日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

熊野純彦著「西洋哲学史 古代から中世へ」が何故読みづらいか

2006-05-20 09:56:49 | 読書

堀川哲著「エピソードで読む西洋哲学史」(PHP新書)とほぼ同じ頃に岩波新書で熊野純彦著「西洋哲学史 古代から中世へ」が出た。『岩波』という名前に弱い私は岩波の本ならついついタイトルを見ただけで買うことが多い。もちろん当たりはずれがあるが、この本はどちらかといえば『はずれ』だった。

著者は「まえがき」でこのように言っている。

《この本は三つのことに気をつけて書かれています。
(中略)
第三に、個々の哲学者自身のテクストあるいは資料となるテクストを、なるべくきちんと引用しておくこと、です。
(中略)
哲学とは、人間の経験と思考をめぐって、その可能性と限界を見さだめようとするものであること、最後に、そうした思考がそれぞれに魅力的なテクストというかたちで残されているしだいを、すこしだけでも示すことができれば、と考えています。》

私はこの狙いが成功しているとは思わない。

テクストを引用するということ自体、執筆上の一つのスタイルとも言える。ところが現実に引用テクストに出会うとこれが難儀なのである。一番最初に出てくるテクストを見てみよう。少し長いが省略なしに引用する。

《哲学のはじまりをめぐる、アリストテレスの証言を引いておく。哲学の始原にかんして論じられる場合に、かならずしたじきになっている文章である。(注 熊川氏)

さて、あの始めに哲学したひとびとのうち、その大部分は素材の意味での原理だけを、いっさいの存在者の原理であると考えていた。すなわち、全ての存在者が、そのように存在するのは、それ(傍点付き)からであり、それらのすべてはそれ(傍点付き)から生成し、その終末にはそれ(傍点付き)へと消滅してゆくそれ(傍点付き)(中略)をかれらは、いっさいの存在者の構成要素であり、原理であると言っている。   (『形而上学』第一巻第三章)》 (4ページ)

さて、このテクストをまず読んで内容を正しく理解できる人がどれぐらいいるだろうか。『哲学』を職業にしている人ならともかく、一般人ではインテリを自負する人にも無理であろう。

これに続けて著者は『注釈』を加えている。

《 「素材」と訳しておいたギリシア語は「ヒュレー」であって、アリストテレスの用語としては「質料」のことである(本書、第7章参照)。ともあれアリストテレスはいま引いた文章のすぐあとに、問題の一文をしるしていた。「タレスは、かの哲学の始祖であるけれども、水がそれ(傍点付き)である、といっている」。
 文脈上「水」がそれ(傍点付き)である「それ」とは、「原理」のことである。右では原理とかりに訳しておいた語は「アルケー」であって、「はじまり」という意味をもつ。アリストテレスの時代すでに、断片的な伝承だけがのこされていたにすぎないタレスは、水こそがいっさいの存在者のはじまりであり、存在者が存在する原理であって、すべてがそこへと滅んでゆく終局であると主張していたというのが、さしあたりはアリストテレスそのひとの証言にほかならない。》

確かにこの『注釈』を読めば、アリストテレスの引用で、それ(傍点付き)を「水」と置き換えればよいことがわかって、少しは文章の通りがよくなる。しかしそれがわかったぐらいで、この引用が著者の意図している『魅力的なテクスト』にはなりえない。はやい話が、《「素材」と訳しておいたギリシア語は「ヒュレー」であって》とか《原理とかりに訳しておいた語は「アルケー」であって》なんて教えて貰っても一般読者にどういう意味をもつのだろう。それがどうした、で終わりである。

この叙述のスタイルは「エピソードで読む西洋哲学史」のところで引用した、アダム・スミスが罵倒するオックスフォード大学教師による『外書講読』を思い出させる。『何も勉強しない。だから講義ができない』オックスフォード大学の教師とは違って、著者の熊野氏この本にその学殖を傾注しておられることはわかる。しかしこの叙述スタイルが教室における講義ならともかく、不特定多数の読書人を相手とする『新書』にはそぐわないのである。

著者は『哲学』を説いている。では科学者が『科学』を説く場合を想定してみよう。
科学者が実験を行い、データを解析して結論を得る。それをある科学的な概念としてまとめて論文に発表する。この論文はアリストテレスの「形而上学」という原著に相当するものと考えていただこう。

科学者の思考のエッセンスが含まれているからといって、原著論文を一般読者を相手の著書に引用したとする。たとえば次ような文章はどうであろう。

《The novel feature of the sturcture is the manner in which the two chains are held together by the purine and pyrimidine bases. The planes of the bases are perpendicular to the fibre axis. They are joined together in pairs, a single base from one chain being hydrogen-bonded to a single base from the other chain, so that the two lie side by side with identical z-co-ordinates. One of the pair must be a purine and the other a pyrimidine for bonding to occur. The hydrogen bonds are made as follows: purine position 1 to pyrimidine position 1; purine position 6 to pyrimidine position 6.》

これはワトソンとクリックがDNA二重らせん発見を報じたNATURE論文(1953年)の主要な箇所で、この論文はその後の科学・技術の世界ははもちろん人間の生き方までも大きく変えてしまったほどのインパクトをもつものである。紺地に金泥で文章を記し、表装して欄間に掲げておきたいぐらいのものである。

しかし、このテクストを日本語に訳し、化学の初歩も含めて懇切丁寧な注釈を加えたとしても、この論文の真髄をもともと科学の素養の乏しい人に伝えることは不可能であろう。ここに科学ライターの出番があるのであって、原著論文をはじめ多くの資料に当たりながらもその内容を噛み砕き、自分の言葉でそのエッセンスを読者に語りかけることになる。読者にどのように伝わるだろうか、ということを絶えず意識して文章をまとめないことには、科学の成果を多くの人に伝えることはできない。同じことが哲学についてもいえる。

『哲学』は『科学』の『科』を『哲』で置き換えたようなもの、『哲学』を職業としていない人にとっては、原著のほんの『かけら』を目の前に示されて、ペダンチックな注釈をしてもらっても、そのようなものは豚に真珠、猫に小判であろう。その『かけら』が真に真珠であり小判であるならば、であるが。

