日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

世襲議員撲滅をキャンペーンする新聞はないものか

2009-07-14 19:54:33 | Weblog
解散をすると決めたのなら今日、14日にでもやればいいのに、衆議院の解散は来週になったようである。あれやこれやの気配りで予告解散になったようであるが、麻生総理に吉田茂元首相のDNAが伝わっているなんて嘘っぱちのような気がする。抜き打ち解散でせめて「三代目」の気概を見せて欲しかった。これではただの「くらげ太郎」である。でも、それにしてはこの10ヶ月ほど、よく頑張ったと思う。

麻生内閣が発足した当時、私は国民の多くと同じく選挙管理内閣として受け取っていた。だから麻生世襲議員内閣の発足では

臨時国会で補正予算案の審議が始まり、あとは与党野党のせめぎ合いのなかで野党が解散の口実をさえ与えればこれで総選挙である。世襲議員候補者だけには投票しないようにすれば世の中は大きく変わらざるをえない。世襲議員撲滅に立ち上がろうではないか。
(2008-09-24)

と述べていた。ねじれ国会の生み出す政治混乱に国民が嫌気を募らしていたのである。ところが内閣発足が米国発金融恐慌の発端と時期が重なり、未曾有の金融恐慌の波がわが国をもたちまち巻き込んだために、麻生内閣が「選挙管理内閣」から「金融危機対策内閣」に勝手に衣替えをしてしまった。一日でも長く総理の座に、ともし麻生総理が願っていたとしたら、まさに米国発金融恐慌は天の配剤であった。そして10ヶ月経って、ようやく当初望まれていた本来の働きを果たすことになったのである。

ところで麻生総理になにか歴史に残る失政があったのだろうか。私自身そんなに注意深く世間の動きを見ているわけではないので見逃しているのかも知れないが、とくに悪いという印象が私には無いのである。政治にはとっくの前から失望しているからである。もともと「選挙管理内閣」としての閣僚人選だったのが、たまたま「金融危機対策内閣」に変身したがために、それには器量が及ばず馬脚を現した大臣も何人かいたが、強いて言うならばその任命責任ぐらいのものではなかろうか。紆余曲折を経て、ようやく元来果たすべき役割の国会の解散・総選挙の運びとなったのだから、今回の麻生総理のイニシアチブをまずは諒とすべきであろう。

都議選で民主党に惨敗した自民党に「麻生下ろし」の動きがあるやに聞くが、なんと子供じみた人たちであろう。一部の人たちであろうがこれが選良と言われる国会議員の正体である。顔のすげ替えで国民を瞞着できると思っているところでは、国民の目を節穴とでも思ったか、東国原知事を来たる衆院選に担ぎ出そうとした古賀誠選挙対策委員長(辞意を表明したとのことであるが)と似たり寄ったりである。候補者は自分の才覚で選挙戦の最後まで全力投球すればいいじゃないか。「天はみずから助くる者を助く」である。この情けない面々をマスメディアはぜひ報じて欲しいものである。それだけで議員候補失格であるからだ。

マスメディアと言えば、こういう選挙の時にこそ昔取った杵柄ではないが、「社会の木鐸」を買って出る新聞社が一社ぐらいはないものだろうか。日頃は与えられる材料を各社横並びに報じるだけの没個性的新聞、いずれは読者から見捨てさられる運命にあるのだが、こう云う時こそ起死回生の手を打つチャンスであろう。「世襲議員撲滅」のキャンペーンを始めるのである。私は4年前の日本の近代化は『世襲議員』の廃止からで私なりのキャンペーンを起こしているが、いかんせん非力である。有権者ひとりひとりが世襲議員候補者(と思う候補者)に投票しないように呼びかける、ただそれだけでよいのである。各政党も世襲議員の大量跋扈に危機感を抱いているかのように報じられてはいるが、それを解消するために具体的な手段を講じているところはどこもない。それより手っ取り早いのが新聞によるキャンペーンである。選挙妨害だとかなんとかで法的に規制しようとする動きが出てくる前に「世襲議員撲滅の先頭に立つ○○新聞」のイメージを打ち立ててしまえば勝ちである。そういう新聞社が一社ぐらいあってもいいではないか。日本から世襲議員が消えてしまうまで、もちろん私も喜んで購読者となる。



