私が9月8日にこのブログに問題のJBC論文の「WITHDRAWN」のスタンプのついたコピー引用掲載したことに関して、23日になってお一人の方からコメントを二つ頂いた。最初のは「空念仏に終わった大阪大学総長見解」で、二つめは「間違いであって欲しい「論文不正、阪大教授が単独で捏造」の報道」についてである。
ご指摘の要点は「お前がFirst authorだったらこういうことされていい気分になるのか?」ということであった。なるほどそういう立場からの批判もありうると私なりに納得したが、私がこの二つのエントリーで主張した趣旨は、大阪大学が問題を適切に処理して再生を果たして欲しいと云うことであった。22日にはこのように文を結んだ。《『天上天下唯我独尊』的教授の横行を許した背景を、教授選考の過程にも遡り徹底的な検証を行わなければならないし、それを行うのが国民に対する大阪大学の最低の責務であると私は思う。》
これが私の主題であったが、それについては一言の言及もなく、「だからといってJBCのAbst pageを公開する必要があるのか?」というコメントであった。私の意図とは異なる方向に話が持って行かれたのは残念であったが、私の手法に疑問が呈されたことでもあるので、ここで私の考えをはっきりさせておきたいと思う。
私はいまだに好奇心の塊である。現在の境遇はその好奇心を満たすのに絶好であり、その好奇心の赴くままの私の行動を記すことがブログにもなっている。
9月8日のエントリーでこのように述べた。
《たとえ論文が取り下げられても記録は残されているので、私は適当なキーワードを手がかりに件の論文に辿り着いた。次に問題の研究室に大阪大学のホームページからアクセスしようとしてもデータが消されていた。しかしキャッシュが残されているので、それを再現することで、この研究室が大阪大学大学院生命機能研究科細胞ネットワーク講座染色体複製研究室(杉野研究室)であることが分った。》
私に限らずこのようにして問題の論文に辿り着いた人は大勢居ることと思う。コンテンツそのものが公開されているからである。誰もが利用可能ではあるが、そうかと云って誰でも彼でもそのコンテンツを簡単に見付けられるものではない。それなりのノーハウが必要だからだ。そのノーハウを心得ておれば大学人と限らず誰でも容易に見付け出すことが出来る。今回の問題論文を自分で目にした人は、関連分野の研究人口を考えてみると全世界で数千人はくだらないとだろう。場合によれば数万人という可能性もある。日本だけでもその可能性がある。
私はその問題論文を見付けたとき、まず「WITHDRAWN」のスタンプが珍しかった。初めて見たからである。「おもしろいな」と思った。私と同じく好奇心が旺盛、でもノーハウがない故に知りようのないほかの人に、これがあの論文ですよ、と知らせてあげようと思った。それが引用掲載に至って経緯であるが、その裏に私のある理念があった。
私もそうであったが一般に大学人は極めて『情報』の蒐集・保持に敏感である。自分だけが独占している『情報』が力を生み出すことを知っているからである。それが高じてあらゆる情報を秘匿しようとする。この習いが性となって自分が知り得たことを外に漏らすまいとする。今回の件でも問題論文の著者が誰々でとは大学人の間では秘密でも何でもない。しかしそれを外部に、すなわち世間一般には隠すことで、自分の優位性を維持したつもりになったりする。
公開された情報を大学人だけが独占することがあってはならない。これが私の基本理念であり、フロントページを引用掲載した動機でもある。
ここで既に使ってきた言葉であるが、問題ページの『公開』と、その『引用掲載』の違いをはっきりさせたいと思う。両者を区別できない人の存在を知ったからである。
私の行為はコピーの『引用掲載』なのであって、『公開』ではない。私の『引用掲載』したページを含めて全ページに「WITHDRAWN」のスタンプを押した問題論文を『公開』しているのはJBCなのである。『公開』されているからこそ私も、またその他の大勢の方もアクセス出来たのである。「だからといってJBCのAbst pageを公開する必要があるのか?」との問いかけが私に向けられたが、それはお門違いというもの、『公開』に文句があるのならそれはJBCに向けられるのが筋なのである。
私を批判するのであるのなら、私が問題のフロントページを『引用掲載』したことに対してでなければならない。しかし私は自分の責任において『引用掲載』したのであって、それは第三者が取り沙汰することではない。私がかりに不適切な引用を行ったとしても、それを法律的に告発出来るのは問題論文の版権を所有するJBCだけなのである。
JBCは情報公開に極めて積極的である。以前は高額の料金が科せられたコンテンツの閲覧が今や完全無料になっている。ノーハウを心得ておれば大学人に限らず誰でもアクセスが可能である。それなのにたまたまノーハウのお蔭でそれを知り得た人物だけが自らの優位性を誇示せんばかりに、第三者に知らせるには時期を選ぶべきである、などと説く。このような時代錯誤の権威主義的な発想は私には馴染まない。