熊野氏がご自分が咀嚼したたとえば「形而上学」の引用部分を、読者の平均的読解力をも念頭に置いて、現代語訳のような形で紹介されるスタイルを取られなかったことを私は残念に思う。私は堀川哲氏の本からは何人かの哲学者の代表作を読んでみたいという気にさせられた。ところが熊野氏の本には最初から素直に入っていけなかったので、ハイ、それまでよ、であった。

熟年にお勧め 堀川哲著「エピソードで読む西洋哲学史」

2006-05-19 18:35:04 | 読書

私は『哲学』という文字が目にはいるとドキッとする。そして忸怩たる思いにとらわれる。生まれてこの方まともな哲学の本を一冊も読んだことがないからである。

この本の目次には二十三人の名前が出てくる。デカルト、スピノザ、ホッブス、ロック、ヒューム、ヴォルテール、ディドロ、ルソー、スミス、カント、ヘーゲル、マルクス、ニーチェ、ハイデガー、フロイト、ヴィトゲンシュタイン、サルトル、ボーヴォワール、ウィーナー、ドーキンス、ジャック・モノー、ローティー、チョムスキー、ローズ。著作を読んだことがなくても最後の三人を除いて名前ぐらいは何故か知っているのが不思議だ。さらに言えばドーキンスの「The Seifish Gene」とモノーの「偶然と必然」は手元にあることはある。しかし読んだとは胸を張って言い切れない。

哲学の本を読まなくても定年まで仕事をしてくるのになんの支障もなかったし、読む必要も感じなかった。これからの人生にも特に必要はないかも知れない。となると『哲学』は少なくとも私にとっては無用の長物と切って捨てることもできよう。ところがそれが簡単には出来ないのである。というのも私が大学院を修了したときに頂いた学位がアメリカ流に云えばPhD、Doctor of Philosophyの略で文字通り訳すと『哲学博士』、だから困ってしまう。そういうこともあって『哲学』の本についつい目がいくのである。

私が書店で手にしたこの本は「おわりに」が決め手だった。それで買ってしまった。

《人生はある意味では時間つぶしである。》
《だれもが人生の時間つぶしを自分の流儀で遂行する。同じ人生、できれば充実したものでありたい。そこでいろいろと考える。》

三日で読了した。寝る前にベッドの中でもかなり前に進んだ。それぐらい気安く読める本だったのである。

「哲学者歴伝」のような形式になっている。著者はその時代の思想背景を簡単に解説してから哲学者それぞれの経歴を『三行記事』で紹介することから始めて、どのような生活をしていたか、その一生を面白いエピソードを交えて語ってくれる。そしてその『思想』を代表的な著作に基づいて解説して読者(私)を分かったような気にさせてくれる。最後に「読書案内」として代表的な著作を薦めてくれている。

この本は「分かったような気にさせてくれる」というのがミソである。

アダム・スミスの「国富論」にしても著者は《『国富論』という本は、要するに、自由な経済競争ができる場合にだけ、国の経済が発展し、パイが大きくなり、国民が豊になる、ということを説明するために書かれた本なのである。》と極めて要領よくまとめてくれる。「パイ」というのは一国の全ての富のこと。これなら分かる。

スミスはオックスフォード大学に六年ほど通ったが失望した。それで「国富論」に次のようなことを書くことで復讐したそうである。

《「オックスフォードの教師達は何も勉強していない。だから講義ができない。講義には準備が必要となるから、オックスフォードの教師はそれを嫌がる。しかし、いい手がある。『外書講読』という手である。ラテン語かギリシャ語の本をテキストにする。学生にそれを訳させる。語学力は学生よりもあるから、学生の訳の間違いをときどき直してやればいい。それだけしかない、これは教師が楽になるための方法である。こんなものは授業ではない。教えるふりをするだけのことである」と書いている(これは今でも真理である)。》

括弧内は著者の注釈。著者も同僚に含むところがありそうにとれるが、私は幸いにも「国富論」を読んでいないおかげで至極真面目に講義の準備をしたとも言える。でも面白そうだから「国富論」を買ってやろうという気にさせられた。

ウィトゲンシュタインという人がいる。二十五歳で書いた「論理哲学論考」という論文で、もう哲学の問題は全て最終的に解決されたとの確信を述べているそうである。そして著者は次のように解説している。

《「答えが成立するときだけ問いも成立し、そして何かが語られうるときだけ答えも成立する」。人生の意味については私たちは問うことさえもできないのだ。それは答えがありえないからであり、それについて語ることはできないからである。語りえないものについて人は沈黙しなければならない、のである。これが『論理哲学論考』の結論となる。》

これもよく分かる。国民の選良たる国会議員にエッセンスを是非会得していただき、国会での質疑応答の質を高めていただきたいものである。。

人物について私は何も知らないが、ジョン・ロールズの「正義論」(1971年)という本の紹介がまたいい。《今や(今でも)少なくともアメリカの大学では、この本は政治哲学や倫理学の学生・大学院生にとっての古典であり、必読文献である。》

《正義とは何か、というテーマがきわめて抽象的な哲学の言葉で記述される。きわめて無味乾燥な言葉で記述される。》
《これが政治哲学者や大学院生に受けた理由はわかる。これを対象にすると論文がかけるのである。理詰めであるから、論理の関係を論じることができるし、矛盾や飛躍を指摘することもできる。そうやっていくと学術論文が書ける。それがどうしたと思われるかもしれないけれど、これをやると論文が書けるかどうかは業界では大切なポイントである。ほとんど死活の問題である。》

この著者、こんなことを言って業界で生き延びられるのだろうか。

この本を読むとまともな哲学書を読まなかった私は極めて賢明であったように思う。哲学者の語っていることの多くは要するに『常識』なのである。「なるほど、なるほど」と頷く箇所が結構あった。ということは私のこれまでの人生で身に付いてきたものの見方・考え方がわたしの『哲学』になっているのである。いや、ご立派、PhDを体現していたのである。

人生体験豊富な熟年の方々は多分私と同じ思いを抱かれるだろう。この本を読むと自分はヒューム型、サルトル型、いやウィトゲンシュタイン型、etc と必ず思い当たることがあるはずだ。十分退屈しのぎになる。


走り梅雨に本がやって来た

2006-05-19 12:04:37 | 読書

雨が多い、雨が続く。こういうのを『走り梅雨』というのだろうか。
今日もお昼から神戸市立博物館の「江戸の誘惑」展を観にいくつもりだったけれど、雨脚に気後れがして迷っているところにAmazon.comから15日に注文した本が届いた。