衆議院は解散・総選挙を 臓器移植法改正案は否決を

2009-07-13 10:12:57 | Weblog
都議会選で民主党が54議席を占めて第一党となり、自民・公明の61議席は非自民・公明の66議席に及ばず過半数割れとなった。共産党が13議席から5議席減らして8議席となったが、場合によってはキャスティングボートを握る要になった。しかし前回同様23議席を維持した公明党が民主党にすり寄っていくと、国政における政界再編のさきがけともなり得るから、これからの都議会の動きに目が離せない。

民主党が13日にも衆院に内閣不信任決議案を、参院に首相問責決議案をそれぞれ提出するのが切っ掛けになって政局が大きく動くことを私は期待する。自民党は国民の審判を受けることなく年替わり首相を出し続けているので、筋としては麻生首相がここで衆議院を解散して総選挙で国民の総意を問うべきである。朝日新聞が今朝の社説「都議選終えて―混沌の出口はただ一つ」で

 逃げずに堂々と国民に信を問う。麻生首相はその初心に立ち返り、解散・総選挙を決断すべきだ。

と主張を明確にしているのはよい。今更自民党の中の動きをあれやこれやと報じられても国民の多くと同じく、私は何の関心もない。自分の意志を表せる機会をただただ待ち望んでいるのである。

一方、今日の参議院本会議で臓器移植法の三つの改正案が採決されようとしている。「自分の身体は自分のもの」という自然のことわりを基本理念としないA案が否決されることを心から願っている。そしてあらためて衆議院での審議は必要とされる事態になったとしても、その時はすでに衆議院が解散でなくなってしまっておれば言うことはない。現行法で十分と私は考えているからである。私の考えは臓器移植法改正が必要? 自分の身体は誰のものなのか臓器移植法改正問題 子供の臓器移植 「あきらめ」もで述べているので、お目通しいただけると有難い。ちなみに、キーワードにもよるのだが、今朝のGoogle検索で前者は1200万件のトップに出てくる。これが国民の総意の反映というわけにはいかないのだろうか。




追加(13日午後1時20分) ネット上で「臓器移植法改正で、子どもからの提供にも道を開くA案が参院で可決、成立」と速報が流れている。いやはや。 

起動までに「君が代」が歌えてしまうFirefox 3.5

2009-07-11 18:50:43 | Weblog
愛用しているプラグインのFirefox 3.5対応版がリリースされたので、最近Firefox 3.5をインストールした。Firefox 3.0の起動が結構遅くなっていたのでスピードアップを期待したが、なんのなんの、Firefox 3.5ではますます起動時間が長くなった。なかなか画面が現れないので、アイコンのクリックが出来ていなかったのかと思い、再度クリックしてもウンともスンとも言わない。しびれを切らしかけた頃、ようやく画面が開いたと思ったら二つも開いている。

あらためてPCを再起動してFirefoxのアイコンをクリックし、「君が代」を藍川由美さん流にゆったりと歌い始めたが、歌い終えてもまだまだ起動しない。これには驚いてしまった。ちなみにOSはWindows XPSP3で、一方、Internet Explorer 8.0は2~3秒で使用可能になる。

Googleで調べてみると書道家ABC版さんのエントリーFirefox 3.5  Windows XPでは使い物にならないが目に留まった。Firefox 3.5の起動に約2分(1分50秒)も掛かると記されている。Internet Explorer 8.0は、約10秒とのこと。少なくともFirefox 3.5の起動に時間がかかりすぎるのが、私だけではないことが分かって安堵?した。

初期のFirefoxの起動はほんとうに速かった。それが第一の魅力でInternet Explorerから切り替えたのに、今や状況が完全に逆転である。何故このようなことになったのだろう。OSのシェアー争いに、競争相手からサボタージュ要員でも送り込まれたのだろうか。


別居・離婚・廃太子?

