学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

すべての教育は強制である

2009-08-18 | 教育
すべての教育は強制である。
そのことに自覚的でなければならない。

その時代時代に応じて,
最善であると思われた内容を,
最善であると思われた方法で,
強制的に被教育者に植え付けていくのが
教育である。

学校教育の場合は,特にその傾向が顕著である。
あくまでも,
その時点で「最善と思われた」内容や方法を
用いるわけであるから,
それが最善でない場合も多々ある。
その失敗の犠牲になるのは,子どもである。

よく,子どもの自主性を尊重するとか,
子どもが自発的に学習するとかいう言い方があるが,
これとても,そのような方向に,
子どもをいやおうなく導いている点で,
強制力が働いている。
ただ,強制であるということに教師が無自覚なだけである。

ともあれ,
学校教育は,どのような理想的な学校であっても,
大人の子どもに対する善意による強制と,
大人の子どもに対する善意による失敗から
まぬかれることはないことを,
少なくとも,教師は自覚しているべきだと思う。





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14 Comments

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Unknown (madographos)
2010-01-23 02:30:34
>通りすがりの学生様。コメントありがとうございます。このエントリーをよくお読みになると分かると思いますが,このエントリーでは,「強制」が「よい」とか「よくない」とかいった価値判断をしているわけではありません。
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Unknown (通りすがりの学生)
2010-01-22 03:49:27
こんばんは。通りすがりです。

・自分から社会が望むことをするように、仕向ける    → 厳密にはこれも強制ですね。

・「いいからやれ!やらないと殴るぞ」         → この強制がよくないというのが現代社会の主流ではないでしょうか?


話は変わりますが、強制はよくないとかなんとかいって、ニートを放っておく親はいけません。
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Unknown (madographos)
2009-09-05 15:27:12
>文月さま。コメントありがとうございます。
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人権侵害をなくしていくことが大切だと思っています。 (文月)
2009-09-05 14:49:37
かわいいお魚ですね。秋刀魚ですかな(笑)
私も、教育には強制力がはたらいているように思います。
教師ではありませんが、madographosさんのおかげで自覚できました。
ありがとうございます。

人権侵害をなくしていけば、強制も幾分かは減らしていくこともできるのでしょうね。
例えば、制服・私服の自由選択、制服の着方(ミニスカート・他校のおしゃれな制服の着用など)の自由など、
服装の自由を保障していけば、憲法で保障されている「自己決定権」という「人権」の侵害をなくすことができ、
制服強制という「強制」をなくすことになると思います。
強制には種類や程度の差があり、いずれにせよ「人権侵害となる強制」が問題なのだと思います。

私は、校則などで、服装の自由を認めないことは「人権侵害となる強制」(幸福追求権・自己決定権の侵害)
であり許されない強制であると考えています。
これは、taketyannさんが言われていますように、教師側の「強制」が生徒の不利益になる場合なのだと思います。
もちろん、違法な他人に迷惑をかけるような服装は禁止しなければなりませんが。
そうでない服装なら認める必要があると思います。
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Unknown (madographos)
2009-08-31 10:39:19
>恐喝との戦い様。コメントありがとうございます。
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Unknown (恐喝との戦い)
2009-08-28 22:33:27
外国の恐喝による歪んだ日本教育。
である事を先生は、
当然認識されてると思います。

子供を毎日騙して続けている事を恥じ、
教師有志同士が結束、真の教育活動を
お願いします。

教育団体を作っても多分、またまた
外人に乗っ取られますからね。

目立たぬよう、草の根ゲリラ戦で
やるしかないでしょう。

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Unknown (madographos)
2009-08-27 20:25:59
>shohei様。コメントありがとうございます。勉強になりました。
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Unknown (madographos)
2009-08-27 20:22:57
>taketyann様。コメントありがとうございます。自分が「強制」を行う者であるという自覚,確かに教師にとって重要なことだと思います。
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ここを説明いただければ (shohei)
2009-08-24 18:54:20
■強制ということばのニュアンスの理解の差があるように思えます。■強制といったって、実際私立学校を選ぶこともできるし、公立学校でもどんどん学区という規制をはずしていますね。■そうした選択の自由をいいだしたらエントリイでお書きになられている強制は意味が異なると思います。おそらくそのような意味でエントリイは書かれているのではない、と思います。職業選択の自由がある、それに相当する学校選択の自由はある、そうしたこと論じているのではないと思いますね。■ハイデガーという哲学者が『存在と時間』という哲学書のなかで、「被投性」という概念を使っているのです。人は、その意志のいかんをとわず、みずからの状況に埋め込まれてしまっている。そこからはじめるよりないそういう状況へとまず投げ込まれている、それは、本人の意志とは関係ない、そこを前提として始めるしかない、そういう存在なのだ、というのです。強制というより、むしろ必然といった方がいい。子供という無力としてまず状況に放り投げられたら、親という存在の、あるいは、それを国家といってもよいのでしょうが、その規制や教育を受けるよりない、という存在として生きざるを得ない、そのようにエントリイは書かれていると私は理解いたしました。ハイデガーは、それを「既在性」とも書いており、そのなかで人は、個別な存在というよりも、一般的な「人Das Mann」として生きなければならないと書いています。■サルトルやポンティはこの議論を前提にさらに人はその状況から外へと出ようとする、と書いています。サルトルはけっきょく、しかし、どの方向へとでようとするのか、という道徳をかけずに生涯を閉じました。いま、ある意味で、強制(ということばをわかったように使いますが)を受けた人間たちが、動物の本能とはことなる、その状況の外へと飛び出ていく、そういう方向性がほとんど見えない、というように私は考えています。
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良くも悪くも (taketyann)
2009-08-23 16:00:42
第一条  教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

教育基本法にはこうあります。これによれば教師は「必要な資質」を身に付けさせ、「心身ともに健康」であるように子どもを教育しなければならないわけです。

つまり国家が行う学校教育というのは、国家が成り立つのに必要な人材を育成することを目的にしているわけで、その過程では当然強制が行われるケースがあるということです。普段は教師も生徒もあからさまな強制を目にすることがないので、無自覚なだけと言えるでしょう。

無論、強制される中身については、子どもにとって利益となるものが多いので、通常は問題となることはありません。「時間を守ること」「字が読めること」「計算を学ぶこと」の重要性を否定する者はいないからです。

しかしもっと微妙なケースになってくると、教師側の「強制」が生徒の不利益になる場合も出てくるでしょう。
その時に自分が「強制者」であり、「権力者」であるという自覚を、教師が持っているかどうかが重要なポイントであるように思います。
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Unknown (madographos)
2009-08-21 08:56:11
>ほり様。コメントありがとうございます。プロ教師の会の方の考え方には共感できるものが多々あります。
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本の紹介 (ほり)
2009-08-21 00:32:44
こんにちは。
諏訪哲二さんの光文社新書「間違いだらけの教育論」に、「すべての教育は押しつけである」とかいう小見出しがあります。
madographosさんのおっしゃる強制とはまた違うニュアンスですが、大変興味深く読みました。僭越ながら、ご紹介まで。
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Unknown (madographos)
2009-08-18 08:24:50
>soba様。コメントありがとうございます。どのような強制力が働いているかを見極めることは難しいことですが,やらなければならないことですね。
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まさしく (Soba)
2009-08-18 08:10:39
その通りです。
生徒に対してどのような強制力が働いているかを理解することが、すべての始まりだと思います。
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