斉藤憐著のかずかず、どれも面白そうだ。たとえば「昭和不良伝」の帯には

 永井荷風を捨てた女 藤蔭静枝
 マンハッタンからの眺め 石垣綾子
 金子光晴と巴里道中 森三千代
 シャボン玉の人生 佐藤千夜子
 モスクワの裏切り 岡田嘉子

なんて旧知?の女性が紹介されている。

旧知というと誤解を招くが、藤蔭静枝の二代目とは一つ写真に納まったことがあるし、石垣綾子の「石垣綾子日記」上下(岩波書店)はなかなか面白かったし、森三千代は金子光晴の一連の『放浪もの』でとっくにお馴染み、ソプラノの佐藤美枝子をいつも佐藤千夜子と言ってしまうし、岡田嘉子とはテレビでお目にかかっているから、と言う程度のこと。それにしても今も昔も日本女性は逞しい。

雨の音を聞きながら読んでみようと思っている矢先、外が明るくなってきた。

「上海バンスキング」の原作者が・・・

2006-05-15 19:45:17 | 音楽・美術

テレビから流れるノスタルジックなジャズの歌声、けだるそうな歌唱が余計に現実には経験したこともない世界への郷愁を誘う。母の胎内で微睡んでいるかのような気分である。これが吉田日出子の歌の聴き始めであった。LPが出ているらしい。さっそくレコード店へ駆けつて「上海バンスキング★吉田日出子・ファースト」を手にした。もうかれこれ四半世紀前になる。

「上海バンスキング」は戦前、戦中にかけての上海を舞台にした日本から脱出したジャズメンたちの物語である。「オンシアター自由劇場」が舞台で上演し、その際に役者が劇中音楽を実際に演奏して歌いかつ踊る。ところが楽器を扱った役者のほとんどが正規の音楽教育をうけたことがなく楽譜も読めなかったのに、とにかく『銭』を取れる程まで腕を上げた、ということも大いに話題になっていたのである。劇中音楽のサウンドトラック版がこのLPであった。

自由劇場は1996年に解散したがそのホームページは残っている。
それによると「上海バンスキング」の初演は1979年1月25日である。評判が高まるにつれて、であろう、1994年のラスト公演まで九回も断続的に公演を行い、何回か日本全国を巡演して廻っている。

私が観たのは1983年6月4日(土)京都府立勤労会館の舞台である。1985年には機会があって中国を訪れた際に、そのモデルとか言われていた上海の和平飯店でジャズバンドのライブを同行者数人と楽しみ、「Side by side」をリクエストした覚えがある。

自由劇団の面々が1983年8月に船で上海へ航海し、上海では船上でコンサートを開いたとのことであるが、その時には和平飯店でも演奏したのかどうか、分からない。この上海行きを記念して帰国後すぐに録音したという二枚目のLPも私はちゃっかり買い込んだ。



今頃何故そのような古い話を持ち出したのか。既に二回取り上げた斉藤憐著「ジャズで踊ってリキュルで更けて」(岩波書店)に次のような行(くだり)を見付けたのである。

《オン・シアター自由劇場で上演した『上海バンスキング』が、文学報告会の会長の名を冠した岸田国士戯曲賞を頂いたときのパーティーで、乾杯の音頭を服部良一さんにお願いした。
 劇中、ダンスホールにやって来た軍人から「海ゆかば」のリクエストが来て、しぶしぶ演奏をはじめるが、途中からリズムが変わり、ジャズになるシーンがある。これは戦争末期の上海で服部良一が、滝廉太郎の「荒城の月」をジャズにアレンジして、「これは日本の歌です」とぬけぬけと演奏したというエピソードから発想した場面だった。》

なんと西条八十との関わりでその名前を知った斉藤憐氏が「上海バンスキング」の原作者だったのである。氏が女性なら、昔の恋人に出逢ったような、と表現するところだ。Amazon.comで調べてみると斉藤憐氏には著書も多く、劇作家で(も)あることが分かった。

 "ピンカートンの息子たち―昭和不良伝"
 "昭和不良伝―越境する女たち篇"
 "昭和のバンスキングたち―ジャズ・港・放蕩"
 "サロメの純情―浅草オペラ事始"
 "東京行進曲"
 "カナリア―西条八十物語"

などが面白そうなのでさっそく注文をした。

戦前の、それも1930年代から40年代にかけての日本人の生活を描くことで私のノスタルジアを満たしてくれていた久世光彦氏が逝き斉藤憐氏を知るの思いである。

斉藤憐著「ジャズで踊ってリキュルで更けて」を楽しむ

2006-05-13 12:24:19 | 読書
読書の楽しみは多様である。知らなかったことを知るだけでも楽しいのに、『なるほど』(同感)、『ふ~ん』(ほんとうかな?)、『へぇ~』(驚いた)、『ほほぅ』(感心する)と思わず口に出てくる箇所が多ければ多いほど得をした気分になる。

西条八十に対する興味から読み始めた斉藤憐著「ジャズで踊ってリキュルで更けて」(岩波書店)もそのような本であった。「 歌は世につれ、世は歌につれ」と言われるがまさにその通り、著者は歌を語ることでその歌の生まれた時代をプレイ・バックする。それに被された著者のナレーションに私が結構敏感に反応するのである。そのいくつかを取り上げてみる。

♪星はまたたき 夜ふかく
 なりわたる なりわたる
 プラットホームの別れのベルよ
 さよなら さよなら
 君いつ帰る

奥野椰子夫作詞・服部良一作曲の「夜のプラットホーム」で戦後二葉あき子が歌って大いにヒットした。実はこの曲は戦前に発売された(昭和十一年前後?)がその直後に発売禁止処分を受けていたのである。そこで著者のナレーション、
《平時だったら、なんでもない歌詞だ。しかし、作詞の奥野椰子夫は、出征兵士を見送る神戸駅のプラットホームで涙を堪えている若妻を見て、詞を書いている。この曲を聴けば、出征兵士との別れだと国民が思うだろうと、当局が考えたのは当然だった。》

つい一週間前にも表玄関に戦前の面影を残す神戸駅から電車に乗ったばかりである。出征兵士は多分この同じプラットホームから下りの汽車に乗ったのだろうなんて想像していた。しかし、である。なぜこの歌が発禁になったのか、私には分かるようで分からない。それぐらい理不尽が罷り通っていたのだろうな、と思うことは出来た。