2009-07-09 17:46:54 | 放言
朝刊に出ていた女性週刊誌の広告にある「別居」「離婚」「廃太子」の文言が目を引いた。皇太子ご夫妻を取り沙汰してのことであろうが、皇室も身近になりすぎたようである。ところが私にもそれに便乗したい気持ちがあるので困ってしまう。

私はかって女帝か後宮制度かで、「天皇家は国民の親愛により存続できるものではない。歴史・伝統に起因する尊崇を受けるからこそ存続できるのである」と述べ、さらに歴史的・伝統的存在としての天皇非嫡出男系男子の皇位継承があってこそあり得たことを強調した。そして後宮制度の復活にまで妄想が及んだが、それはこのエントリーを記した2006年1月21日現在には皇統を継ぐべき男子が皇太子にも秋篠宮にもおられず、秋篠宮妃の悠仁親王ご懐妊もまだ国民の知るところではなかったからである。秋篠宮家に悠仁親王がお生まれになったのは同年9月6日であった。

皇太子ご夫妻に親王がおられない上に雅子妃にご不例があり、そのせいかどうか、皇太子妃としての公の動静が国民になかなか伝わってこないので、その存在感がきわめて希薄である。さらに皇太子も雅子妃の心強きよき伴侶としての一面は印象づけられているものの、その印象が強すぎてか、天つ日嗣の皇子なる皇太子として仰ぎ奉るにはなんとなくためらいがある。

カナダ・ハワイご訪問の天皇皇后両陛下のご出発前の会見で、皇后さまの花束(コサージュ?)を持たれた左手が絶えず小刻みに震えているのを拝見して、なにかご不例でもとの思いにとらわれた。どのようないわれで外国ご訪問となったのかはいざ知らず、元来なら「後期高齢者」の両陛下に成り代わり、皇太子ご夫妻が行かれたとしても、誰一人として奇異に感じる人はいないだろう。ところが現状では天皇皇后両陛下の孤軍奮闘である。両陛下が望んでそうしておられるのかも知れないが、それをよいことにしてとは言葉が過ぎるようが、国民の目に映る皇太子ご夫妻の懈怠さ加減には声を挙げたい思いがある。だからこそ週刊誌の広告に私も便乗するのである。

皇太子が早晩なんらかの決断をされるべきではなかろうか。もし家庭人として雅子妃のご養生を第一義とされるのならそれもよし、皇太子としての桎梏から解放されて専念なさる選択もあり得ると思う。

一年以上前になるエントリーで皇太子さま どうか親孝行をと申し上げたことがあったが、今、あらためて読み返して残ったのは、なんともむなしい思いである。


PiTaPaのICチップが壊れた

2009-07-08 16:23:42 | Weblog
大阪市中央公会堂でテナー米澤傑さんのリサイタルが催された日の朝、阪急三宮駅で9:11分発の梅田行き特急に何とか間に合いそうだと、PiTaPaを改札口のIC読み取り装置にタッチした。9:10分のことである。パタッと扉が閉じて、進入禁止マークが現れた。おかしいなと思い、隣の改札口に移って通ろうとしたが同じことである。9:11分の特急を諦めて改札口の駅員さんに事情を説明したところ、私のPiTaPaをブース内の装置で調べて、シグナルが弱くて何も読み取れないという。サービスセンターに行ってくれとのことなので、改札口を通り抜けて行った。

また時間をかけて調べたが、やはり応答がないとのことで、ICチップが壊れたのでしょうと言う。ちょっと待て、である。PiTaPaを乱暴に扱ったことはないし、現に同じ電磁波シールド・パスケースの裏側に入れている神戸市敬老優待乗車証で、無事地下鉄の改札口を通り抜けたばかりである。ICOCAにはじまりいろんな非接触型ICカードはすでに何年か使っているが、ICチップが壊れたことなんて一度もない。何故だ、と聞きただしたかったが、それよりも機能回復が先決である。駅員さんが、ではカードを作りますから、と申し込み書類を取り出した。それに必要な数項目を記入したところ、駅員さん新しい予備のPiTaPaカードに元来の16桁の数字を打ち込んだようで、その裏面にマジックで名前、会員番号、有効期限を言われるように記入し、5分足らずで「暫定カード」が出来上がった。次の特急にはちゃんと間に合ったので、これには驚いた。

