考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / ただし、何らかの明確な「答え」を求める方や、管理人と異なる思考法をされる方には大いに不満が募ることと拝察します。そのような場合は、どうぞ、お立ち去りください。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / 文章に誤字脱字が非常に多く、読みにくいところが多々あります。言葉の使い方が下手なところもたくさんあります。つまり、「悪文」が混ざっているので、かなり高い読解力が必要かもしれません。言葉尻を捉えるのではなく、「主旨」を読み取ってください。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / コメントは、受け付けていない時期がありました。コメントをされる際には、管理人の基本的な考え方をご理解の上、お願いします。 / 管理人からコメントを遠慮してくださいと言われた方は、コメントをしないでください。また、当然のことですが、ハンドルネームは同じものを使ってください。他人と間違えられやすいハンドルネームは使わないでください。/なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

自由英作文の指導

2012年02月23日 | 教育
 もうすぐ入試だものだから、自由英作文や小論文の指導がある。
 けっこう、好きである♪ 
 たくさんの英文を読んで書かせるものは、英文を読むのがめんどーだからあまり好きではないだけの話で、生徒の作文指導は、亀の甲より年の功で、ちゃらちゃら読んでもそれなりにできてしまう(と思っている)。
 英語であっても、文法が正しければ良いというものではない。そこんところは、たぶん、ちょっと「コツ」がいるけれど、私の場合は、ほとんど「ワンパターン」でやってるから問題ない。対策問題集などには事細かな例があるけれど、そんなにたくさん覚えられるわけではないから、それまでに自分が学んできた物をいかにして引き出すか+α、の練習をした方がいいと(勝手に)思っている。だから、生徒によって、言う内容そのものは全く異なるものの、結局は、「どうしたらもっと良くなるか?」と言う指導だけだ。
 でも、結局、それが一番効果的なの、と思っている。その方が応用しやすいからだ。問題は、私の中で「ルーティーン」になってきたこと。生徒によっては「3分間診療」になってしまうが、でも、それで、やっと、自分は、それなりの指導ができるようになったということかなと思ったりしている。
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内田先生は、

2012年02月23日 | Weblog
バリから帰ってエネルギーーを得て、ハイになっているように感じられる。
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読解の極意ー言葉の対比的な関係と重層的な関係

2012年02月19日 | 教育
 ものごとを理解するとき我々は「言葉」を用いる。言葉は事物を表象するが、事物は単独で存在し得ない。すべてが繋がりを持っている。事物をそれぞれ別ものだと捉えるのは人間の恣意である。地域によって、生活集団によって、事細かな物の呼び方が異なるのが好例である。
 言葉の厄介な点は、いったん「言葉」に置き換えられると、言葉は独立して一人歩きをすることだ。「犬」と「猫」と「動物」は、基本的に、すべて対等な扱いを受けるということだ。しかし、ここで重要になるのが、「動物には、犬、猫が含まれる」という理解である。これは、なぜ、どのように、それらの言葉が生まれたかという「事物」そのものに戻らないとわからない。
 文章読解の際の理解力の根源にこれがある。読解の下手な子は、「犬」も「猫」も「動物」も、すべてが対等な対比的なものであると捉える。「犬」、「猫」、「動物」という「切り取られた物」の間隙を埋めるものを想像しないのだ。それぞれの言葉の持つ「繋がり」を捉えないということだ。
 だから、読解力を高める指導をしようと思ったら、徹底的に「言葉が持つ繋がり」の観点で思考させることが肝要になると私は思っている。
 この「繋がり」は、端的に言って、対比的な関係か連続した関係かのどちらかである。もう一つ言えば、そこにどのような次元の違いが関わるかである。この「違い」には微妙な違いがあることも多い。言語化しにくい感性に関わる場合もあると思う。事物はもともとは感性が捉えるものだからそうなる。それでも、まあ、「学校の勉強」レベルの話なら、「なんだか、違う気がする」程度であってもやむを得ないだろうと思う。(これを明解に言語化できたらどこの大学にも入れる。)確実に言えるのは、非常に多くの生徒は、言葉を「繋がり」という観点で見ないせいで勉強が出来ないわけだから、まずは、そこに眼を向けさせることが何より重要だということだ。
 しかし、これが実に難しい。
 それでも、いったんこういった思考法があることがわかれば、後は、その生徒次第である。勝手に伸びていく。
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「私は16歳です。」

