goo blog サービス終了のお知らせ 

日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

斉藤憐著「ジャズで踊ってリキュルで更けて」にみる西条八十

2006-05-10 17:16:36 | 音楽・美術

西条八十作詞・橋本国彦作曲「お菓子と娘」をいつ初めて聞いたのか記憶がさだかではないが戦後ラジオを通してであろう。この本に《敗戦から五年も経った頃だろうか、この時代に八十が作った「巴里娘」が毎日のようにラジオで鳴っていて、国分寺の長屋に住んでいた僕はエクレールたあ、どんな食い物かなと思っていた。》と書かれているからである。

その頃の巴里は萩原朔太郎が詠む「ふらんすへ行きたしと思えどもふらんすはあまりに遠し」の世界であった。そのふらんすはパリに西条八十は関東大震災後の大正十三(1924)年から二年間留学していたというのだからスケールが違う。文学少年でもなくただの歌好きの私には八十は格好いい『ダンディ』な『ハイカラ』さんなのであった。

この本の副題は「昭和不良伝・西条八十」で『ハイカラ』さんとは余りにも隔たりがある。それだけに八十の実体への好奇心がウズウズする。《童謡作家にしてフランス文学者、株屋にして早稲田大学教授、象徴派詩人にして流行り歌の作詞家。かけ離れたいくつかの貌を持つ八十の生きた時代のことを書いてみたいと思った》著者の意図は私にとってもまことに有難い。

西条八十はなぜ不良なのか。72~73ページにこう述べられている。
《次々に女に惚れて同棲したり結婚したり、修羅場の中で別れてもまた誰かに惚れる懲りない男を、性格破綻者という。北原白秋、野口雨情、後に登場する菊田一夫がこのタイプ。賢い女をカミサンにし、自分の城を固めといて、ビフテキの後はアイスクリームと、取っ替え引っ替えアバンチュールを楽しむ女の敵を、不良という。》

「後はどうにでもなります」と妻の晴子が差し出した二百円を足しにして家族を残し八十は鹿島立つ。そのマルセイユ行きの船の中で出会った十一歳年下の画家志望の女性と結局パリで愛の生活を共にすることになる。それから四十五年後の昭和四十四年、彼女が死去して告別式には出ているのだから筋金入りの『不良』である。自分の『悪行』の数々を小説集に刊行し、また晩年のアバンチュールは娘の嫩子(ふたばこ)さんが具体的に記録していたというから中途半端な生き方ではない。この『不良』ぶりはまたゆっくり渉猟するとして、私の驚いたのは誰が作詞したかも知らないまま歌ったり口ずさんでいた彼の歌が如何に沢山あったかということである。

戦時中覚えて今でも歌える軍歌の中の軍歌「若鷲の歌」(♪若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨)に「同期の桜」(♪貴様と俺とは同期の桜 おなじ兵学校の 庭に咲く)を八十が作詞しているのだ。

以下の歌も戦中・戦後の日本を生き抜いてきた人ならば誰でも知っている。

「東京行進曲}(♪昔恋しい銀座の柳 仇な年増を誰が知ろ)
「旅の夜風」(♪花もあらしも踏みこえて 行くが男の生きる道)
「誰か故郷を想わざる」(♪花摘む野辺に日は落ちて みんなで肩を組みながら)
「蘇州夜曲」(♪君がみ胸に抱かれて聞くは 夢の舟唄恋の唄)
「青い山脈」(♪若く明るい歌声に 雪崩は消える花も咲く)
「悲しき口笛」(♪一人都のたそがれに 想い悲しく笛を吹く)
「トンコ節」(♪あなたのくれたおびどめの だるまの模様がチョイトきにかかる)
「王将」(♪吹けば飛ぶような将棋の駒に 賭けた命を笑わば笑え)
などなど。

とにかく多彩なのである。しかし著者は平凡社の百科事典の西条八十の項を引き「・・・・・・昭和以降は《東京行進曲》など主として流行歌の作詞にたずさわり、芸術的には見るべき作を残していない」の部分を取り上げて、流行り歌作家は低俗だから論ずるに値しないと取り扱われていることに不満を抱いている。なぜなら著者の評価は全く異なるからだ。

《・・・・・嫩子さん。あなたのお父上がいなければ、中山晋平は「東京行進曲」を、服部良一は「青い山脈」を、古賀政男は「サーカスの唄」を作れなかった。
 森繁久弥は「お山の大将」を、美空ひばりは「越後獅子の唄」を歌えなかった。
 戦地で兵士たちが歌ったのは、軍歌じゃなくて、「旅の夜風」「誰か故郷を想わざる」だった。
 僕たちは、七月十四日に「巴里の屋根の下」を聞くこともないし、お盆に「東京音頭」も踊れない。
 出撃を明日にひかえた特攻隊員たちは「同期の桜」を歌えなかった。
 八十が才能を見いださなかったら、野口雨情も金子みすずも、サトウ・ハチローも詩を残さなかった。》

同じ平凡社でも世界大百科事典には大岡信氏の署名入りで「《赤い鳥》の童謡運動に積極的に加わり、名作を多く作ったほか、民謡、歌謡曲、軍歌などの作詞で一世を風靡した」と出ているので、蛇足ではあるが著者はこちらも見ておけばよかったと思う。

西条八十は昭和四十五(1970)年八月十二日、死去を伝える新聞広告の原稿を残して世を去った。
《「私は今日永眠いたしました。長い間の皆様の御好誼に対し厚く御礼申し上げます。西条八十」。》

やっぱり『ハイカラ』かつ『ダンディ』であったのだ。

著者が最後に引用している西条八十の「おわりの詩」の第二節。

《わたしは生きている
 わたしの唄をうたう人の赤い唇に
 唄を聴く人々の静かな耳朶に
 また その唄をはこぶ
 街中の青い微風の中に 大ぜいの人の中に
 温かくいだかれて
 生きているわたしはしあわせだ
 わたしは風
 わたしは光 わたしはこだま
 姿は消えても永遠に生きる
 うたって下さる 聴いてくださる
   みなさんありがとう》

なんて『不良』は幸せなんだろう。