日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

林真須美被告の頭髪の砒素 ナポレオンの頭髪の砒素 文系法曹で大丈夫?

2009-04-27 17:36:18 | Weblog
1998年7月25日に和歌山園部地区で行われた自治会の夏祭りの会場で、出されたカレーライスを食べた住民67名が急性砒素中毒になり、うち4名が死亡する事件が発生した。そしてカレーの入った鍋に猛毒の亜砒酸を大量に混入したとして殺人と殺人未遂容疑で林眞須美被告が12月9日に再逮捕された。というのもすでに10月4日に別件で逮捕されていたからである。被害者にはまことに痛ましい事件であったが、真須美被告は全面否認したまま一審の和歌山地裁、二審の大阪高裁において死刑判決を受けた。そしてさる4月21日に最高裁判所が「主文 本件上告を棄却する」の判決を下して被告の死刑が確定した。これが和歌山カレー毒物混入事件である。その判決理由で次のように述べられている。

被告人がその犯人であることは,①上記カレーに混入されたものと組成上の特徴を同じくする亜砒酸が,被告人の自宅等から発見されていること,②被告人の頭髪からも高濃度の砒素が検出されており,その付着状況から被告人が亜砒酸等を取り扱っていたと推認できること,③上記夏祭り当日,被告人のみが上記カレーの入った鍋に亜砒酸をひそかに混入する機会を有しており,その際,被告人が調理済みのカレーの入た鍋のふたを開けるなどの不審な挙動をしていたことも目撃されていることなどを総合することによって,合理的な疑いを差し挟む余地のない程度に証明されていると認められる(なお,カレー毒物混入事件の犯行動機が解明されていないことは,被告人が同事件の犯人であるとの認定を左右するものではない。)。

被告は全面否定している上に犯行動機は不明で、状況証拠から上の強調部分(引用者による)のような断定がどうして出来るのだろうと私なりに不思議に思った。そう思って上の判決理由を注意深く読むとどうも素直に納得しがたい箇所が多い。ここではその一例を取り上げてみる。

②被告人の頭髪からも高濃度の砒素が検出されており,その付着状況から被告人が亜砒酸等を取り扱っていたと推認できること

なぜこの箇所がまず目に留まったかと言えば、ナポレオンの頭髪の砒素にまつわる話を思いだしたからである。2001年6月1日のBBCニュースは次のように伝えている。

Napoleon 'may have been poisoned'

New evidence suggests the French emperor, Napoleon Bonaparte, did not die of cancer but was poisoned.
According to two French forensic specialists in Strasbourg, tests on five strands of Napoleon's hair preserved since his death confirm "major exposure to arsenic". (中略)
According to Pascal Kintz, one of the two Strasbourg Forensic Institute's experts, "the level of arsenic found in Napoleon's hair is higher than 7 to 38 times normal amounts and is an unmistakable sign of poisoning". (後略)

残されたナポレオンの五本の髪の毛に通常のレベルの7倍から38倍の砒素が検出されたことから、ナポレオンの死因が砒素中毒によるもので、その裏に英国側のある陰謀があったというのである。これだけでは分析手法もわからないが、新しい技術の応用によって隠された事実が明らかにされた、ということで当時話題になった。ところがこの新説は早くも7年後の昨年、否定されてしまったのである。

2008年7月10日The New York Timesは次のように伝える。

Hair Analysis Deflates Napoleon Poisoning Theories
By WILLIAM J. BROAD
Was Napoleon poisoned?

For decades, scholars and scientists have argued that the exiled dictator, who died in 1821 on the remote island of St. Helena in the South Atlantic, was the victim of arsenic, whether by accident or design.(中略)

But now, a team of scientists at Italy's National Institute of Nuclear Physics in Milan-Bicocca and Pavia has uncovered strong evidence to the contrary. They conducted a detailed analysis of hairs taken from Napoleon’s head at four times in his life ― as a boy in Corsica, during his exile on the island of Elba, the day he died on St. Helena, at age 51, and the day afterward ― and discovered that the arsenic levels underwent no significant rises.

Casting a wide net, the scientists also studied hairs from his son, Napoleon II, and his wife, Empress Josephine. Here, too, they found that the arsenic levels were similar and uniformly high.

The big surprise was that the old levels were roughly 100 times the readings that the scientists obtained for comparison from the hairs of living people.