2012年02月18日 | 教育
 中学生は、ひょっとしたら小学生も「私は○○歳です。」を英語で言うと I am 〜 years old. と言います、と習うだろう。というか、自分自身、そんな風に教えたことがある。

 しかし、こうした「決まり文句」的な教え方って、間違っているんじゃないのかと思う。
 高校に入って、たとえば「10歳以下の子供」という表現が出てくると、非常に多くの生徒は children under ten years old と表現する。「私は10歳です。」が、I am ten years old. なら、10歳は、ten yrears old だろうから、という発想だ。
 しかし、この表現は、たぶん、もともとが I am old. から来ているはずだ。そのうえで、「どれくらいoldか」という観点で very (old)でもなく、 a little (old) でもなく、ten years (old)だ、ということである。それなのに、under ten years old と表現してしまうのは、oldという形容詞の使い方に無頓着だからだ。be 動詞のあとだからこそ使える表現をなんでも日本語で考えて使ってしまう。
 それに、この表現の間違いは、underという前置詞の後なのに、形容詞を使っていることだ。その矛盾に気がつかない。
 こうしたミスは、決まり文句として I am 数字 years old. を覚えてしまったから起こった。英語が単なる日本語の「置き換え」になったということだ。

 言語を後々まで「きちんと使えるように学ぶ」ためには、決して「置き換え」ではいけない。
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正法眼蔵の諸法・仏法・縁起・不生不滅

2012年02月18日 | 物の見方
 正法眼蔵の現成公案(正法眼蔵のエッセンスらしい)はこう始まるようだ。
「諸法の仏法なる時節、すなわち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり、万法ともわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。」
 「諸法」とは、「あやゆるもの」のことらしい。(これは、本の解説などにあるようだ。)仏法はわからないから、(安直にウェブで)辞書を引いた。「仏の教え」とあるが、なんのことかわからない。「法」も調べると、「掟、秩序維持の規範、一定の手順」などの意味がある。もちろん、「仏教で、仏の教え」「仏教で、存在、現象」「死者を弔うこと」などがある。「諸法」の「法」も「存在・現象」であろう。「法」のこうしたさまざまな意味から類推するに、「法」の本質には「何かが他のものと何らか秩序だって繋がっている状態や状況」があるのではないだろうか。(その観点で「存在・現象」を捉えると非常に興味深い。「仏の教え」という意味は、仏の教えそのものがこうした「法」の本質に則ったものだということだろう。)
 般若心経には「諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得」などあるが、まあ、もともとは同じお釈迦様に由来するから同じだろう。で、普通はこうした文言が何を意味するか、わからない(と私は思う)。で、もう一つ、「縁起」もよくわからない。

 でも、突然ですが、思ったのです。
 仏教で言われる「法」や「縁起」、そこから生起する「不生不滅」などの考え方は、もともとは、生物のクエン酸回路のように、モノが循環する「システム」あるいは「働き」「機能」としてあるものではないか、と。ちょうど、「唇」は存在しても、「口」は機能を表す言葉だから、「口」そのものは存在しない、みたいな。(@養老先生)「縁起」とは、モノが巡り巡って循環する、まさに、その「循環する働き」を指す言葉ではないでしょうか、と。(この考え方は、私が類推する「法」の概念と重なります。)