《昭和十六(1941)年、日本は鬼畜米英との戦争をはじめ、平成十六(2004)年、日本は米英とともに天に代わりて不義を討つ戦争をはじめた。》
《日米戦がはじまると、「敵性音楽」が問題になり、日本放送協会は大晦日の「蛍の光」を追放、「埴生の里」も「故郷の空」も禁じられた。》
《思えば、日本の音楽教育はアメリカに留学した伊沢修二によってはじめられ、文部省は英米のヨナ抜き音階の曲を唱歌として全国の子どもたちに押しつけた。その八十年後、英米楽曲選曲が演奏禁止となり、これまで、西洋音階を叩き込んでいた唱歌の時間は、西洋の「敵の航空機や潜水艦の音を察知するための音感教育」の場となった。》

私はその『音感教育』を受けてきた世代なのである。


♪青い目をした お人形は
 アメリカ生まれの セルロイド
 日本の港へ ついたとき
 一杯涙を うかべてた

野口雨情作詞・本居長世作曲「青い目の人形」が発表されたのは大正十(1921)年であるが、その六年後の昭和二(1927)年に偶然であるがアメリカから一万二千余体の「友情の人形」が送られてきた。日米移民排斥運動に心を痛めたアメリカ人、ギューリック博士の呼びかけで国際親善の願を込めて贈られたものである。(以上の部分は読売文化部「唱歌・童謡ものがたり」(岩波書店)に基づいているが、斉藤氏によると《「青い目の人形」は、昭和二年、アメリカの宣教師シドニー・ギューリック博士が渋沢栄一氏とともに米国の人形を「平和の親善大使」として日本に贈ることを企画したものだ。》とある。)この人形は全国の小学校や幼稚園に贈られた。

《(翌)昭和十六年、「敵国アメリカの人形はスパイだから捨てるように」との通達が、全国の学校や幼稚園に伝えられ、青い目の人形は焼かれて「青い目の人形」も歌われなくなった。》

『へぇ~』、『ふ~ん』である。


その戦時のまっただ中、サトー・ハチローが古賀政男とのコンビで「青い牧場」を出している。

♪誰の涙か朝露か 仔山羊の角が光ってる
 どこだよ そこだよ あの丘だ
 どこだよ そこだよ あの影だ
 売られた仔山羊は 仔山羊は
 メエメエ帰ってくる

この歌が発禁処分をくらっているのだ。何故か。

《小沢昭一は、歌った杉狂児が〔メエメエ〕をあまり見事に仔山羊の真似をして歌ったから発禁になったと言うが、この説明だけじゃ、なぜ発禁になったかわからない。
 この詞をばれ唄としてみると、「角が濡れて光って」「どこだよ、そこだよ」と探るのが「丘と影」というわけだ。そして切れ切れの泣き声。それにしても昭和十八年に、恐い検閲官をこうしてからかったサトウ・ハチローは凄いが、見破って発禁にして検閲官もハチローの根性を見抜いていて天晴れ!》

私には禅問答のようでさっぱり分からないが、このようなご時世にも高見順のみならず日本の知性が健在であったことは確かなようだ。


その戦争中《昭和十六年に音楽挺身隊長に就任し、高級将校の軍服に似た衣装に拍車をつけた長靴をはき、日本刀をひっ下げて歩き廻った》山田耕筰が、戦後ふともらした言葉を山住正巴の「近代日本と音楽」から著者は引用している。

《「私は戦後になってほんとうにがっかりしたことがある。それは天皇が退任しなかったことだ。それまで天皇に対して非常な尊敬の念をもっていたが、天皇は戦争の責任をとろうとしなかった。天皇が責任をとらないのに、どうして我々がとる必要があるのか」》

『なるほど』、ここにも戦後に甦った日本の知性がある。
ここで昭和天皇の退位問題に関心を抱かれた方は「不忠の『臣・茂』?・・・」をご覧あれ。


戦後昭和二十二(1947)年にNHKの「日曜娯楽版」が始まった。私も楽しみにしていた番組である。三木鶏郎の「冗談音楽」が目玉で、小学唱歌「会津磐梯山」の次のような替え歌の流れたことがあるらしい。

♪イヤア 銀行公団は宝の山よ ハヨイト
 窓に黄金がエエ マタ成り下がる
 公団総裁何で身上つぶした
 浮気 浮酒 浮き貸し大好きで
 それで身上つぶした

《講和条約が発効し、占領体制が終わると昭和二十七(1952)年六月には「冗談音楽」が「ユーモア劇場」と改名させられ、政治風刺が圧殺された。》

ここは著者とは少し意見が異なる。『占領体制』は姿を変えて続いているし、戦争を知らない世代が牛耳る怯懦なマスメディアの『自己規制』が現在の政治風刺の不在をもたらしたのである。


斉藤憐氏は反骨の方でもある。氏に失礼を顧みずに言わせていただくと、まるで私が乗り移ったかのような言葉がボンボンと飛び出る。

《昭和二十年十二月、五歳の僕は自分の体重ほどもあろうかというリュックサックを背負って、京城(ソウル)から日本という国に引き揚げてきた。京釜線の無蓋貨車に吹き付ける風や、引き揚げ家族の戦後のひもじさは、「だれが」「いつ」「なぜ」、僕に残した負債だったのか?》

著者と私に共通の原点があったとみた。

神戸にしむら珈琲店中山手本店本日リニューアル開店

2006-05-11 19:54:16 | Weblog

五月四日に紹介した神戸にしむら珈琲店中山手本店が今日店開きしたのでさっそく訪れた。一階入り口の左手は禁煙席だが二階は全体が禁煙席だとのことなので二階に上がった。喫茶室は三階までで三階は喫煙席になっている。

三、四十席ぐらいあるのだろうか、フローリングの木目と艶が美しく腰板が目の高さに張り巡らされていて繻子ばりの椅子に座るととても落ち着く。二人差し向かいに坐るのが基本で人数が増えるとテーブルを合わせることになる。意識しはじめると隣の客が気になりだす間隔だ。

テーブルに置かれたメニューの「カナディアン・セット」の写真に釣られてそれを注文した。待つこと久し(まだ不慣れなせいだろうか)ようやく注文の品が運ばれてきた。サンドイッチにサラダと珈琲で、薄焼きの卵焼きにベーコン、キュウリの薄切りを挟んだサンドイッチがカラッと出来上がっていてなかなか美味しい。そういえば砂糖がシュガー・ポットに入っているのもうれしかった。自分で思うようにコントロールできるからである。

