「わかる授業」とか「楽しい授業」という言葉が,
さも望ましいもののように子どもたちの前でも
堂々と語られるようになったのは,
よくないことである。
教師が,子どもの前で,
「すべての子どもに分かる授業をします」とか,
「楽しい授業を追求します」とかいうのは,
愚である。
子どもには,
「どんな授業でも,
その授業の中から自分でヒントをつかみ,
自分で分かるまで勉強に励みましょう」,
あるいは,
「勉強をこつこつ続けていけば,
そのなかに楽しさが見つかるものです」と
教師は言うべきなのである。
教師は,
子どものいないところで教材を研究し,
子どもの成長にもっとも有効な教材を準備する。
それは,ただ分かりやすければよい,
楽しければよいというような
単純なものではないが,
良質な教材には,当然分かるためのヒント,
楽しみを見出すことの出来る端緒が含まれている。
しかし,このようなことは,
教師の舞台裏での努力の指針であって,
子どもに対しては,
自分の力で糧をつかむように言っておくべきなのである。
そのあたり,
最近の教師は,
もう少し老練になるべきなのであろう。
さも望ましいもののように子どもたちの前でも
堂々と語られるようになったのは,
よくないことである。
教師が,子どもの前で,
「すべての子どもに分かる授業をします」とか,
「楽しい授業を追求します」とかいうのは,
愚である。
子どもには,
「どんな授業でも,
その授業の中から自分でヒントをつかみ,
自分で分かるまで勉強に励みましょう」,
あるいは,
「勉強をこつこつ続けていけば,
そのなかに楽しさが見つかるものです」と
教師は言うべきなのである。
教師は,
子どものいないところで教材を研究し,
子どもの成長にもっとも有効な教材を準備する。
それは,ただ分かりやすければよい,
楽しければよいというような
単純なものではないが,
良質な教材には,当然分かるためのヒント,
楽しみを見出すことの出来る端緒が含まれている。
しかし,このようなことは,
教師の舞台裏での努力の指針であって,
子どもに対しては,
自分の力で糧をつかむように言っておくべきなのである。
そのあたり,
最近の教師は,
もう少し老練になるべきなのであろう。
賛同します。
私は、授業などを子供に評価させるのは、舞台裏に関与させることになると思うので、賢いやり方だと思えないのです。
つまり、舞台裏での取組をしていない教師があまりにも多かったからではないか?
また、「楽しい授業」では、「楽しい」の意味をはき違えている教師が多かったのではないだろうか?「わっはっは」と分かっているのが楽しい授業でもないし、全員がわかることが楽しいのとも違う。悩み、悔しい思いをすることも楽しさではないだろうか。
授業の評価は、生徒にさせるべきではないですね。授業の評価は、あくまでも教員同士が。お互いの授業をみあい、研究していくべき事ですよね。
子ども達に、評価させるとしたら、自分自身のふりかえりという形でさせるべきでしょう。生徒の自己評価から、授業者は、自分の授業を分析することで己自身を評価すべきかな。
興味深い内容が多く、じっと考えさせられます。勇気を頂いたり、反省させられたり、本当に有り難うございます。
さて、わたし自身も、「わかる授業」「楽しい授業」に違和感があります。(言いつつ、楽しくてわかる授業を志していたりします。)
自分の実体験から考えて、「楽しくてよくわかる授業」って疑問符がついてしまいます。
高校・大学時代を通じて、よく分からないし、楽しくないけれど、心をがっちりとつかむ授業がありました。そして、年齢を重ねていくうちに、その授業をふっと思い出す事があります。高校時代の友人にその話をすると、同感だと申しておりました。
今の基準から見ると、彼らはダメダメ先生だったのでしょう。でも、私の心の中に、いまでもその先生方のお姿が残っています。
授業の中身は全く覚えていませんが、その先生方のこぼしたポツリの一言が心の糧になっています。
私の父は私が部屋にいても全くいつもと同じように問題作りや採点をしていました。
だから私は自然とどんな問題を父が作ろうとしているのか、どの点を評価しているのか、どのような資料を参考にして作っているか、またどの大学の入試問題を評価しているかなど自然と分かってきていました。
数学教育の方向性をはらわたを見て、信じられたわけです。父こそ最高の数学教師だと3人の叔父から耳タコで聞かされていたからです。
私も叔父も父の教え子だったので同じように見ていたでしょう。そして一番父の採点を気にしていて、テストや宿題があると最初に自分の答えを採点してもらっていたのは真ん中の叔父だったそうです。上と下の兄弟が真ん中より優秀な成績だったのか、採点など気にしていなかったようです。
でも、大学入試やその後の仕事で一番世の中から嫌われて、かつ実績を残し、いまでも評価されているのは真ん中の叔父です。今はすでに85歳になったかも。でも毎日今でも現役のように仕事を家でしています。
寝食をけずって論文や本や論評を書いているのに、嫌になる、でもまだ死ねないと言いながら、叔父は今も元気で生きているのです。
身体も弱かった、若い時に一番若死にしそうだった、不養生の叔父が今もばりばり仕事をしながら生きています。中高のときもっと文武両道だった上下の叔父たちは遥か昔にお陀仏になりました。
中学校から大学、さらに現場で世の腸を見て巨大な悪と格闘してきたとしか思えない叔父は日本でただ一人の孤高の人になったように私には思えます。何でも、世の悪を私に教えてくれてきました。人には言えない話ばかりなのです。
私は叔父の優秀さを小学校の時から今まで見聞きして、曲がりなりにも格闘し、世の理不尽さも体験してきました。叔父が教師でもあったわけで素。この生き方ができたのは、小さい時から先生の裏をいろいろ見てきたお蔭でしょう。そしてお蔭で今の自分をほめられているように感じます。
結論です。見たい生徒には舞台裏は見せても良いのでは。もちろん、毎日の特別の指導が必要であり、マス相手では管理人様の論旨の通りになると私も賛同いたします。
このブログの趣旨に沿って考えたら管理人様のこの記事にも賛同せざるを得ません。
だから、この国はもうだめなのでしょう。もつのはせいぜい100年かも。私が知っている学校や学園は10年ごとに大劣化しているように思えるからです。
簡単な管理人様の教えすらできない、したくない先生が多いのが不思議です。またもや南無阿弥陀仏。