PiTaPaにはICOCAの機能もあって現金でチャージするようにしている。残額が3000円以上あった筈だが、それが0になっている。貰った案内書を見ると、「暫定カード」が利用できるのはPiTaPa機能のみで、2~4週間後に送られてくる「本カード」がすべての機能を引き継ぐとのことである。その際にこれまで使っていたカードに残額があれば、登録している金融機関に返金されるとのことなので残額0を納得した。

それにしても通常の使い方をしていてカードに埋め込まれたICチップが、これほど簡単に破壊されるのだろうか。パスポートのICチップが渡航先の外国で万が一壊れたら、一体どう対応するのだろうとなんだか不安である。ICチップの耐久性の基準がどの程度のものだか知らないが、せめてカードの有効期限内に壊れることがないようにしてほしいものである。

ところで自分の持っている数々のICチップの中身を覗き見したくなったが、パソコンに繋いで使えるような簡単な装置がすでに市販されているのだろうか。金融機関の口座からチャージ(入金)が出来れば言うことなしであるので、一度探してみよう。

追記(7月12日)本日クレジットカード連携のPiTaPaカードがスルッとKANSAIから到着。ちょうど一週間なので思いの外早かった。

臓器移植法改正問題 子供の臓器移植 「あきらめ」も

2009-07-07 19:35:48 | Weblog

作家柳田邦男さんは脳死状態を経て亡くなった次男の腎臓を、移植のために提供した経験をお持ちの方である。その柳田さんが臓器移植法改正案を審議する7月2日の参院厚生労働委員会で、参考人として述べた意見・提言をこの朝日新聞朝刊(7月3日)が紹介していた。この記事の要点を取り上げてみる。

柳田さんは厚生労働省の「脳死下での臓器提供事例に係る検証会議」のメンバーだ。「一例一例見てきて、現実に起こっていることをベースに」と切りだした。

 検証会議は、同法に基づく臓器提供事例81例のうち50余例を検証し、公表してきた。A案を可決した衆院で、こうした検証結果に関する議論はほとんどなかった。柳田さんはまず、「重要な部分が一度も議論されなかったことに大変驚き、懸念を感じた」と国会審議のあり方を批判した。
(強調は私、以下同じ)

 現行制度は脳死を一律には人の死としていない。「ダブルスタンダード」とも指摘される。柳田さんはそのことを否定しない。「一人ひとりの人生と死生観を大事にするという意味では、こうしたダブルスタンダードこそが、新しい文化のあり方であり、日本が伝統的にもっていたあいまいさの良さを残すものだと思う」と述べた。

そして次のように提言する。

 まず、衆院で可決されたA案の内容を踏まえ、「『脳死は一律に人の死』と断言するには、一般の人の意識が成熟したり、社会的な取り組みが発展したりするまで待つべきだ」とした。その上で、A案は、「脳死判定を拒否することが例外的なイメージを持たせている」と指摘。脳死判定を拒否する権利について、「真っ先に法律の条文でうたい、社会的に広く認知すべきだ」と訴えた。

柳田さんの提言は臓器移植法改正が必要? 自分の身体は誰のものなのかで私が述べた考えと理念的に相通じるものがあり、そのことがあって私はとくに強調の部分には強い共感を覚える。柳田さんは、A案は、「脳死判定を拒否することが例外的なイメージを持たせている」 と述べているが、そのならいで言うと、A案は、「臓器提供を拒否することが例外的なイメージを持たせている」 と私は強調しているのである。臓器提供を拒否する権利は明示するまでもなく自然のことわりと思っているが、国民の広い理解を得るために必要とあれば「真っ先に法律の条文でうたい、社会的に広く認知すべきだ」 とすることに、あえて異を唱えない。

柳田さんは、私が強調する臓器提供を拒否する権利までは踏み込んでおられない。繰り返すことになるが、この臓器提供を拒否する権利は上のエントリーで、「自分の身体は誰のものなのか」との問いかけに答える形で出てきたものである。

