学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

子どもの可能性

2010-06-13 | 教育
よく「子どもには無限の可能性がある」というような
書き方をしている教育関係の書物などがある。
子どもに無限の可能性があってほしいという願望はわかるが
それは事実ではない。

正確には,
子どもはどんな可能性をもっているかわからないし,
どんな可能性が花開くかわからないというべきであろう。
すなわち,
子どもの可能性は未知ではあるが,
無限であるとは限らないということである。

願望に基づく言説を慎重に排除することで,
より意味のある教育論が形成されるはずである。



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2 Comments

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現場を硬直化させる肯定的な言葉 (l4-80)
2010-09-26 21:02:56
「こどもには無限の可能性がある」という言葉は、「こどもは輝く宝物である」「こどもはみんな素晴らしい才能がある」「子どもひとりひとりの隠れた才能を発掘するのが教師である」と同様に、教育現場で一人歩きしがちな理想論です。よく考えてみると何を言いたいのかよくわからないのだが、こうした無根拠な子ども絶賛論は正面切って反論しにくい空気がありますね。おっしゃる通り「未知」を「無限」という耳障りのよい言葉にすり替えているだけかもしれない。もしかしたら「いろいろ試してみたら、あれもこれも思ったよりはできるかもよ」という軽いノリかもしれない。

 しかしここでいう可能性や才能はいわゆる「あわよくば世に出るエラい人になる」という含みがある気がしてならない。
つまり足が速いとか絵がうまいとか記憶力がよいとか言う長所を生かして、大人になったときに世の脚光を浴びる大人物や有名人や社会的地位の高い人になれるといいなあ、という期待が感じられてならない。

 わたしは自分の子どもの隠れた才能を発掘して世に送り出すのが、学校や教師の仕事や使命だとは思わない。もしかしたら我が子には他人より優れた才能なんかないかもしれない。可哀想だが何も向いてる仕事なんか見つけられずに人生を終わるかもしれない。様々なチャンスに挑戦しても全て失敗するかもしれない。

 そんな悲観的なことを言うな、と世の人は立腹するであろうが、わたしは世に出られなくても失敗しても才能を生かせなくても、たくましくしぶとくしたたかに生きる力を子どもにつけて欲しい。苦難にぶつかっても耐え忍んでいける強い人間になって欲しい。世に出られなくても充実した人生を送れるような、豊かな感性としっかりした価値観を育ててほしい。

 「子どもには無限の可能性がある」という言葉には、子どもの見えない部分に光を当てようとしているように見えて、実は競争社会を生き抜き勝者となるために活躍できる分野を探せ、と言っているような気がする。この論理に煽られて教師たちが狂奔すると、地味で目立たず静かに縁の下で社会を支える立場や仕事に就くことになる子どもたちが、敗者の烙印を押されることにならないだろうか?そうでなくても教師たちは、自分の担任のクラスから、勝ち組の地位を得た教え子が輩出すれば自慢することはごく自然なことである。

 一部の子どもにしか与えられていない才能を発掘するために、教師の全精力を注いでもらっては困る。それはせいぜい一部の子どもにしか反映されない努力である。教育学部で教育心理や教育原理を学んだ教師たちに、子どもたちの隠れた才能を発掘したり育てたりするような才能があるのだろうか?
私たちは教師にそこまで要求できるだろうか?

 要求できないなら、子どもには無限の可能性がある、なんて言われても誰も責任取れないし、教育現場で声高に叫んでも無意味だと思う。

 むしろ私は学校に、誰でも最低限このくらいできれば世の中に出ても困らないよ、という教育をしてほしい。特別な才能のある一部の子どもたちは、その才能を発掘できる専門家にお任せするしかない。

 教育現場で「子どもには無限の可能性がある」などという大鉈を振り回してみても、教師にできることなどほとんどないと思う。日本人のお粗末で薄っぺらい価値観を象徴しているようで、こんな荒唐無稽な理想論を大まじめに語ってるから自殺が減らないんだ!などと一元価値観原因論に飛躍したくなる。

 かくしてわたしはこの言葉に非常に胡散臭さを感じるのである。
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論旨賛同なれど (tsuguo-kodera)
2015-10-05 07:13:48
 決して反論したいわけではありません。誤解しては困りますが、私の話も聞いてください。何時も下らないコメントですみません・
 バドをすると初心者の下手な運動音痴としか見えない中学生も、高校生になると私に勝てるようにまずなります。
 到底バドに向いていないような子でも、です。すなわち若い人は物事を続けていると単調増加のように腕前が上がると信じています。勉強もアナロジーで考えています。
 やれば、続けたら、何処までもあがります。少なくとも60歳ぐらいまでです。伸びる限界は無限。でも発散を考えなくても良いのかも。個々の座標軸で良いのかも。
 確かに収束する点は個々の持って生まれた資質やその後の環境、本人の好きさ加減できまりますが、思いのほかに伸びるのが当たり前です。座標を同じにしなくてもいいのでは。
 継続は力なり、不得手なことを続けたら上手くなります。英語が苦手だから留学する、足が遅いからランニングする、野球が下手だから野球部に入る、そんなクラブ活動教育が主流になってほしいと願って、市民クラブを30年続けました。そろそろ身体が言うことを聞きません。
 いよいよ、よいよいのようです。もう何でも酔い良いになってきたようです。でも不思議なのです。頭はボケてきましたが、このように記事にコメントすることが休憩になり、疲れが飛ぶように感じています。回復するのかもしれません。
 寝ても夢か現実か分からなくなってきました。南無阿弥陀仏が近づいてきたようです。コメントがなくなったら蒸発したと思ってください。
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