2月12日のブログで私は以下のようなことを述べている。
《先ほど(2月12日)のサンデー・プロジェクトで櫻井よしこ氏が昭和天皇が養子の可能性をご下問されたが、それを昭和天皇が男系にこだわられたしるしのように発言していた。この発言の根拠を私は知らないが、「西園寺公望傳」の記述は櫻井氏の発言内容と明らかに食い違っている。》
その後福田和也氏も文藝春秋3月号(2006)に『牧野伸顕日記』(昭和六年三月二十六日)を引用して,、昭和天皇がご自分の養子の可能性を西園寺公望に問い合わせたように述べている。櫻井氏と同じ主張である。
ちなみに『牧野伸顕日記』昭和六年三月二十六日の記事は次の通りである。
《三月二十六日
ブラジル大使離任に付御陪食賜る。陪席す。
宮相より内話の次第あり。二十五日興津行之予定を申上げたるに、好き機会なればとて三ケ条に付西園寺の意見承知したしと仰せありたる由。
第一、此際皇室典範を改正して養子の制度を認むるの可否。
第二、華族階級に低(逓)減主義を取るの可否。
第三、邦英王臣籍降下に付授爵の階級に関する件、なり。
然るに第一、二に付ては近々出京之上拝謁の際奉答致度、第三に付ては彼是事情はあるべきも伯爵可然旨言上相成度とのことに有之候。》
私は『西園寺公望傳』の記載に基づいて《昭和天皇はご自分の後嗣のことを考えて『皇族に養子』を西園寺に下問されたのでないことはこれで明らかである。》と論じた。第一を第三に関連するものと解釈したのである。
ここで『西園寺公望傳』からの引用を再録しておく。
《第一は皇室典範を改正して皇族に養子の制度を認めることの可否、
第二は華族階級に逓減主義を取るの可否、
第三は久邇宮邦英王臣籍降下につきどの爵位が適当か、の三件があげられる。》
この引用の部分に関して「江差」氏より次のコメントを頂いた。
《第一の「皇室典範を改正して皇族に養子の制度を認めることの可否」と第三の「久邇宮邦英王臣籍降下につきどの爵位が適当か」というのは関連性がないようにも思えます。したがって、邦英王に賜うべき爵位についての記述は、邦英王を東伏見宮の王とみなして侯爵とするか、あくまで実系主義を尊重して久邇宮の王であるから、伯爵とするかの問題であって、皇室典範を改正して養子を認めるか否かの記述とは関係ないのではないでしょうか?》
確かに「江差」氏がご指摘される受け取り方もあると思う。第一と第三が別のこととしておいてもよい。しかしだからと言って昭和天皇がご自分の養子の件でご下問されたことになるのだろうか。いや、やはりそうではないのである。前回に触れなかったが、この疑問への解答は『牧野伸顕日記』と『西園寺公望傳』を比べてみると自ずと明らかになるのでここに両者を併記する。
『牧野伸顕日記』 此際皇室典範を改正して養子の制度を認むるの可否
『西園寺公望傳』 皇室典範を改正して皇族に養子の制度を認めることの可否
後者では『皇族に養子』と範囲を明らかに皇族に限定しているのである。
ここで旧皇室典範(明治22年2月11日)を引用することになるが、第七章皇族では
第三十条 皇族ト称フルハ太皇太后皇太后皇后皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃親王親王妃内親王王王妃女王ヲ謂フ
とあり、皇族に天皇が入っていない。なぜなら天皇は皇族ではないからである。天皇を皇族に含めないというのが明治憲法下の決まりなのであり、だからこそ天皇のみが『現人神』であり得たのである。
従って『西園寺公望傳』の記載に従う限り昭和天皇がご下問されたのはご自分の養子のことではないことが明白である。やはり第一は第三と関連するものと解釈するのが妥当ではなかろうか。
『牧野伸顕日記』の内容では皇族が脱落しているが故に昭和天皇ご自身のこととする解釈が成り立たないわけではない。しかし天皇と皇族が明らかに異なる身分である当時の状況で、天皇か皇族か、あの科学者昭和天皇が曖昧にされたままご下問されたとは考えにくい。
私が『西園寺公望傳』の記載を是として『昭和天皇は養子を後嗣に考えられたのではない』と再度主張する所以である。