自分の身体は自分のもの、たとえ家族といえども太古からの自然のことわりを侵す権利はないのである。われわれは自分の臓器が他人に取られることをわざわざ拒否しなければならないという発想自体が自然のことわりを犯していることを心に銘記すべきなのである。自分の身体は誰のものでもない、文字どおり自分のものである。

実はこの考えを受け入れてしまうと、子供から子供への臓器移植が閉ざされている現行法下の状況から、抜け出ることが出来なくなってしまう。柳田さんはこの問題についても、まだ論議が十分になされていないとの立場から、臓器提供を拒否する権利までは踏み込まれていないのだろうと私は思う。

「自分の身体は自分のもの」の自分には、A案にあるように年齢制限のあるはずがない。従って子供からの臓器提供が可能になるのは、年齢の線引きが問題になるにせよ、子供が自分の意志で認めた場合のみである。いかに親といえども、子供に代わり、死んだその子の臓器提供を申し出る権利はないのである。「子供の身体も子供のもの」なのであって、人間である限り「自分の身体は自分のもの」にいかなる例外もあり得ない。現行法はその精神に合致しており、従って変えるべきではないので、A案なんぞはもってのほかと言うことになる。

私が臓器移植法改正が必要? 自分の身体は誰のものなのかで「さるの生肝」の話を引用したのは、子供の臓器移植問題に触れる糸口とするつもりであったので、ここに再度引用する。

さるの生肝(いきぎも) (生きた猿から取り出した肝の意で)世界的に流布している説話の一つ。病気をなおす妙薬といわれる猿の生き肝を取りに竜王からつかわされた水母(くらげ)が、猿をだまして連れて帰る途中、その目的をもらしたために、「生き肝を忘れてきた」と猿にだまされて逃げられてしまい、その罰として打たれたため、それ以後水母には骨がなくなってしまったという内容のもの。

この説話は、私はまだ目にはしていないが、童話絵本にもなっているようである。児童なら読めるだろうし、幼児には読んで聞かせることができよう。子供はどのように反応するのだろう。情操の育まれた子供なら、さるの生肝を取り出すこと自体に嫌悪感を示すのではなかろうか。また、そう感じるように育てるのが親の務めなのである。

臓器移植を待っている子供に、その親がどのように状況を説明するのだろう。まさか「元気な心臓を持ったよそのお兄ちゃんが事故で死んだら、それを貰って入れ替えてあげるから、それまで頑張ってね」なんて直接的な言い方はしないだろう。かりに親が言葉を選んで状況を説明したとして、その子供はどのように反応するだろうか。現状では子供の声が聞こえてこない。まして幼児とは意志の疎通がとれない。幸い臓器移植を受けた幼児が成長して、ある時、自分が他人の心臓で生かされていることを知って、それが原因で心的外傷を蒙る恐れがないと誰が断言できるのか。またその結果に親といえども責任を取り得ないし関与は出来ないだろう。自分の意志を自分の口で表現できない子供に代わって、誰がそれを忖度出来ようか。たとえ臓器を受け取る側であれ、状況を正しく理解でき自分の意志で決定を下せるとみなしてよい年齢まで、臓器移植を行うべきではないと私は考えている。

臓器移植を必要とする子供を抱えた親の心中に、第三者が立ち入ることは出来ない。せいぜい出来るのは、自分が同じような立場に置かれたときに、どのように行動するだろうかと考えを巡らすぐらいである。人それぞれのそれまでに培われてきた人間性のすべてが反映されるはずである。その意味では私のように戦前に生まれた戦中世代には、まだ「あきらめ」の境地を心静かに受け入れようとする心の整理、身の処し方が息づいているように思う。戦時中、五体満足な息子、というより五体満足だからこそ戦場にわが子を兵隊として取られた親の気持ちを慮る下地があるからだ。長年慈しみ育んでいたわが子を赤紙一枚で国に手渡し、遺骨だに手にすることなく子供を亡くしてしまった両親が500万人になんなんとするのである。子供を思う親の気持ちは時代を超えて変わるものではない。戦時中に五体満足であるがゆえに子供を国家に奪いさられたと思う親には、「あきらめ」でしか立ち直る術がなかったのではなかろうか。

