日々是好日

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臓器移植法改正問題 子供の臓器移植 「あきらめ」も

2009-07-07 19:35:48 | Weblog

作家柳田邦男さんは脳死状態を経て亡くなった次男の腎臓を、移植のために提供した経験をお持ちの方である。その柳田さんが臓器移植法改正案を審議する7月2日の参院厚生労働委員会で、参考人として述べた意見・提言をこの朝日新聞朝刊(7月3日)が紹介していた。この記事の要点を取り上げてみる。

柳田さんは厚生労働省の「脳死下での臓器提供事例に係る検証会議」のメンバーだ。「一例一例見てきて、現実に起こっていることをベースに」と切りだした。

 検証会議は、同法に基づく臓器提供事例81例のうち50余例を検証し、公表してきた。A案を可決した衆院で、こうした検証結果に関する議論はほとんどなかった。柳田さんはまず、「重要な部分が一度も議論されなかったことに大変驚き、懸念を感じた」と国会審議のあり方を批判した。
(強調は私、以下同じ)

 現行制度は脳死を一律には人の死としていない。「ダブルスタンダード」とも指摘される。柳田さんはそのことを否定しない。「一人ひとりの人生と死生観を大事にするという意味では、こうしたダブルスタンダードこそが、新しい文化のあり方であり、日本が伝統的にもっていたあいまいさの良さを残すものだと思う」と述べた。

そして次のように提言する。

 まず、衆院で可決されたA案の内容を踏まえ、「『脳死は一律に人の死』と断言するには、一般の人の意識が成熟したり、社会的な取り組みが発展したりするまで待つべきだ」とした。その上で、A案は、「脳死判定を拒否することが例外的なイメージを持たせている」と指摘。脳死判定を拒否する権利について、「真っ先に法律の条文でうたい、社会的に広く認知すべきだ」と訴えた。

柳田さんの提言は臓器移植法改正が必要? 自分の身体は誰のものなのかで私が述べた考えと理念的に相通じるものがあり、そのことがあって私はとくに強調の部分には強い共感を覚える。柳田さんは、A案は、「脳死判定を拒否することが例外的なイメージを持たせている」 と述べているが、そのならいで言うと、A案は、「臓器提供を拒否することが例外的なイメージを持たせている」 と私は強調しているのである。臓器提供を拒否する権利は明示するまでもなく自然のことわりと思っているが、国民の広い理解を得るために必要とあれば「真っ先に法律の条文でうたい、社会的に広く認知すべきだ」 とすることに、あえて異を唱えない。

柳田さんは、私が強調する臓器提供を拒否する権利までは踏み込んでおられない。繰り返すことになるが、この臓器提供を拒否する権利は上のエントリーで、「自分の身体は誰のものなのか」との問いかけに答える形で出てきたものである。

自分の身体は自分のもの、たとえ家族といえども太古からの自然のことわりを侵す権利はないのである。われわれは自分の臓器が他人に取られることをわざわざ拒否しなければならないという発想自体が自然のことわりを犯していることを心に銘記すべきなのである。自分の身体は誰のものでもない、文字どおり自分のものである。

実はこの考えを受け入れてしまうと、子供から子供への臓器移植が閉ざされている現行法下の状況から、抜け出ることが出来なくなってしまう。柳田さんはこの問題についても、まだ論議が十分になされていないとの立場から、臓器提供を拒否する権利までは踏み込まれていないのだろうと私は思う。

「自分の身体は自分のもの」の自分には、A案にあるように年齢制限のあるはずがない。従って子供からの臓器提供が可能になるのは、年齢の線引きが問題になるにせよ、子供が自分の意志で認めた場合のみである。いかに親といえども、子供に代わり、死んだその子の臓器提供を申し出る権利はないのである。「子供の身体も子供のもの」なのであって、人間である限り「自分の身体は自分のもの」にいかなる例外もあり得ない。現行法はその精神に合致しており、従って変えるべきではないので、A案なんぞはもってのほかと言うことになる。

私が臓器移植法改正が必要? 自分の身体は誰のものなのかで「さるの生肝」の話を引用したのは、子供の臓器移植問題に触れる糸口とするつもりであったので、ここに再度引用する。

さるの生肝(いきぎも) (生きた猿から取り出した肝の意で)世界的に流布している説話の一つ。病気をなおす妙薬といわれる猿の生き肝を取りに竜王からつかわされた水母(くらげ)が、猿をだまして連れて帰る途中、その目的をもらしたために、「生き肝を忘れてきた」と猿にだまされて逃げられてしまい、その罰として打たれたため、それ以後水母には骨がなくなってしまったという内容のもの。