《先ほど(2月12日)のサンデー・プロジェクトで櫻井よしこ氏が昭和天皇が養子の可能性をご下問されたが、それを昭和天皇が男系にこだわられたしるしのように発言していた。この発言の根拠を私は知らないが、「西園寺公望傳」の記述は櫻井氏の発言内容と明らかに食い違っている。》
その後福田和也氏も文藝春秋3月号(2006)に『牧野伸顕日記』(昭和六年三月二十六日)を引用して,、昭和天皇がご自分の養子の可能性を西園寺公望に問い合わせたように述べている。櫻井氏と同じ主張である。
ちなみに『牧野伸顕日記』昭和六年三月二十六日の記事は次の通りである。
《三月二十六日
ブラジル大使離任に付御陪食賜る。陪席す。
宮相より内話の次第あり。二十五日興津行之予定を申上げたるに、好き機会なればとて三ケ条に付西園寺の意見承知したしと仰せありたる由。
第一、此際皇室典範を改正して養子の制度を認むるの可否。
第二、華族階級に低(逓)減主義を取るの可否。
第三、邦英王臣籍降下に付授爵の階級に関する件、なり。
然るに第一、二に付ては近々出京之上拝謁の際奉答致度、第三に付ては彼是事情はあるべきも伯爵可然旨言上相成度とのことに有之候。》
私は『西園寺公望傳』の記載に基づいて《昭和天皇はご自分の後嗣のことを考えて『皇族に養子』を西園寺に下問されたのでないことはこれで明らかである。》と論じた。第一を第三に関連するものと解釈したのである。
ここで『西園寺公望傳』からの引用を再録しておく。
《第一は皇室典範を改正して皇族に養子の制度を認めることの可否、
第二は華族階級に逓減主義を取るの可否、
第三は久邇宮邦英王臣籍降下につきどの爵位が適当か、の三件があげられる。》
この引用の部分に関して「江差」氏より次のコメントを頂いた。
《第一の「皇室典範を改正して皇族に養子の制度を認めることの可否」と第三の「久邇宮邦英王臣籍降下につきどの爵位が適当か」というのは関連性がないようにも思えます。したがって、邦英王に賜うべき爵位についての記述は、邦英王を東伏見宮の王とみなして侯爵とするか、あくまで実系主義を尊重して久邇宮の王であるから、伯爵とするかの問題であって、皇室典範を改正して養子を認めるか否かの記述とは関係ないのではないでしょうか?》
確かに「江差」氏がご指摘される受け取り方もあると思う。第一と第三が別のこととしておいてもよい。しかしだからと言って昭和天皇がご自分の養子の件でご下問されたことになるのだろうか。いや、やはりそうではないのである。前回に触れなかったが、この疑問への解答は『牧野伸顕日記』と『西園寺公望傳』を比べてみると自ずと明らかになるのでここに両者を併記する。
『牧野伸顕日記』 此際皇室典範を改正して養子の制度を認むるの可否
『西園寺公望傳』 皇室典範を改正して皇族に養子の制度を認めることの可否
後者では『皇族に養子』と範囲を明らかに皇族に限定しているのである。
ここで旧皇室典範(明治22年2月11日)を引用することになるが、第七章皇族では
第三十条 皇族ト称フルハ太皇太后皇太后皇后皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃親王親王妃内親王王王妃女王ヲ謂フ
とあり、皇族に天皇が入っていない。なぜなら天皇は皇族ではないからである。天皇を皇族に含めないというのが明治憲法下の決まりなのであり、だからこそ天皇のみが『現人神』であり得たのである。
従って『西園寺公望傳』の記載に従う限り昭和天皇がご下問されたのはご自分の養子のことではないことが明白である。やはり第一は第三と関連するものと解釈するのが妥当ではなかろうか。
『牧野伸顕日記』の内容では皇族が脱落しているが故に昭和天皇ご自身のこととする解釈が成り立たないわけではない。しかし天皇と皇族が明らかに異なる身分である当時の状況で、天皇か皇族か、あの科学者昭和天皇が曖昧にされたままご下問されたとは考えにくい。
私が『西園寺公望傳』の記載を是として『昭和天皇は養子を後嗣に考えられたのではない』と再度主張する所以である。