「あきらめ」こそ理不尽に対する自己の唯一の救済であるように思う。子供が臓器移植でしか救えないと医者に告げられた親にとって、その宣告は理不尽そのものなのである。そしてあらゆる葛藤をくぐり抜け、「あきらめ」に辿り着けばそこに救いがある。もちろん「あきらめ」をとことん拒否する選択もある。となると残るのは「自分の身体は自分のもの」という自然のことわりとのせめぎ合いである。

現時点で15歳以下の子供で何人ほど臓器移植を必要としているのか、適当なデータが見つからない。参考に出来るのは(社)日本臓器移植ネットワークのまとめた次の移植希望登録者数である。


15歳以下の子供の移植希望者数をこれに加算したからとて、倍増はしないだろう。「自分の身体は自分のもの」とこの移植希望者登録者数とをあえて天秤にかけるとして、国民一人ひとりの総意はどちらの方に傾くだろうか。その国民がそれぞれの結論を下す前に、一つ次のことに心を寄せて頂きたいと思う。

唐突のようであるが、わが国における人工妊娠中絶の実態である。1960年には年間100万件を超える人工妊娠中絶数が、年を経るにつれて減少してきたとはいえ、2006年には276,352件もある。出生100に対する中絶数にすると25.3にもなる。元来人工妊娠中絶は「刑法 第二十九章 堕胎の罪」に問われる犯罪である。それが便法的に母体保護法の拡大適用により免罪されているのが現状で、これだけの大きい工妊娠中絶数になっている。問題はこの中絶件数の大きさもさることながら、たとえ胎児であれ親の意志一つでその生命を葬り去っている現状から、ひいては乳幼児、児童にいたる子供に対しても、「子供の身体は子供のもの」と言う当然の権利に口を挟むことが当たり前と親が錯覚すること、または錯覚させることなのである。

参議院ではA案とA案に対する修正案、さらに対案が審議されようとしているが、これらすべてが廃案となり、現行法の下で年齢にかかわらず「自分の身体は自分のもの」であることを、国民のすべてが素直に受け入れる状況になってほしいと思う。


小川洋子著「ミーナの行進」を読んで

2009-07-06 13:46:24 | 読書

帯の「懐かしさといとおしさが胸にせまる」に、そんな思いにさせて貰えるとは嬉しいこと、とこの本を手にとってみた。

1972年3月15日、主人公の女の子、朋子が小学校を卒業の日に山陽新幹線新大阪―岡山間が開通し、その翌日、彼女は岡山駅から一人で新幹線に乗り新神戸にやって来る。お迎えはベンツを運転してきた伯父さんで、連れて行かれたのは17も部屋のある芦屋の山手に建てられた豪邸、この家に一年間あずけられることになったのである。となるとこれから一年間、そこで展開される彼女の生活をかいま見たくなるのが人情で、この文庫本を買ってしまった。カラーの挿画に私の未だ衰えない想像力がかき立てられたこともある。

 阪急芦屋川駅の北西、芦屋川の支流高座川に沿って、海抜二百メートルのあたりまで山を登った地に屋敷を建てたのは、伯父さんの父親だった。

GoogleEarthで眺めてみると、なるほど、現在は会社の寮とマンションになっているのであるが、それとおぼしき場所が見つかるのが面白い。私も高校生の頃、精道町にあった伯母の家を足場にこの辺り一帯をよく歩き回っていたものだから、その意味でも郷愁を誘われたのである。

朋子が仲良しになるのは一年下の従妹のミーナ、本名は美奈子である。このミーナがある事情で、遙か下の方にある小学校へは河馬の背中に乗って往き帰りするのである。その河馬のポン子をミーナはこう説明する。

「正確に言えば、コビトカバ。偶蹄目カバ科コビトカバ属。普通のカバよりはうんとちっちゃくてかわいいの。おじいちゃまが西アフリカのリベリアから買ってきたんよ。その頃日本の動物園にはまだ一頭もいなくて、車十台分くらいの値段がしたんだって」