 そのように考えると、我々でも誰でも、「個物」の存在は、それぞれ「別個のモノ」として存在するものの、我々を形作っている原子や分子、エネルギーの循環など、さらには、思考の伝播のような授受、その他もろもろを「働き」あるいは、他との「循環」が関わるシステムと捉えれば、たとえ我々がそれぞれ個別に生死する存在でありながら「仏法」や「縁起」が常に同様に、自分自身に関わってきます。我々は、個別に存在しながらも、自己以外のものとの繋がりなしに存在できません。この現実を仏教では「仏法」や「縁起」と表現したのではないでしょうか。この意味で、我々は決して仏法や縁起と無縁でいられないのです。巡り巡る「循環」という働きそのものは「我々」を個別に存在させ、生滅させながらにして、「循環」は決して止まることがないと言う意味で同時に「不生不滅」であることになります。
 クエン酸回路は、いつ観察しても固定して物質が存在しているように見えます。この状況が「諸法」として存在する「あなた」や「私」です。しかし、クエン酸回路は、一瞬たりとて、同じ物質がそこに留まっていることがありません。つねに外部とも内部でも、「やりとり」をして恒常的に循環が行われています。その機能や循環というシステムこそが「仏法」や「縁起」に当たるものではないかということです。「循環」は常に、どこででも生じているということです。この意味において、さまざまな場所、形態で生じる現象のすべてが「法」ではないのだろうか。

 ならば、話が早い。

 「循環する機能やシステム」と言う考え方をすると、そこには生もなく死もなく、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。・・」ということになるのは、当然です。

 「仏教」の教えとは、広大な「システム機能論」だったのです。

 数週間前「ためしてガッテン」で、不安を克服する番組をやった。そこに、謎の男性「平井さん」と言う方が出てきて、バンジージャンプに挑戦するが、おなじ挑戦をした番組スタッフと異なり、平井さんは、不安をやり過ごしていた。
 「平井さん」の正体は禅僧だった。平井さんの脳の検査をすると、背内側前頭前野という部位の血流が多いことがわかった。この部位は、不安の感情を生み出す扁桃体の暴走を防ぐらしい。平井さんの場合、これがうまく機能していたため、上手に不安を乗り越えた。
 「座禅によって極度の不安をのりこえることができる」という一種の「生活の知恵」は経験で到達したのでしょう。
 「仏教」が目指すものは、ある意味一部に、(ひょっとして、)通常の意識だけでは到達できない能力の開発も含んだのではないでしょうか。(少なくとも、「修行」はそうだろう。)
 「禅」は、たぶん、「今、ここ」を大事にします。これは、自転車をこぐことを大事にするのと同じような気がします。だって、自転車はこぎ続けないと、倒れてしまいますから。こうした循環・機能を重視することが、まさに、「生きる」ということではないでしょうか。個体としては生死があっても、循環するという機能の観点で、不生不滅になるのです。

 この考えの根底にあるのは、「現象(個物)」と「現象を形作るもの(循環という働きのシステム)」を同次元のにある対比的なものとして捉えず、「重なり合うもの」として捉えたことです。(次元が変わるということです。)「諸法」と「仏法」を、「犬」と「猫」のようにとらえると、決して違いを理解できないでしょう。そうではなく、「犬」と「動物」のように捉えるわけです。犬と動物は、思考の次元が異なるので、異なるものでありながら、「重なり」があるのです。

 「仏法」とは、我々生きとし生けるものは生死ある個別的な存在としてだけでなく、循環機能的な存在として在ることを知らしめる教えではないでしょうか。それで、これを体験的に知ることが「悟る」ことではないかというのが私の仮説です。

 (と、理屈ではわかったとしても、修行の「し」の字も知らない者は、実感としてわかることなんて出来るものでない。)
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人の話を聞く力

2012年02月14日 | 教育
 イマドキの生徒は、授業を聞き取れない。昔は、先生が大事だと言ったことを生徒は自分で聞き取ってメモしていた。でも、イマドキは、黒板に書いたことを写すだけでそれ以上のことをしない。だから、先生たちは、一生懸命にわかりやすく板書をする。板書ですべてがわかるようになる授業が「生徒の学力を付ける授業」だったりする。
 だから、板書は大事だ、と。