ちなみに、今回、読売新聞の22日の記事が出るまでは「空念仏」のエントリーに9日から21日の間に2511(プラスアルファ)件のアクセスをいただいた。しかし『公開』『引用掲載』のいずれであれ、けしからんとの指摘は皆無であった。
確かに私の『引用掲載』に対する情念的な反発はありうる。「お前がFirst authorだったらこういうことされていい気分になるのか?」とのコメントを頂いている。これに対しては5月19日ののエントリーで、堀川哲著「エピソードで読む西洋哲学史」を取り上げた際の引用、《「答えが成立するときだけ問いも成立し、そして何かが語られうるときだけ答えも成立する」》でお答えしたい。First Authorでもない私には答えられないのである。
【コメント受付一時停止のお断り】
昨23日の朝、自分のブログを開いて驚いた。上に記した二つのコメントが目に入ったからだ。なんたる乱暴な言葉遣い、家に泥靴で上がられた思いがした。最初はブログ世界のちんぴらヤクザかと思った。暴言で脅しつける手口だからだ。しかし『罵詈雑言』を無視すると、この方なりの思考経緯が察知でき、たんに言葉の暴力を楽しんでいるちんぴらではなさそうに感じた。ということで私のコメントをお返ししたのである。後ほどこの方から自発的に暴言に関しての謝罪を頂いたので、この件は落着である。
しかし、朝食を挟んでであるが、3時間ほどこの一件に時間を費やした。いろんなご意見を寄せていただくのは有難いことではあるが、このブログへのアクセス増加に伴って頂くコメントも増えだしたら私は対応できそうもない。そこで自分の自由時間を確保するためにコメント受付を一時停止することにした。ご了解を乞う次第である。
【追記 (9月24日)】
このブログを書き終えて、ふと私が「WITHDRAWN」スタンプ付きのファイルをダウンロードしたサイトを訪れると、なんと有料になっていた。スタンプ無しのファイルは無料でダウンロードできる。
それに加えて、私は昨日頂いた「大楽人」さんのご意見に惹かれるところもあった。《私もできればああいう貼付けは取り下げて頂きたいと思っています。もう2週間も周知したのですから、もうそろそろ?》である。「もうそろそろ?」と云われると、「それもそうですね」と応じたくなる、そこでそのお誘いに乗らせていただいた。
という次第で、9月8日のエントリーの貼りつけを最初に私が面白いと思ったことが分かる程度に縮小することにした。文字は読み取れなくても、情報を含んだサイトには依然として誰でも無料でアクセスできるし、簡単な情報は8日のエントリー、「件の論文」の部分をクリックすれば得られるから、『公開情報』を秘匿したことにはならないと思う。
ご指摘の要点は「お前がFirst authorだったらこういうことされていい気分になるのか?」ということであった。なるほどそういう立場からの批判もありうると私なりに納得したが、私がこの二つのエントリーで主張した趣旨は、大阪大学が問題を適切に処理して再生を果たして欲しいと云うことであった。22日にはこのように文を結んだ。《『天上天下唯我独尊』的教授の横行を許した背景を、教授選考の過程にも遡り徹底的な検証を行わなければならないし、それを行うのが国民に対する大阪大学の最低の責務であると私は思う。》
これが私の主題であったが、それについては一言の言及もなく、「だからといってJBCのAbst pageを公開する必要があるのか?」というコメントであった。私の意図とは異なる方向に話が持って行かれたのは残念であったが、私の手法に疑問が呈されたことでもあるので、ここで私の考えをはっきりさせておきたいと思う。
私はいまだに好奇心の塊である。現在の境遇はその好奇心を満たすのに絶好であり、その好奇心の赴くままの私の行動を記すことがブログにもなっている。
9月8日のエントリーでこのように述べた。
《たとえ論文が取り下げられても記録は残されているので、私は適当なキーワードを手がかりに件の論文に辿り着いた。次に問題の研究室に大阪大学のホームページからアクセスしようとしてもデータが消されていた。しかしキャッシュが残されているので、それを再現することで、この研究室が大阪大学大学院生命機能研究科細胞ネットワーク講座染色体複製研究室(杉野研究室)であることが分った。》
私に限らずこのようにして問題の論文に辿り着いた人は大勢居ることと思う。コンテンツそのものが公開されているからである。誰もが利用可能ではあるが、そうかと云って誰でも彼でもそのコンテンツを簡単に見付けられるものではない。それなりのノーハウが必要だからだ。そのノーハウを心得ておれば大学人と限らず誰でも容易に見付け出すことが出来る。今回の問題論文を自分で目にした人は、関連分野の研究人口を考えてみると全世界で数千人はくだらないとだろう。場合によれば数万人という可能性もある。日本だけでもその可能性がある。
