日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

山口仲美著「日本語の歴史」に興奮した

2006-09-14 17:23:06 | 読書

本の帯に「こんな面白いドラマだったのか」と岩波らしからぬ文句が踊っていて違和感を誘う。ところが読み終わってみると、この程度の表現では物足りない。せめて「ドキドキ、ワクワク、スリル満点」ぐらいの言葉は入れて欲しいと思ったぐらいである。

著者はこの本で何を目指したのか。

《①日本語の歴史に関する専門的な知識を分かりやすく魅力的に語ること、②出来る限り、日本語の変化を生み出す原因にまで思いを及ぼし、「なるほど」と思ってもらえること、③現代語の背後にある長い歴史の営みを知ってもらうことによって、日本語の将来を考える手がかりにしうること、の三点を、できるだけ実現できるようにという思いで全編を執筆しました。》

この本は120%私の期待に応えてもらったように感じる。学ぶことがそれほど多かったからだ。

万葉仮名がどのようなものか、学校で習った程度の知識はあるが、それは序の口に過ぎない。

     若草の 新手枕(にひたまくら)を まきそめて
       夜をや隔てむ 二八十一あらなくに

「二八十一」の万葉仮名読みをいくら考えても出てこない。それも当然、著者は
《「二八十一」をなんと読みましたか。「にくく(憎く)」です。「八十一」を「くく」と読みます。》と説く。びっくり仰天、奈良時代の人がすでに「九九」を知っていたなんて!そしてこの素晴らしい万葉人のウイット!

嬉しくなる。そしてこのような例がいくつも紹介されているのだ。

「漢式和文」というのも始めて知った。万葉仮名文は別として、漢字だけを連ねた文章を私は単純に漢文、いわゆる中国語文と思っていた。ところがこの「漢式和文」とは漢文様式で書いた日本語の文章を云うのである。そう云われてみると、漢字の出てくる順番が確かに日本語の流れに適っていて、何となく読み下し易い。ということは逆に、中国人には読めないのであろう。これから碑文などの漢文を見るのが楽しくなりそうだ。

平安時代を過ぎて鎌倉時代にはいると、主語を示す格助詞「が」が発達し、さらに文と文との関係を「しかれども」とか「されば」のような接続詞を使って明示する方向で文章が書かれるようになったとのこと。
《日本語も、鎌倉・室町時代から、主語がどれであるか、目的語がどれであるかをきちんと明示する言語に変化してきています。接続詞もつかって、文と文とをしっかりと論理的につないで文章を書いています。(中略)日本語は決して非論理的ではありません。論理的に話を進める訓練がなされていないだけです。》と著者は言い切る。

文字は記録として残るからいいけれど、なんと昔はこう発音していたという話が出てくるから驚く。録音機もないのに、である。「は へ ほ」をわれわれは「ha he ho」と発音する。これは江戸時代にそうなったので、それまでは「ファ フェ フォ」と唇を上下で合わせて、その隙間から息をすうっと摩擦させて出すような「両唇音」と呼ばれる子音が使われていたという。なぜそのようなことが分かったかというと・・・・、というわけで、先はどうかこの本で読んでいただきたい。

明治時代に入って話し言葉の統一が大問題であった。コミュニケーションを成り立たせるための最低条件であるからだ。大正二年になってようやく公にされた『口語法』がこう述べている。
《今日、話し言葉は地方によってまちまちで一致していない。そこで、この書は、主として東京で教育ある人びとの間で使われる話し言葉を標準とすることにした。地方の話し言葉であっても、広く一般に用いられているものは、許容範囲とした。》
「標準語」は現在「共通語」と言い回しを変えている。

さらに言文一致のために苦労した先人たちの話がでてくる。
《言文一致運動のお蔭で、文章に個性が出て来たのです。一人一人呼吸のリズムが違うように、文章もひとりひとり異なった呼吸をしているのです。》

実は私はこの著者山口仲美さんに、奥付を見るまですっかり騙されていた。私の岳父が卓美(たくみ)というものだから、この方も男性だと勝手に思っていたのである。この本を読んでいて、『女性』的な文章のニュアンスとか言葉遣いを感じなかったことも、その思いこみに手を貸していたようだ。これも言文一致を自ら実践された結果だとすると、学問の世界では言葉に関する男女の性差別が、いち早く取り外されたということだろうか。

カタカナ語の扱いについても提言を怠らない。1956年には、外来語が日本語に占める割合は、一割未満であったのに、1994年には外来語が日本語の三割強を占めるに至ったと云うから、この扱いは大問題である。しかし著者は拙速を好まない。
《カタカナ語のままにしておいて、意味の定着を待つという方法は、いかがでしょうか》と提言する。
《不必要なカタカナ語は、時代の波に洗われてドンドン消えていきます。必要なカタカナ語だけを意味をはっきりさせながら定着させていくのです。》とみるからである。

一言が目を引いた。
《日本は、長い間、言い訳や弁解を潔しとせず、沈黙を重んじる文化でした。》
この伝統を時流に流されまいと必死に守り続けるのが、どうも一部の大学であるようだ。

ところで、名前の読み方の手助けというつもりだろうか、著者名がローマ字で表紙に記されているが、日本語の「山口仲美」に対して「Nakami Yamaguchi」と語順が逆転している。このねじれ現象についても、著者ならではの明快なご意見を伺いたいものである。

「教育のある人」なら、この本を読んで興奮すること間違いなし、と太鼓判を押す。