ウイーンのカフェ的な雰囲気を少し感じた。買いたての本を持ち込んで一冊ぐらい周りを気にせずに読み終えることが出来たら云うことなし。一度試してみよう。

実をいうと、開店記念にマグカップでも頂けるかと期待したのだがそのような気配はまるでなかった。セットを注文したからだろう、ナプキン代わりに名前入りの膝置きをどうぞと差し出されて「下さるんですか」と口からでそうになり慌てて抑えた。


斉藤憐著「ジャズで踊ってリキュルで更けて」にみる西条八十

2006-05-10 17:16:36 | 音楽・美術

西条八十作詞・橋本国彦作曲「お菓子と娘」をいつ初めて聞いたのか記憶がさだかではないが戦後ラジオを通してであろう。この本に《敗戦から五年も経った頃だろうか、この時代に八十が作った「巴里娘」が毎日のようにラジオで鳴っていて、国分寺の長屋に住んでいた僕はエクレールたあ、どんな食い物かなと思っていた。》と書かれているからである。

その頃の巴里は萩原朔太郎が詠む「ふらんすへ行きたしと思えどもふらんすはあまりに遠し」の世界であった。そのふらんすはパリに西条八十は関東大震災後の大正十三(1924)年から二年間留学していたというのだからスケールが違う。文学少年でもなくただの歌好きの私には八十は格好いい『ダンディ』な『ハイカラ』さんなのであった。

この本の副題は「昭和不良伝・西条八十」で『ハイカラ』さんとは余りにも隔たりがある。それだけに八十の実体への好奇心がウズウズする。《童謡作家にしてフランス文学者、株屋にして早稲田大学教授、象徴派詩人にして流行り歌の作詞家。かけ離れたいくつかの貌を持つ八十の生きた時代のことを書いてみたいと思った》著者の意図は私にとってもまことに有難い。

西条八十はなぜ不良なのか。72~73ページにこう述べられている。
《次々に女に惚れて同棲したり結婚したり、修羅場の中で別れてもまた誰かに惚れる懲りない男を、性格破綻者という。北原白秋、野口雨情、後に登場する菊田一夫がこのタイプ。賢い女をカミサンにし、自分の城を固めといて、ビフテキの後はアイスクリームと、取っ替え引っ替えアバンチュールを楽しむ女の敵を、不良という。》

「後はどうにでもなります」と妻の晴子が差し出した二百円を足しにして家族を残し八十は鹿島立つ。そのマルセイユ行きの船の中で出会った十一歳年下の画家志望の女性と結局パリで愛の生活を共にすることになる。それから四十五年後の昭和四十四年、彼女が死去して告別式には出ているのだから筋金入りの『不良』である。自分の『悪行』の数々を小説集に刊行し、また晩年のアバンチュールは娘の嫩子(ふたばこ)さんが具体的に記録していたというから中途半端な生き方ではない。この『不良』ぶりはまたゆっくり渉猟するとして、私の驚いたのは誰が作詞したかも知らないまま歌ったり口ずさんでいた彼の歌が如何に沢山あったかということである。

戦時中覚えて今でも歌える軍歌の中の軍歌「若鷲の歌」(♪若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨)に「同期の桜」(♪貴様と俺とは同期の桜 おなじ兵学校の 庭に咲く)を八十が作詞しているのだ。

以下の歌も戦中・戦後の日本を生き抜いてきた人ならば誰でも知っている。

「東京行進曲}(♪昔恋しい銀座の柳 仇な年増を誰が知ろ)
「旅の夜風」(♪花もあらしも踏みこえて 行くが男の生きる道)
「誰か故郷を想わざる」(♪花摘む野辺に日は落ちて みんなで肩を組みながら)
「蘇州夜曲」(♪君がみ胸に抱かれて聞くは 夢の舟唄恋の唄)
「青い山脈」(♪若く明るい歌声に 雪崩は消える花も咲く)
「悲しき口笛」(♪一人都のたそがれに 想い悲しく笛を吹く)
「トンコ節」(♪あなたのくれたおびどめの だるまの模様がチョイトきにかかる)
「王将」(♪吹けば飛ぶような将棋の駒に 賭けた命を笑わば笑え)
などなど。

とにかく多彩なのである。しかし著者は平凡社の百科事典の西条八十の項を引き「・・・・・・昭和以降は《東京行進曲》など主として流行歌の作詞にたずさわり、芸術的には見るべき作を残していない」の部分を取り上げて、流行り歌作家は低俗だから論ずるに値しないと取り扱われていることに不満を抱いている。なぜなら著者の評価は全く異なるからだ。

《・・・・・嫩子さん。あなたのお父上がいなければ、中山晋平は「東京行進曲」を、服部良一は「青い山脈」を、古賀政男は「サーカスの唄」を作れなかった。
 森繁久弥は「お山の大将」を、美空ひばりは「越後獅子の唄」を歌えなかった。
 戦地で兵士たちが歌ったのは、軍歌じゃなくて、「旅の夜風」「誰か故郷を想わざる」だった。
 僕たちは、七月十四日に「巴里の屋根の下」を聞くこともないし、お盆に「東京音頭」も踊れない。
 出撃を明日にひかえた特攻隊員たちは「同期の桜」を歌えなかった。
 八十が才能を見いださなかったら、野口雨情も金子みすずも、サトウ・ハチローも詩を残さなかった。》

同じ平凡社でも世界大百科事典には大岡信氏の署名入りで「《赤い鳥》の童謡運動に積極的に加わり、名作を多く作ったほか、民謡、歌謡曲、軍歌などの作詞で一世を風靡した」と出ているので、蛇足ではあるが著者はこちらも見ておけばよかったと思う。

西条八十は昭和四十五(1970)年八月十二日、死去を伝える新聞広告の原稿を残して世を去った。
《「私は今日永眠いたしました。長い間の皆様の御好誼に対し厚く御礼申し上げます。西条八十」。》