この説話は、私はまだ目にはしていないが、童話絵本にもなっているようである。児童なら読めるだろうし、幼児には読んで聞かせることができよう。子供はどのように反応するのだろう。情操の育まれた子供なら、さるの生肝を取り出すこと自体に嫌悪感を示すのではなかろうか。また、そう感じるように育てるのが親の務めなのである。

臓器移植を待っている子供に、その親がどのように状況を説明するのだろう。まさか「元気な心臓を持ったよそのお兄ちゃんが事故で死んだら、それを貰って入れ替えてあげるから、それまで頑張ってね」なんて直接的な言い方はしないだろう。かりに親が言葉を選んで状況を説明したとして、その子供はどのように反応するだろうか。現状では子供の声が聞こえてこない。まして幼児とは意志の疎通がとれない。幸い臓器移植を受けた幼児が成長して、ある時、自分が他人の心臓で生かされていることを知って、それが原因で心的外傷を蒙る恐れがないと誰が断言できるのか。またその結果に親といえども責任を取り得ないし関与は出来ないだろう。自分の意志を自分の口で表現できない子供に代わって、誰がそれを忖度出来ようか。たとえ臓器を受け取る側であれ、状況を正しく理解でき自分の意志で決定を下せるとみなしてよい年齢まで、臓器移植を行うべきではないと私は考えている。

臓器移植を必要とする子供を抱えた親の心中に、第三者が立ち入ることは出来ない。せいぜい出来るのは、自分が同じような立場に置かれたときに、どのように行動するだろうかと考えを巡らすぐらいである。人それぞれのそれまでに培われてきた人間性のすべてが反映されるはずである。その意味では私のように戦前に生まれた戦中世代には、まだ「あきらめ」の境地を心静かに受け入れようとする心の整理、身の処し方が息づいているように思う。戦時中、五体満足な息子、というより五体満足だからこそ戦場にわが子を兵隊として取られた親の気持ちを慮る下地があるからだ。長年慈しみ育んでいたわが子を赤紙一枚で国に手渡し、遺骨だに手にすることなく子供を亡くしてしまった両親が500万人になんなんとするのである。子供を思う親の気持ちは時代を超えて変わるものではない。戦時中に五体満足であるがゆえに子供を国家に奪いさられたと思う親には、「あきらめ」でしか立ち直る術がなかったのではなかろうか。

「あきらめ」こそ理不尽に対する自己の唯一の救済であるように思う。子供が臓器移植でしか救えないと医者に告げられた親にとって、その宣告は理不尽そのものなのである。そしてあらゆる葛藤をくぐり抜け、「あきらめ」に辿り着けばそこに救いがある。もちろん「あきらめ」をとことん拒否する選択もある。となると残るのは「自分の身体は自分のもの」という自然のことわりとのせめぎ合いである。

現時点で15歳以下の子供で何人ほど臓器移植を必要としているのか、適当なデータが見つからない。参考に出来るのは(社)日本臓器移植ネットワークのまとめた次の移植希望登録者数である。


15歳以下の子供の移植希望者数をこれに加算したからとて、倍増はしないだろう。「自分の身体は自分のもの」とこの移植希望者登録者数とをあえて天秤にかけるとして、国民一人ひとりの総意はどちらの方に傾くだろうか。その国民がそれぞれの結論を下す前に、一つ次のことに心を寄せて頂きたいと思う。

唐突のようであるが、わが国における人工妊娠中絶の実態である。1960年には年間100万件を超える人工妊娠中絶数が、年を経るにつれて減少してきたとはいえ、2006年には276,352件もある。出生100に対する中絶数にすると25.3にもなる。元来人工妊娠中絶は「刑法 第二十九章 堕胎の罪」に問われる犯罪である。それが便法的に母体保護法の拡大適用により免罪されているのが現状で、これだけの大きい工妊娠中絶数になっている。問題はこの中絶件数の大きさもさることながら、たとえ胎児であれ親の意志一つでその生命を葬り去っている現状から、ひいては乳幼児、児童にいたる子供に対しても、「子供の身体は子供のもの」と言う当然の権利に口を挟むことが当たり前と親が錯覚すること、または錯覚させることなのである。

参議院ではA案とA案に対する修正案、さらに対案が審議されようとしているが、これらすべてが廃案となり、現行法の下で年齢にかかわらず「自分の身体は自分のもの」であることを、国民のすべてが素直に受け入れる状況になってほしいと思う。