさらに三つに時代区分してその特徴を考察しているそうです。
その三つとは①成立期(7世紀後半から9世紀)、②拡散期(10~11世紀)、③変容期(12~13世紀)、と分けられるそうです。
擦文文化の時代に入り「成立期」には、北東北との交流がそれまで以上に活発となり、土器の様式、墓の在り方、住居の形態などに大きな影響を受け、変化した時代だったようです。
まず土器の様式ですが、北海道が擦文時代にすでに日本は平安時代に入っていたのですが、北東北においては「土師器(はじき)」という素焼きの土器がさかんに作られ、その影響を受けた北海道においては擦文土器が作られるようになったということのようです。 なお、本土では「須恵器」という土師器より高い温度で生成された土器も出回ることになったそうです。 色も土師器が土色なのに対して灰色の土器だったそうで、土師器よりは上級土器とみなされていたようですが、北海道内の遺跡からも発掘されていることからも交流が活発だったことが窺えます。
墓や住居についても本土の影響をうけたことが話されましたが、詳細は省略することにします。
そして「拡散期」に入ると、北東北との交流はますます盛んとなり、「成立期」にはその影響が札幌、石狩あたりに限定されていたものが、全道各地にその影響が拡がりだした時代でした。 道内の遺跡にその痕跡が数多く残っているそうです。
さて、交流が盛んになると、当然対価が求められますが、北海道からは毛皮類や鷲羽、海産物などが交易品として珍重されたそうです。 その中に「鷲羽」というものが含まれていますが、これは読んで字のごとくで、野鳥の鷲の羽根が珍重されたそうです。 本州では得られないオオワシやオジロワシなどの大型の野鳥の羽根が珍重されたということです。

※ 鈴木氏が提示してくれたアイヌが鷲羽を採るための図だそうです。
そして「変容期」に入ると、モノの交流だけではなく、人的交流も始まった証拠が遺跡などを発掘する中で見えてきたと言います。 というのも、この時期(12~13世紀)になると、北東北では平泉藤原氏が勢力を伸ばし、隆盛を究めました。 そうした情勢が北海道との交流にも少なからず影響を与えたことは想像に難くありません。
平泉藤原氏の本拠地だった遺跡からは擦文土器が発掘されたそうですが、使用された土や器の壁が厚いことから北海道の擦文土器とは明らかに違うそうです。 つまり発掘された土器は北海道から運び込まれたものではなく、擦文土器をつくる技術を持った人々が平泉や周辺で制作した可能性が高いというのです。
それに対して、北東北からも技術をもった人たちが海を渡り北海道に渡ったことが考えられ、北海道においても「須恵器」の器が目立つようになったということです。
こうして「擦文文化」はやがて終焉を迎え、「アイヌ文化」と称される時代へと移行していったようです。
「アイヌ文化」がその後、どのように発展したいったか、ついては本講の主たる目的ではありませんでしたので、講座では触れられませんでしたが、本州とは違い「擦文」という文化が北海道において一時期、独特の文化を育んだということは、興味深い事実だと云えるかもしれません。
講演の後の質疑応答のコーナーのところで、「北海道には擦文文化の後に、突然アイヌ民族が出現したのか」という質問がありましたが、鈴木氏は「それまで住んでいた蝦夷地の住民がアイヌの人たちだったのではないか」というようなことを述べられ、私も納得しました。
北海道地史の中で、その点について明示されていないキライもありますが、鈴木氏のように考えるのが自然のような気をしながら質疑応答を聞いていました。
「擦文文化」について、少しだけ分かったような気がしている私です… ・。 ととるため
そして「変容期」に入ると、モノの交流だけではなく、人的交流も始まった証拠が遺跡などを発掘する中で見えてきたと言います。 というのも、この時期(12~13世紀)になると、北東北では平泉藤原氏が勢力を伸ばし、隆盛を究めました。 そうした情勢が北海道との交流にも少なからず影響を与えたことは想像に難くありません。
平泉藤原氏の本拠地だった遺跡からは擦文土器が発掘されたそうですが、使用された土や器の壁が厚いことから北海道の擦文土器とは明らかに違うそうです。 つまり発掘された土器は北海道から運び込まれたものではなく、擦文土器をつくる技術を持った人々が平泉や周辺で制作した可能性が高いというのです。
それに対して、北東北からも技術をもった人たちが海を渡り北海道に渡ったことが考えられ、北海道においても「須恵器」の器が目立つようになったということです。
こうして「擦文文化」はやがて終焉を迎え、「アイヌ文化」と称される時代へと移行していったようです。
「アイヌ文化」がその後、どのように発展したいったか、ついては本講の主たる目的ではありませんでしたので、講座では触れられませんでしたが、本州とは違い「擦文」という文化が北海道において一時期、独特の文化を育んだということは、興味深い事実だと云えるかもしれません。
講演の後の質疑応答のコーナーのところで、「北海道には擦文文化の後に、突然アイヌ民族が出現したのか」という質問がありましたが、鈴木氏は「それまで住んでいた蝦夷地の住民がアイヌの人たちだったのではないか」というようなことを述べられ、私も納得しました。
北海道地史の中で、その点について明示されていないキライもありますが、鈴木氏のように考えるのが自然のような気をしながら質疑応答を聞いていました。
「擦文文化」について、少しだけ分かったような気がしている私です… ・。 ととるため