やっぱり『ハイカラ』かつ『ダンディ』であったのだ。

著者が最後に引用している西条八十の「おわりの詩」の第二節。

《わたしは生きている
 わたしの唄をうたう人の赤い唇に
 唄を聴く人々の静かな耳朶に
 また その唄をはこぶ
 街中の青い微風の中に 大ぜいの人の中に
 温かくいだかれて
 生きているわたしはしあわせだ
 わたしは風
 わたしは光 わたしはこだま
 姿は消えても永遠に生きる
 うたって下さる 聴いてくださる
   みなさんありがとう》

なんて『不良』は幸せなんだろう。

DELL3000にも夏は来ぬ

2006-05-08 18:25:34 | Weblog
席を外していて戻ってくるとなんだか騒々しい。音源はPCである。2台並べているのでどちらから音が出ているのかすぐには分からない。古いDELL4500の電源を落としても音は変わらないので新しいDELL3000が原因であることが分かった。

DELL3000の電源をいったん切って再びオンにするとすさまじい咆吼音が生じたがすぐに落ち着いた。でもいぜんとして騒々しい。そこでサービスセンターに電話をした。

背後の診断用モニターライトは正常だしもちろんOSも動いている。音がうるさいだけだ。しばらくやりとりをして、そんなことで状況を判断するのは難しいだろうと思いながらも、求められるままに背後のファンの出口に受話器を当てて音も聞いて貰ったりした。確かに『鼻息』がかなり荒いようで手のひらにも排気が強く当たる。古いDELL4500ではそれほど風当たりが強くない。

担当者とのやり取りに室温のことがでてきた。筐体温度が高くなると排気能力を高めるためにファンの回転速度が上がることがあるというのである。デスク上の温度計に目をやるとなんと30度になっている。今日は昨日とうってかわって良い天気になり気温も上がっていたがまさか室温が30度とは。ファン速度が可変であることを再確認して騒音の原因を納得することが出来た。いよいよPCにも嫌な夏がやって来たのである。

担当者はその私の納得ぶりに安心したのか、オンサイトサービスに加入しているので基盤を替えてもよし、ファンを替えてもよし、何時でも技術者を手配すると気前よくいう。そして、状況は変わらない可能性もあります、と付け加える。その通りであろう。では様子を見ることにしますと大人しく伝えて電話を切った。


追記(5月9日) 朝、DELL3000の電源を入れる。通常の『音』であった。 

『賞味期限』はいらないよ

2006-05-08 16:02:41 | Weblog

5月2日に北野坂のインフィオラータに出会したが、北野坂の手前、山本通にある「イグレックプリュス」で焼き菓子を買った。税抜き価格が150円、しかし私の買ったのは100円也。何故かと言えば賞味期限があと僅かという理由で値下げされていたからである。でも2日ないしは4日間賞味期限は残っていた。実はこの賞味期限切れ寸前の焼き菓子だけのためにこのお店に寄るのである。トアロードの北野ホテルの向かいにある店ではまだお目にかかったことがない。

戦中戦後の食糧難を体験した世代だから私は賞味期限くそ食らえ、である。誰がそのような余計なことを決めたのかというと厚生労働省と農林水産省なのである。

食品衛生法(厚生労働省)上の規定は『品質保持期限の設定は当該食品等に関する知識を有する者が微生物試験や理化学試験及び官能検査の結果等に基づき、科学的に行う。』

JAS法(農林水産省)上の規定 では『賞味期限は、その食品の品質保持に関する情報を把握する立場にあり、当該製品に責任を負う製造業者等が科学的・合理的根拠をもって適正に設定すべき 』なのである。

「科学的に行う」とか「科学的・合理的根拠」なんてあるが、もっともらしく装っているだけのことで中身はない。食べ物は美味しく(官能的にかつ心理的に)食べられたらいいのであって、その意味では人間の舌の方が『科学的試験』より遙かに敏感なのである。

消費者にとっては製造年月日だけあれば十分である。買うのか買わないのか、食べるのか食べないのか、は消費者が判断することである。作られたその日のうちに食べないと気が済まない人もおれば、そのようなことにてんで無頓着な人も結構いるであろう。製造業者・販売業者は店頭に自信のある商品を並べるだけでいい。

消費者は製造年月日を確かめた上で買おうと思えば買うし嫌なら手を出さない。製造年月日が古いから売れないのだな、と思えば販売業者は値下げすればいい。ただそれだけのことである。だから「イグレックプリュス」ではぜひ期限切れ(もしあれば、の話)の焼き菓子も売っていただきたい。50円がいいところか、というのは150円はどう考えても高い価格設定になっている、と私の常識が呟いているからである。

かっては製造年月日が食品などに記載されていたはずである。それが賞味期限表示となったのは決して消費者の利益ではなくて製造業者・販売業者の利益・便宜のためであろうと『げすの勘ぐり』が働く。

ところげGoogleを検索していて『人間の賞味期間』も測定できるソフトがあるのに驚いた。データを間違いなく正確に入れたつもりなのになんと私の賞味期限はもう二十三年前に切れてしまっている。ウッフッフッフッフ・・・。

高校生にぜひ読んで欲しい高見順著「敗戦日記」

2006-05-07 09:50:54 | 読書

書棚の整理をしていると買ったままの高見順著「敗戦日記」(中公文庫)が出て来た。ふと読み始めたら途中で止めることが出来なかった。『鎌倉文士』の一人、高見順が日本が戦争に負けた昭和二十年の元旦から大晦日に至る一年間の出来事を実に克明に記録しているのである。臨場感が強烈で今一歩家の外に出たらその世界に入り込んでいくかのような気になった。

高見順の世間を見る目がとてもまともなことに深い感銘を受けた。自分の目でものごとを見て自分の頭で考える、それが出来にくいご時世にもかかわらず、それを当たり前の如くにやり遂げた精神の強靱さに感動した。まさにここに日本男児あり、である。

日本人であるということはどういうことなのか。高見順の知性と感性に触れればいい。私はそれを特に成人前の高校生に体験させたく思った。出来る限り多くの高校生にこの「敗戦日記」を読んで貰って、世の中には見習うべき人間がちゃんと居ることの素晴らしさを味わって欲しいと思った。

引用が多くなりすぎたが、ほんとうは全部を書き写したいぐらいである。高見順が記録として書き記した資料がまた貴重である。私の主観による選択ではあるが以下の限られた引用からこの文庫本を読んでみようとする方が一人でも多くおられたらと思う。