私はその問題論文を見付けたとき、まず「WITHDRAWN」のスタンプが珍しかった。初めて見たからである。「おもしろいな」と思った。私と同じく好奇心が旺盛、でもノーハウがない故に知りようのないほかの人に、これがあの論文ですよ、と知らせてあげようと思った。それが引用掲載に至って経緯であるが、その裏に私のある理念があった。
私もそうであったが一般に大学人は極めて『情報』の蒐集・保持に敏感である。自分だけが独占している『情報』が力を生み出すことを知っているからである。それが高じてあらゆる情報を秘匿しようとする。この習いが性となって自分が知り得たことを外に漏らすまいとする。今回の件でも問題論文の著者が誰々でとは大学人の間では秘密でも何でもない。しかしそれを外部に、すなわち世間一般には隠すことで、自分の優位性を維持したつもりになったりする。
公開された情報を大学人だけが独占することがあってはならない。これが私の基本理念であり、フロントページを引用掲載した動機でもある。
ここで既に使ってきた言葉であるが、問題ページの『公開』と、その『引用掲載』の違いをはっきりさせたいと思う。両者を区別できない人の存在を知ったからである。
私の行為はコピーの『引用掲載』なのであって、『公開』ではない。私の『引用掲載』したページを含めて全ページに「WITHDRAWN」のスタンプを押した問題論文を『公開』しているのはJBCなのである。『公開』されているからこそ私も、またその他の大勢の方もアクセス出来たのである。「だからといってJBCのAbst pageを公開する必要があるのか?」との問いかけが私に向けられたが、それはお門違いというもの、『公開』に文句があるのならそれはJBCに向けられるのが筋なのである。
私を批判するのであるのなら、私が問題のフロントページを『引用掲載』したことに対してでなければならない。しかし私は自分の責任において『引用掲載』したのであって、それは第三者が取り沙汰することではない。私がかりに不適切な引用を行ったとしても、それを法律的に告発出来るのは問題論文の版権を所有するJBCだけなのである。
JBCは情報公開に極めて積極的である。以前は高額の料金が科せられたコンテンツの閲覧が今や完全無料になっている。ノーハウを心得ておれば大学人に限らず誰でもアクセスが可能である。それなのにたまたまノーハウのお蔭でそれを知り得た人物だけが自らの優位性を誇示せんばかりに、第三者に知らせるには時期を選ぶべきである、などと説く。このような時代錯誤の権威主義的な発想は私には馴染まない。
ちなみに、今回、読売新聞の22日の記事が出るまでは「空念仏」のエントリーに9日から21日の間に2511(プラスアルファ)件のアクセスをいただいた。しかし『公開』『引用掲載』のいずれであれ、けしからんとの指摘は皆無であった。
確かに私の『引用掲載』に対する情念的な反発はありうる。「お前がFirst authorだったらこういうことされていい気分になるのか?」とのコメントを頂いている。これに対しては5月19日ののエントリーで、堀川哲著「エピソードで読む西洋哲学史」を取り上げた際の引用、《「答えが成立するときだけ問いも成立し、そして何かが語られうるときだけ答えも成立する」》でお答えしたい。First Authorでもない私には答えられないのである。
【コメント受付一時停止のお断り】
昨23日の朝、自分のブログを開いて驚いた。上に記した二つのコメントが目に入ったからだ。なんたる乱暴な言葉遣い、家に泥靴で上がられた思いがした。最初はブログ世界のちんぴらヤクザかと思った。暴言で脅しつける手口だからだ。しかし『罵詈雑言』を無視すると、この方なりの思考経緯が察知でき、たんに言葉の暴力を楽しんでいるちんぴらではなさそうに感じた。ということで私のコメントをお返ししたのである。後ほどこの方から自発的に暴言に関しての謝罪を頂いたので、この件は落着である。
しかし、朝食を挟んでであるが、3時間ほどこの一件に時間を費やした。いろんなご意見を寄せていただくのは有難いことではあるが、このブログへのアクセス増加に伴って頂くコメントも増えだしたら私は対応できそうもない。そこで自分の自由時間を確保するためにコメント受付を一時停止することにした。ご了解を乞う次第である。
【追記 (9月24日)】
このブログを書き終えて、ふと私が「WITHDRAWN」スタンプ付きのファイルをダウンロードしたサイトを訪れると、なんと有料になっていた。スタンプ無しのファイルは無料でダウンロードできる。
それに加えて、私は昨日頂いた「大楽人」さんのご意見に惹かれるところもあった。《私もできればああいう貼付けは取り下げて頂きたいと思っています。もう2週間も周知したのですから、もうそろそろ?》である。「もうそろそろ?」と云われると、「それもそうですね」と応じたくなる、そこでそのお誘いに乗らせていただいた。
という次第で、9月8日のエントリーの貼りつけを最初に私が面白いと思ったことが分かる程度に縮小することにした。文字は読み取れなくても、情報を含んだサイトには依然として誰でも無料でアクセスできるし、簡単な情報は8日のエントリー、「件の論文」の部分をクリックすれば得られるから、『公開情報』を秘匿したことにはならないと思う。