“The concentrations of arsenic in the hair taken from Napoleon after his death were much higher,” the scientists wrote. But the levels were “quite comparable with that found not only in the hair of the emperor in other periods of his life, but also in those of his son and first wife.”

The results, they added,“undoubtedly reveal a chronic exposure that we believe can be simply attributed to environmental factors, unfortunately no longer easily identifiable, or habits involving food and therapeutics.”(中略)

The scientists measured the arsenic levels with great precision by inserting the hairs into a nuclear reactor in Pavia, near Milan. The resulting activation let the team identify trace elements but did not harm the hairs, some more than two centuries old.

他の記事をも参照するが、ナポレオンの頭髪を小型原子炉を使う中性子放射化法(neutron activation)で分析すると、現代人の毛髪に比べて100倍も高い濃度の砒素が検出されたのである。これだけだと2001年の結果を追認することになるが、実はコルシカでの少年時代、エルバ島流刑時代、セントヘレナ島で死去した日、そして死後の毛髪を同時に分析しており、いずれも砒素が同じように高濃度であることが明らかになったのである。そればかりか、最初の妻ジョセフィーヌや息子のナポレオン二世の毛髪にも同じ高濃度の砒素が検出された。すなわちこの時代の人は、今より高濃度の砒素に曝される環境に置かれていたことが推定されるのであって、ただ高濃度の砒素が検出されたという事実だけでナポレオンの死因が砒素中毒であるとは言えないことになったのである。というわけでナポレオン砒素毒殺説は力を失ったが、真須美被告の場合は頭髪の一部に砒素が付着していたというのがえらい重く見られているのである。

ここで真須美被告の頭髪から検出された砒素について、もう一度最高裁判決からの引用を繰り返す。

②被告人の頭髪からも高濃度の砒素が検出されており,その付着状況から被告人が亜砒酸等を取り扱っていたと推認できること

この文字面からは、「頭髪全体」から高濃度の砒素が検出されており、さらに頭髪内部のみならずその外部(表面)にも付着していた、と解釈できそうである。この「頭髪砒素」について和歌山地裁での判決要旨には次のように述べられている。

真須美の前髪からも砒素を検出し、それが事件発生時に近い時期に付着したものと分かった。

被告人の毛髪からは、通常は検出されない無機のヒ素が検出された。付着が局所的であることから、外部に由来するヒ素が付着したと認められる。

これで見ると砒素が毛髪に付着したと裁判所が判断していることが分かる。

また「甲南大学刑事訴訟法教室OnLine」には

 毛髪中に付着した亜ヒ酸についてはフォトン・ファクトリーで分析している。右前頭部の毛髪からのみヒ素が見つかっている。これについては測定者自身の毛髪にヒ素を付着させ、長期にわたってヒ素が付着し続けるのかについても実験を行い、1度付着すると5ヶ月は残るという結果が報告された。

とあるので、ここでも裁判所では毛髪に砒素が付着したという判断がごく普通になっていたようである。

私は皆さんと同じように、誰もが接することができるこれまでまとめたような情報にもとづいて私の考えを進めている。もし「頭髪砒素」に関してだけでも、鑑定書を含めてすべての記録を調べるとまた違った見解を持つのかもしれないが、現時点で私が疑問に思うことと、なぜ疑問に思う理由を次に列記してみる。

疑問① 真須美被告の「右前頭部の毛髪からのみヒ素が見つかっている」ことについて、ⓐ頭のどの部分から頭髪を採取したのか。ⓑそもそも何故頭髪を採取したのか。

疑問を抱いた理由 事件発生は1998年7月25日で真須美被告が最初に逮捕されたのは1998年10月4日で事件発生後72日目である。頭髪採取が行われたのはもちろん逮捕後であろう。まだ暑い日が続く。その間真須美被告は毎日入浴するなりうシャワーを浴びていることだろう。もちろん洗髪も繰り返しているはずである。体のどこかに砒素が付着していても、すっかり洗い流されていると考えるのが常識であろう。ふつうなら物証蒐集をあきらめるはずである。それにもかかわらず頭髪を採取したのは、警察にも知恵者がいたからかも知れない。真須美被告が砒素に触れているのなら、外部の砒素は洗い流されたにしても、吸収された砒素があれば必ず毛髪に蓄積しているはずである、と。そこで頭髪を採取したとするならそれは一理がある。そうであるならその結果、頭部各所から採取された頭髪内部に同じようなレベルで砒素が検出されてしかるべきではないのか。ところが頭髪内部ではなくて「右前頭部の毛髪からのみヒ素が見つかっている」、それも付着している、と言うのだから、私の科学的常識では理解できないのである。というより何かの作為すら感じる。