 でも、思う。
 生徒が板書しか写さないからなるべく板書を利用するとなると、その教科の学力はそれなりに付くだろう。しかし、人の話の要点を聞き取る能力は果たして養われるのだろうか。この能力を十分に身につけなかったら、彼らが社会に出たとき、彼ら自身も、それに、周りの人たちも、困ることにならないのだろうか。

 私は、謂わば「高校生を定点観測」をしているわけだが、親からもらった能力はさして変わらないと思うのに、聞き取る力は(「も」というべきか。)随分と落ちている。それなりに高い能力を持つ生徒たちであるにもかかわらず、この有様である。この先、十年後の社会であっても、どうなるのだろうか、と思う。

 板書で教えようとする指導は、ある意味、とても「理にかなっている」。実に、時代に即応した教育である。教育は、相手を見ながらなすべきものだ、という原則の通りである。
 しかし、教科の学力は付いたとして、「自分で聞く力」が培われずに「教育」と言えるのだろうか。教科指導の観点でだけ生徒の学力を述べて良いのだろうか。ただ手を掛け、生徒に合わせて学力を付けることは「目先の教育」にならないのだろうか。なるほど、定期試験や、やがては模擬試験で良い成績を取ることはできるだろう。しかし、社会に出てから重要な力は、確かに、学力もそうではあるが、たかが英単語の100や200、300や400を余計に学んだところで、もっと基本的な能力がなかったら、どうなるのだろう。また、学校時代に身につけずして、そうした根本的な能力は、一体、いつ培われるのだろう。
 学校の授業は、何のためにあるのだろう。

 と、つらつら思って、ほりは、「つまんない」「ねむくなる」「あまり板書をしない」、大昔さながら授業を続けるのである。(もちろん、その代わり、「自分で気づく重要性とその方法」は事あるごとに述べている。)
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「人気だ」と「安心だ」

2012年02月13日 | 教育
 ○○ is popular. と言う文があると、生徒は、「○○は人気だ。」と訳す。違和感を感じるから、ついつい「人気がある」と言い直す。先日、NHKのアナウンサーも、「○○が人気です。」と言っていた。私の日本語の感覚だと、「○○は人気がある。」になって、決して「人気だ」にはならない。
 保険のコマーシャルで、「安心です。」と言っている。「安心します。」じゃないのかと思う。
 関係あるのかないのかわからないが、近頃の生徒は、dangerを形容詞だと思っている。「危険だ」も「人気だ」と同様、同じ感覚なのか、形容動詞の感覚なのだろう。「人気」にしても名詞の形容動詞化が進んでいると言うことなのだろうか。
 自分が高校生の時、まともなそれなりの内容の日本語の文章を書いたのは、英語の教科書の和訳だった。あれで、ずいぶん、日本語の勉強をしたものだ。
 「英語の授業は英語で」では、母語の感性は高まらないだろうな。
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can-doリスト

2012年02月09日 | 教育
 Can-Do List を作れという話があるらしい。
 で、たぶん、リストの内容は、単語だったり、表現の数々だったり、場面設定の状況で、何々ができる、何々をする、というのが、ふつーの英語の先生が考えるこの類いのリスト項目だろうと、思ったりする。

 でも、私は、こんなことをしていると、大事な物を見失うと思う。
 今の生徒の学力があまりに低いから、たぶん、そのレベルの「底上げ」を図るために作成し、実行するように促されているのがこのリストだろうが、たぶん、この発想をする人は、申し訳ないけれど、数学が(少なくとも私より)出来ない人だ。

 英語の先生は、特に、英語の達人のような先生は、非常に多く、数学ができない。
 「英語を教えるのなら数学が出来なくても構わないじゃないか」とおっしゃるかもしれないが、そこんところはちょっと違う。
 英語「だけ」がものすごくできる方は、たいてい、極端な語学の才能、言語学的な才能に恵まれて、どういうわけか「言語だけできる」のである。生徒でも、やたら英語は出来るのに数学がからきしダメだという生徒はよくいるから、先生や専門家だって同じだ。つまり、脳みその構造が、発想の仕方が極端に偏っているということだから、そんな人のやり方を平々凡々な人間に当てはめても、まあ、無理であろう。