蛇足とも言うべき■で始まる私のコメントは最小限に差し控えた。


二月十九日

敵の対日処理案が新聞に発表された。一月中旬に開催された太平洋問題調査会第九回大会で反枢軸十二カ国の民間代表が意見一致したという決議の内容
一、日本の全面的占領
一、国体の変革
一、戦争責任者の処罰
一、米政府の企図する政府の樹立
一、全面的武装解除並びに民間航空の廃止
一、軍需工場の完全破壊と経済的武装解除
一、黒龍会の如き結社の廃止
一、日本国民の再教育
一、カイロ宣言に基く日本帝国の分割
一、商品による賠償

■このような内容を新聞が報じたこと自体、政府の意向が働いているのか。


二月二十七日

 三壺堂の客の噂話を聞いていると、二十五日の猛爆で罹災者が十万人出たという。(はじめ一万人の間違いではないかと思った)

 日比谷から大塚行きの電車に乗った。神田橋へ出て驚いた。あたり一体、惨憺たる焼け野原でまだ煙のあがっているところもある。

 焼跡で何かしている罹災民たちは、恐らくそれしかないのであろう、汚れた着物を着て、いずれも青い顔をしていた。だが、男も女も、老いも若きも、何かけなげに立ち働いている。打ちのめされた感じではない。そうした日本庶民の姿は、手を合わせたいほどのけなげさ、立派さだった。しかし私は大急ぎで逃げるように焼跡をはなれた。

 家に帰ると新聞が来ている。東京の悲劇に関して沈黙を守っている新聞に対して、言いようのない憤りを覚えた。何のための新聞か、そして、その沈黙は、そのことに関してのみではない。
 防諜関係や何かで、発表できないのであろうことはわかるが、―国民を欺かなくてもよろしい。
 国民を信用しないで、いいのだろうか。あの、焼け跡で涙ひつつ見せず雄々しくけなげに立ち働いている国民を。

■日本庶民のけだかさ、立派さ。今も失われていない。


三月十二日(三月十日の大空襲の後初めての上京)

 ○罹災民は二百万人に達しているだろうという街の噂だ。罹災家屋ぬ十五万という。


三月十九日

 国民学校初等科を除き学校の授業が全部停止となった。

■私は国民学校五年生。勉強させて貰っていたのだ。


六月二十五日

ラジオの大本営発表で沖縄の玉砕を知る。玉砕―もはやこの言葉は使わないのである。(注=「玉砕」のかわりに「最後の攻撃を実施せり」)
 牛島最高指揮官の決別の辞、心をえぐる。


七月二十二日

 新聞が二日分一度に来た。
 二十二日の投書欄に次のような言葉がある。

歯の浮く文字
 ▽報道陣や指導者にお願ひがある。「神機来る」「待望の決戦」「鉄壁の要塞」「敵の補給線」等々、何たる我田引水の言であろう。かかる負け惜しみは止めてもらいたい。もうこんな表現は見るのも聞くのも嫌だ。俺たちはどんな最悪の場合でも動ぜぬ決意をもって日々やってゐる。も早俺たちを安心させるやうな(その実反対の効果を生む)言葉は止めてくれ。

(中略)

政治家達も闘へ
 ▽日本が勝つために我々は永い間困苦に耐へてきた。これから先もどこまでも耐へていく決意をきめてゐる。それにつけても情けないのは日本の政治家が日本人らしくないことだ。食糧事情において兵器事情において誰一人として出来なかったことの責任に日本人らしく腹を切った政治家がゐないではないか。「私はかく思ふ」「切望する」「考慮している」等々、後難除けの言葉は決まってゐる。政治家も日本人らしく闘ってくれ。

■投書を装う新聞社の主張であって欲しい。政治家の責任という発想が存在したこと自体注目に値する。


八月二日

 一日の大本営発表が新聞に載っているが、発表の最初に「戦備は着々強化せられあり」とある。それについて毎日が「軍に毅然・大方針あり」と提灯記事を書いている。昨日は読売が同種の記事を掲げていたが。―ところが毎日は提灯記事の隣に社説を掲げている。「民意を伸張せしめよ」「知る者は騒がぬ」ひかえ目ながらここで注文をだしている。国民はもはや、提灯記事、気休め記事は読まぬのである。

 心、物量に勝てり 敵は狙ふ我精神
  大出血に畏怖、謀略に躍起
   崩すな国内団結力(読売新聞八月一日、記事の見出し)

■十一月十三日の読売新聞と見比べるといい。


八月十一日

 それにしては、陸相の布告は何事か。

 全軍将兵に告ぐ
 ソ聯遂に鋒を執って皇国に冠す
 名分如何に粉飾すと雖も大東亜を侵略制覇せんとする野望歴然たり
 事ここに至る又何をか言はん、断乎神州護持の聖戦を戦い抜かんのみ
 仮令草を喰み土を囓り野に伏するとも断じて戦ふところ死中自ら活あるを信ず
 是即ち七生報国、「我れ一人生きてありせば」てふ楠公救国の精神なると共に時宗の「莫煩悩」「驀直進前」以て醜敵を撃滅せる闘魂なり
 全軍将兵宜しく一人も余さず楠公精神を具現すべし、而して時宗の闘魂を再現して驕敵撃滅に驀直進前すべし
昭和二十年八月十日 陸 軍 大 臣

「―何をか言はん」とは、全く何かを言わんやだ。国民の方で指導側に言いたい言葉であって、指導側でいうべき言葉ではないだろう。かかる状態に至ったのは、何も敵のせいのみではない。指導側の無策無能からもきているのだ。しかるにその自らの無策無能を棚に挙げて「何をか言はん」とは。嗚呼かかる軍部が国をこの破滅に陥れたのである

■日本人の多くが心の底にこの思いを抱き続けて日本人自身が『国家破壊者』を告発し責任者の断罪を下すべきであった。まだ行われていない。


八月十六日

 家に帰ると新聞が来ていた。阿南陸相自刃読売記事中に「支那事変勃発以来八年間に国務大臣として責任を感じて自刃した唯一の人である」と書いてある。背後に皮肉が感じられる


八月十八日

 今までの恐るべき軍万能は、ほんとうの健全なデモクラシーが将来、日本に生かされるようになった暁は、現実にあったものとしては想像もされないようなものにちがいない。かかる圧政の下に私等は生きてきたのである。
 作家が恋愛を書くことを禁じられた、そういう時代があったのである