朋子とミーナとのふれあいを中心に、朋子の目から見た伯母家族の生活の描写が、今でも御影、芦屋あたりに点在する木立に囲まれた大邸宅でかって繰り広げられていた人生模様をうかがわせるもので、覗き趣味旺盛の私の好奇心を、十二分に満足させるものだった。時代は異なるが「細雪」の醸し出すイメージと重なるところがあるのも面白かった。

こういう話が出てくる。

 一家は六甲山ホテル開業以来の常連だった。特におじいさんが生きている間は、避暑やダンスパーティー、取引先の接待、家族のお祝い事などでしょっちゅうホテルを利用していた。(中略)

「ねえ、どうしてホテルの人が来るの?」
私はミーナに尋ねた。
「おばあちゃまが六甲山ホテルの洋食がお好きやからね。時々、出張して来てもらうの」

私がこの六甲山ホテルをある国際会議に利用したのは、その6年後になるんだなあ、と個人的な感慨を覚えた。昔をたっぷり持っている熟年世代より上のほうが、この本を読む楽しみをじっくり味わえそうである。


幻のテナー 米澤傑さんのコンサート

2009-07-05 16:38:23 | 音楽・美術
米澤傑(すぐる)さんの名前を耳にして久しい。誰かに教えられて、そしてCDが出ているとのことなのでCD店に走ったが見つからなかった。さきほど亡くなった音楽評論家の黒田恭一さんが、これぞ本物のテノールの声と絶賛されているとのことで、黒田さんべったりの私にはそれだけで興味が掻きたてられたが、なんと米澤さんの本職?が鹿児島大学医学部の先生だというので、素人芸とはおよそかけ離れた芸術性の高い本格的なテナーの生の歌声への思いがますます高まった、しかしこれまでそのチャンスがなかった。その米澤さんのリサイタルが7月4日に大阪市中央公会堂であることを歌好きの友人に教えられたので、飛び立つ思いで聴きに出かけた。この中央公会堂はソプラノ佐藤康子さんの歌を聴いた時以来である。主催は「朝の光クラシック実行委員会」で第46回公演、文字どおり午前10時半につぎのプログラムで始まった。


伴奏は今岡淑子さんで、プログラムにもあるようにオペラの「ピアノソロによる間奏曲」を弾いている間に米澤さんが一息継ぐという構成で、全体が休憩で途切れることなくスムーズに流れた。歌はトスティの歌曲で始まった。ついついメロディーを口ずさみたくなるがそれはじっと我慢の子、いや、確かに美しい歌声である。でも米澤さんの声の特徴を掴みかねているうちに、「初恋」と「出船」が続けて歌われた。米澤さんがとくに意識されているのか、日本語が随所で日本人離れの発音になるし、それと同時に少し変わった節回しが入るのでカンツォーネのようにも感じ取れる。そう思ってみると「初恋」も「出船」もカンツォーネのタイトルにぴったりである。その意味でこの「米澤節」は面白くて楽しかった。

圧巻は伸びのあるHi-Cをたっぷり味わえるオペラのアリア編、真っ正面からHi-Cにぶつかっていく気力と迫力、そしてその力強さに女性ならずともうっとりとする。並大抵の精進ではないような気がした。米澤教授の午後の講義に学生として出席してうつらうつらし始めている時に、教授に「誰も寝てはならぬ」で目を覚まささせて貰ったら、もうたまらないだろうなとつい思った。最後のカンツォーネの部ではますますのりがよくなって、思うがままに声を操って聴衆までものせてしまう。いつのまにか熱狂した女性の歓声が大きくなっていた。今回の演奏から総じて米澤さんの歌唱の本領は「力攻め」にあるように感じたが、たとえば「耳に残る君の歌声」ならどう歌われるのか、機会があれば聴いてみたいものである。

実はこのリサイタルの入場料は1000円なのである。ただただ有難い。それなのに?米澤さんはアンコールにカンツォーネを三曲も歌った。締めくくりは「サンタ・ルチア」で、1時間あまりの息を継ぐ間もないほど緊張感の溢れたリサイタルが終わりを迎えた。それにしても米澤さんは羨ましいお方である。学生に医学教育をほどこす一方、声楽では音楽の醍醐味を自ら味わい、さらに多くの人に幸福感を与える。人間としての冥利に尽きるというものだ。