 私は、すらすら英語が頭に入ってきたわけでない。つまり、言語能力が高くて英語が(それなりに)できるようになったわけでは決してないから、特別な人の習得方法で誰でも英語ができるようになるとは決して思わない。それで、経験的に、出来ない人間ができるようになるためには、秘策?が必要なのだと思う。
 ところが、この秘策?について述べているものはあまりない。
 秘策?は、英語の基本中の基本だから、文法書などに載っているのは載っているのだが、たいていは軽んじられている。(場合によっては載ってない。)

 言語は、特に、日本語話者が西洋語を学ぶには、めちゃくちゃな努力が、発想の転換が必要なのである。で、生徒を見ていても、そこんところが理解できるかどうかが岐路になる。
 うん。
 この壁を乗り越えない限り、まあ、決まり文句のホテルのレセプションの英語止まりだろう。

 CAN-DOリストは、つまるところ、おそらくは、ホテルのレセプション英語を目指すところなのだろうな、と思ったりする。で、そういう英語を求めると、それ以上の英語能力はなかなか育たなくなる。「だって、英語しゃべれるから、これ以上、必要ない」が大半の反応である。
 「うちの子は、小さい頃から英会話学校に行ってるから会話は出来るけれど、学校の英語の成績はてんでダメだ。」は、ちょっと頭の良い子の場合、実は、良くある話である。
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わかって満足症候群

2012年02月07日 | 教育
 「わかりやすいから良い」「とてもわかりやすくて良かった」とまあ、「わかりやすさ」がもてはやされている。授業もわかりやすいと良い評価を受ける。「よくわかった」が最大の評価か。
 授業評価は、授業が終わって直ぐに行われるから、「わかった」という気分が重視される。「この授業を聞いて自分は何が出来るようになったか」とか「自分のどこがどんな風に変化したか」は問われない。「評価」が単なる印象評になっているだけだ。
 というわけで、先生は「生徒が(とにかく)わかるように」、生徒は「わかればそれで良い」とばかりの授業になる。
 その結果、生徒は、授業はわかることが最大限に大事だと考えるようになった。で、授業を聞いて、「わかった」と思ったら、それで満足してしまう。
 本来なら、「わかってからこそが本物の勉強だ」のはずなのに、そうならない。「わかる」のと「体得する」のは全く異なる次元の異なるプロセスを辿ることなのに、せっかくわかったことであってもそれ以上の習得を目指さないから、直ぐに忘れる。学習事項が上っ面になる。それでも、「わかった」という気分は味わっているから、ご本人たちは十分に満足している。「だって、わかったもの。」出来る、出来ないは関係ないのである。覚えているかどうかも関係がない。人の話を聞いて、「あ、聞いたことがある」となったら、「=覚えている」と解釈して、再生や再認が出来なくても、「知っている」ことになる。
 しかし、これでは試験はできない。それでも、彼らは頑固に「わかっている」と思い込んでいるから、あえて、それ以上のことをする必要はない。そんな効率の悪いことはする必要がない、と思っている。

 この先、日本の社会は、どうなるのだろう? 
 日本製の物品は、大丈夫なのだろうか?
 と、ついつい心配になる私の気持ち、わかるよね。
 根拠のない話ではないのですよ。
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階層的な思考法

2012年02月04日 | 教育
 この間、落合(監督)がテレビで、良いことを言っていた。野球は、投げて、打って、捕る(守る?だっけ?)だけだ、とか何とか。私は野球のことは何も知らないのだけど、これって、至言じゃないのかな。「打つ」に関しては、球の芯にバットのスイートスポットを当てる、ということだろう。打てない、というのは、これが出来ないのだ、たぶん。
 野球をやっている人は、たぶん、「言うのは簡単だが、実際にやるのは大変だ」とおっしゃるだろう。それはそうだと思うが、私は、実現がどんなに困難であろうと、野球の基本が「投げる、打つ、捕る」にある、と捉えることこそが、長い道程の大きな道標になると思う。