八月十九日

 新聞は、今までの新聞の態度に対して、国民にいささかも謝罪するところがない。詫びる一片の記事も掲げない。手の裏を返すような記事をのせながら、態度は依然として訓戒的である。等しく布告的である。政府の御用をつとめている。
 敗戦について新聞は責任なしとしているのだろうか。度し難き厚顔無恥

■朝日、毎日、読売など、その同じ新聞が今も数百万分の発行部数を誇っている摩訶不思議をいつも念頭に置いておこう。


八月二十九日

 東京新聞にこんな広告(注=特殊慰安施設協会の名で「職員事務員募集」の広告)が出ている。占領軍相手の「特殊慰安施設」なのだろう。今君の話では、接客婦千名を募ったところ四千名の応募者があって係員を「憤慨」させたという。今に路上で「ヘイ」とか「コム・オン」とかいう日本男女が出てくるだろう。


九月十二日

 (読売新聞)
 東条大将自決
  聯合軍側からの抑留命令直後
   昨午後自邸で拳銃で危篤

 期するところがあって今まで自決しなかったのならば、なぜ忍び難きを忍んで連行されなかったのだろう。なぜ今になって慌てて取り乱して自殺したりするのだろう。そのくらいなら、御詔勅のあった日に自決すべきだ。生きていたくらいなら裁判に立って所信を述べるべきだ。
 醜態この上なし。しかも取り乱して死にそこなっている。恥の上塗り

 大本営発表が明日限り廃止される。

■全く同感。後知恵でなくその場でこう言えた高見順はやはり凄い。


九月十四日

 杉山元帥自決。夫人も殉死


九月十五日

 小泉元厚相と橋田元文相とが自殺した。橋田氏の自決はいたましい。

■それぞれの遺書にどのような心情が記されているのか・・・


九月十六日

 太平洋米軍司令部の発表になる「比島に於ける日本兵の残虐行為」が新聞に出ている。一読まことに慄然たるものがある。
 ところで、残虐ということをいったら焼夷弾による都市住民の大量虐殺も残虐極まりないものである。原子爆弾の残虐はいうをまたない。しかし、戦勝国の残虐は問題にされないで、戦敗国の残虐のみ指弾される

■そして日本人はますます去勢されてしまった。


九月十九日

 外相更迭。田中静壱大将自決


九月二十九日

 天皇陛下がマッカーサー元帥と並んで立っておられる写真が新聞に載っている。かかる写真はまことに古今未曾有のことである。将来は、何でもない普通のことになるかもしれないが、今は、―今までの「常識」からすると大変なことである。日本国民は挙げて驚いているであろう。後世になると、かかる驚きというものは不可解とせられるに至るであろうが、そうして古今未曾有と驚いたということを小渡ろぅで有ろうが、それ故かえって今日の驚きは特筆に値する。

■さて、この記述にあなたの反応は?


十月五日

 西川光君と同社。『ライフ』のムッソリーニの死体写真を見せてくれた。情婦と共に逆さにつるされている。見るに忍びない残虐さだ。(中略)
 日本国民の東条首相にへの憤激は、イタリア国民のムッソリーニへのそれに決して劣るものではないと思われる。しかし日本国民は東条首相を私邸からひきずり出してこうした私刑を加えようとはしない
 日本人はある点、去勢されているのだ。恐怖政治ですっかり小羊の如くおとなしい。怒りを言葉や行動に積極的に現し得ない、無気力、無力の人間にさせられているところもあるのだ。

■それでも昔の日本人は政治家の私邸を焼き討ちするぐらいの元気はまだ持ち合わせていた。


十月十九日

 「武蔵」「大和」の写真がはじめて公表された。消失してから初めてその正体が国民に知らされたわけである。

■そして今日五月七日で映画で使われた戦艦大和のロケ・セットの公開終了とか。


十一月七日

 ○新聞が国民に向かって、戦時中の新聞の犯した罪に対してあやまるところがなくねはならぬと感じたのは、終戦直後のことであったが、忘れた頃になって、謝罪してくれる。(朝日新聞社説)

■今も昔も同じ。だって同じ新聞社だもの。


十一月十三日

 昨日、読売の社説にローマ字採用論が出ていた。「漢字を廃止するとき、われわれの脳中に存在する封建意識の掃討が促進され、あのてきぱきしたアメリカ式能率にはじめて追随しうるのである。文化国家の建設も民主政治の確立も漢字の廃止と簡単な音標文字(ローマ字)の採用に基づく国民知的水準の昂揚によって促進されねがならぬ。」(中略)
 「民主主義」の名の下に、バカがいろいろ踊り出る。

■新聞社は変わり身のすばしこさこそ生き残る術。


十一月十四日

 松坂屋の横にOasis of Ginzaと書いた派手な大看板が出ている。下にR.A.A.とある。Recreation & Amusement Associationの略である。松坂屋の横の地下室に特殊慰安施設協会のキャバレーがあるのだ。(中略)
 世界に一体このような例があるのだろうか。占領軍のために被占領地の人間が自らいちはやく婦女子を集めて淫売屋を作るというような例が―。支那ではなかった。南方でもなかった。懐柔策が巧みとされる支那人も、自ら支那女性を駆り立てて、淫売婦にし、占領軍の日本兵のために人肉市場を設けるというようなことはしなかった。かかる恥ずかしい真似は支那国民はしなかった。日本人だけがなしうることではないか。

■このような鋭い指摘をした人が他にいるのだろうか。『慰安婦問題』は国内問題でもある。


十二月三日

 「大変だ、大変だ」と号外売りが言っている。読売報知の号外であった。

 梨本宮、平沼、広田元首相ら
  五十九名に逮捕令下る
   戦争犯罪容疑者として


十二月七日

 近衛公、木戸侯ほか九氏に逮捕命令下る。


十二月十七日

 近衛公、荻外荘で自殺

■国民に謝罪するとの意志を明瞭に示して自決した政治家・軍人が全体で何人ぐらいいたのだろう。意志はいざ知らず、この日記に記された自決者を青文字で示したが余りにも少なすぎるのではないか。

この時代に日本全国でも一握りの存在でしかなかった『小説家』のさらにその一部に過ぎない『鎌倉文士』、そのなかでも高見順は希有の存在であったのかもしれない。「敗戦日記」を通して選り抜かれた日本人の『知性と感性』に接することができる感動を若い人々と共にしたいものである。