一つ残念なことがあった。ブラボー屋の心なき振る舞いである。とくに歌曲の部、ピアニッシモの余韻がまだ続いている最中に「ブラボー」の一声でぶちこわす。近くにおれば席を立ってでもいちょもんつけに行くところだった。ブラボー屋のべらぼうめ!である。また空席を挟んだ右隣の見かけは上品なご婦人が、演奏が始まるとごそごそと扇を取り出し、パタパタと始めたのには驚いて、米澤さんが舞台裏に一時引っ込んだ折りに「恐れ入りますが、演奏中の・・・」とお願いし、扇子の使用を止めていただいた。うるさすぎだったかな?

演奏会のあと会場ホールでCDを購入して米澤さんにサインして頂いた。ミーハーついでに、ちょうどお昼時だったので、中央公会堂のレストランで美味しい「オムライス」を頂く。土曜の半日、とにかく楽しかった!




鳩山民主党代表を待つのが罰金刑に公民権停止であれかし

2009-07-01 15:08:05 | 放言

今日の朝日朝刊第一面トップの見出しである。この見出し通りだとすると、これは明らかに政治資金規正法違反(虚偽記載)にあたる。政治資金規正法第6章罰則のうち、第25条を見てみる。

第25条 次の各号の一に該当する者は、5年以下の禁錮又は100万円以下の罰金に処する。
 1.第12条又は第17条の規定に違反して報告書又はこれに併せて提出すべき書面の提出をしなかつた者
 1の2.第19条の14の規定に違反して、政治資金監査報告書の提出をしなかつた者
 2.第12条、第17条、第18条第4項又は第19条の5の規定に違反して第12条第1項若しくは第17条第1項の報告書又はこれに併せて提出すべき書面に記載すべき事項の記載をしなかつた者
 3.第12条第1項若しくは第17条第1項の報告書又はこれに併せて提出すべき書面に虚偽の記入をした者

2 前項の場合(第17条の規定に係る違反の場合を除く。)において、政治団体の代表者が当該政治団体の会計責任者の選任及び監督について相当の注意を怠つたときは、50万円以下の罰金に処する。

私は法律の専門家ではないので、この強調部分、とくに「相当の注意」がどの程度の注意なのか判断がつかないが、市民感覚では会計責任者(実務担当者)が政治資金を横領するなど私腹を肥やすような個人的犯罪を犯した場合はともかく、日常の会計処理が不適切であることを見抜けなかった場合は、明らかに「相当の注意」を怠ったことになる。事実、上の新聞記事によると鳩山氏は監督責任をこのようにはっきり認めている。

虚偽記載の事実については「寝耳に水だった」と説明。自らの責任に関しては「監督責任は当然ある」としたが、「説明責任を果たしていく中で代表としての職責を全うしたい」と語った。

小沢氏とは大違いで、虚偽記載と監督責任をはっきり認めているのであるから、これで鳩山代表自身も政治資金規正法に違反したことになり、起訴されて罰金刑の有罪判決が下されると公民権が停止され、被選挙権を失う可能性が出てきた。私は以前から世襲議員の廃止を日本の近代化は『世襲議員』の廃止から「議員世襲制度廃止」を再び!などで呼びかけているが、このようにして一人でもよいから世襲議員が消え去ることを衷心より望む次第である。

それにしても鳩山氏の掲げる旗印「友愛」のなんと浅薄なことよ。企業献金を廃止して個人献金の拡充を打ち出している民主党。その中心幹部である鳩山氏の意を汲んでか、死人の名前まで借りる秀逸なアイディアで鳩山氏への個人献金の多さを際立たせる功績のあった20年来の秘書、いわば股肱の臣を、家来の罪は主である自分の罪と親身になって庇うどころか「実務担当の秘書が一人でやった」と冷たく突き放し、自らの保身のために早々と解雇する始末である。これが鳩山氏の唱える「友愛」の正体であることを自らの行動で世間に広く知らしめたことだけは評価出来る。こういう口先政治家の言葉にころりとだまされるほど日本国民は愚かではないことが、まだこういう世襲議員にはお分かりでないようだ。