「頭髪分析」には専門家も認める数々の問題点がある。

Hair Analysis: Exploring the State of the Scienceは「頭髪分析」に関する科学の現状(2003年現在)をまとめたうえ7人の専門家が意見を交わしたもので、次のように記されている。

For all elements analyzed, no hair standards are certified for laboratories to validate their analytical technique (Seidel et al. 2001). As a result, verification methods and criteria for accuracy are left up to each laboratory (Seidel et al. 2001). Using this information, the panelists discussed a number of significant problems encountered in the laboratory methodology of hair analysis, including:

* Variations in hair sample scalp location and homogenization processes

* Variations in laboratory sample preparation and washing methods

* Variations in laboratory calibration standards, proficiency testing, and quality assurance/quality control (QA/QC) programs

* Unselective analytical approach of multielement analysis, which sacrifices accuracy and/or sensitivity for each specific element

* Intralaboratory variability in results and interpretations

* Interlaboratory variability in reference ranges, results, and interpretation.

「頭髪分析」法の正当な標準規格がないものだから、現状では分析精度をどう決めるとかその検証法が研究室任せになっており、その結果として数々の問題点のあることが指摘されているのである。少し化学を囓った人にはこの指摘が素直に理解されることであろう。なかでも頭皮のどの部分の毛髪を集めるのか、また毛髪のhomogenization processes(実は私には具体的なイメージが湧いてこないのであるが・・・)、さらに毛髪試料の調製法とか洗浄法が研究室で異なることの指摘は注目に値する。だからこそ、同じ研究室で分析を繰り返すだけではなくて、異なる研究室で得られた分析結果の比較検討が重要になる。裁判所に提出された頭髪分析鑑定書にこのような問題点は残されていないのだろうか。「付着」と結論づけた経緯が私の最大の関心事である。

疑問② 和歌山地裁の判決要旨に「真須美の前髪からも砒素を検出し、それが事件発生時に近い時期に付着したものと分かった」とあるが、どのような事実に基づいてこの結論に達したのだろうか。

疑問を抱いた理由 少年時代からのナポレオンの頭髪ではないが、犯行日を挟んで真須美被告の頭髪を採取していて、たまたま犯行当日の夜には砒素が右前頭部の毛髪に付着していたと言う証拠でもあればともかく、かりに右前頭部の毛髪に砒素が付着していたのが事実であっても、それが犯行日の後に付着したものであれば、物証としては犯行に結びつかないのではないか。付着した日時が判断の鍵を握るのに、「事件発生時に近い時期」では犯行日の前なのか後なのか分からない。付着時期を正確に決定してその科学的根拠を同時に示さない限り、状況証拠にもならないのではないか。それを最高裁判決理由では「合理的な疑いを差し挟む余地のない程度に証明されていると認められる」と記している。では私の上の推理のどこが不合理なんだ、と質したくなる。

真須美被告と「カレー毒物混入」を直接結ぶ物証ともなり得る「真須美の前髪からも砒素を検出」について、すでにこれだけの疑問が湧き上がってくる。その流れで見ると、最高裁判決理由のの中にある「①上記カレーに混入されたものと組成上の特徴を同じくする亜砒酸」についても科学上の疑問が数々生じてくる。

私が抱いた、というより科学者なら誰でも抱くはずの、科学上の疑問が一つ一つ明らかにされていたら、当然それは裁判所の判決理由に反映されているはずである。ところがそれが見あたらない。だからこそ私の疑問が生じてくるわけで、その意味では裁判官、検事、弁護士ともども、どうも常識的な科学的思考が不得手なのかな、と思ったりする。質の高い医療に専門医が必要とされるように、質の高い裁判にも文系のみならず理系の専門法曹が必要なのは当たり前のことであるが、私がそうである、と名乗りをあげられる人が現状で何人ぐらいいるのだろう。

最高裁の判決に目を通したばかりに、裁判の質を問題にするような羽目になってしまった。思うだに空恐ろしいのでここで擱筆する。


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