 勉強の「投げる、打つ、捕る」は、階層的な思考法だと思っている。単純な原理である。でも、これが、数学だの、国語だと、英語、理科、社会、と姿を変えると、まるで「別もの」に見えてくるから、たいていは余計なことを考える。でも、経験的に、頭の良い子は、別ものにしない。この辺が、野球と同じ鍵になると思う。
 困るのは、勉強の基本に位置する階層的な思考の重要性を述べると、かなりの確率で、「いや、そうではない」という反対論に出くわすことだ。この反論は、野球のと違って、つまり「投げる、打つ、捕る」の大変さからの反論と言うより、「勉強には動機付けが必要だ」「志望大学などの具体的な目標を持つことが大事だ」などに形を変えていることが多い。野球なら、「本気で甲子園を目指すつもりで練習することが大事だ」みたいなものか。でも、いくら甲子園を目指そうにも、「投げる、打つ、捕る」の基本から離れることは出来ない。ところが勉強の場合、このあたりが歪曲し、多くの人は勉強の本質を外す。

 勉強が出来ないのは、たとえ、どんなに必要性に迫られてやっても大して能力が伸びないのは、きちんと勉強の「投げる、打つ、捕る」をしてないからだと思っている。勉強の基本たる階層的な思考法を軽視しているのだ。「やってもできない」理由は、ひたすら羅列的な方法をとろうとするからだ。でも、周りも本人もこれに気がつかない。もっとも今の試験問題だと、力任せの羅列も、やっている本人の記憶力が優れていれば、それなり、かなりの効果がある。ここんところに大きな誤解の原因がある。しかし、人間が「言語」を獲得したからには、意識無意識にかかわらず、思考が階層的になっているのは事実なのである。にもかかわらず、否定する論が生じるのは、上記の「力任せの羅列の力」ゆえである。
 正直言って、数年前、十年前だったら、「力任せ」で良かった。ところが、困ったことに、イマドキの高校生にこの方法は極めて通じにくいのである。理由は、おそらく小学校の時から、階層的な思考をほとんど全く体得せずに高校生になったのだ。昔だったら、わざわざ階層的な思考の指導をしなくても、ただ「量」を与えれば、それぞれがそれなりに自分で知識を組み立てて、つまり、階層化して理解してくれた。ところが、近年の高校生は、この訓練が全くと言って良いほど、できていない。できるのは、もともととても頭が良い子だけである。だから、従来の指導は効をなさない。今の高校の先生は、ものすごく「努力」している。それなのに、全国レベルで学力が上がったと言う話を聞かない。(こういうことを言うと「学力の定義が・・」とか「結果をどのように評価するか」など頭でっかちの論評をするのが流行っているようだが、生徒を、若い子を見たときの「お、この子はよくものを知っているな、よくわかって考える」などという評価は、体感的にわかるものだ。だから、グローバル企業は日本人でなく優秀な中国人を採用するのだろう。)

 人間の知的能力、特に思考力の大部分は、どこまで階層的であり得るか、それをどこまで適切に言語化できるか、に掛かっていると思う。この根幹が揺らいでいるのが、昨今の学力低下ではないか。だから、ただの「問題演習」や「試験対策」だけで生徒を指導しても、まあ、あまり効果はない。「効果がある」と言う人は、「どんぐり」状態の階層の集団における相対的な地位をちょこっと上げただけの話だろう。

 というわけで、これからの日本は、世界標準に近づくべく「グローバル化(だって、世界の知的道徳的水準はかなり低い。)」し、居心地が悪くなります。(今までが異常に居心地が良かった、とおっしゃる人は、グローバリストです。)
 荷物が届かなくなり、さまざまな製品には不良品が増え、その損失を補うために、在庫管理、新製品の開発に精を出し、「なんとなく安心できる状態」がどんどんなくなって来るんじゃないのかな、と思ったりします。
 「階層的な思考法の欠如がなぜ、『不良品』になるの?」とおっしゃる人は、人間の思考を理解しない人です。
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