日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

熟年にお勧め 堀川哲著「エピソードで読む西洋哲学史」

2006-05-19 18:35:04 | 読書

私は『哲学』という文字が目にはいるとドキッとする。そして忸怩たる思いにとらわれる。生まれてこの方まともな哲学の本を一冊も読んだことがないからである。

この本の目次には二十三人の名前が出てくる。デカルト、スピノザ、ホッブス、ロック、ヒューム、ヴォルテール、ディドロ、ルソー、スミス、カント、ヘーゲル、マルクス、ニーチェ、ハイデガー、フロイト、ヴィトゲンシュタイン、サルトル、ボーヴォワール、ウィーナー、ドーキンス、ジャック・モノー、ローティー、チョムスキー、ローズ。著作を読んだことがなくても最後の三人を除いて名前ぐらいは何故か知っているのが不思議だ。さらに言えばドーキンスの「The Seifish Gene」とモノーの「偶然と必然」は手元にあることはある。しかし読んだとは胸を張って言い切れない。

哲学の本を読まなくても定年まで仕事をしてくるのになんの支障もなかったし、読む必要も感じなかった。これからの人生にも特に必要はないかも知れない。となると『哲学』は少なくとも私にとっては無用の長物と切って捨てることもできよう。ところがそれが簡単には出来ないのである。というのも私が大学院を修了したときに頂いた学位がアメリカ流に云えばPhD、Doctor of Philosophyの略で文字通り訳すと『哲学博士』、だから困ってしまう。そういうこともあって『哲学』の本についつい目がいくのである。

私が書店で手にしたこの本は「おわりに」が決め手だった。それで買ってしまった。

《人生はある意味では時間つぶしである。》
《だれもが人生の時間つぶしを自分の流儀で遂行する。同じ人生、できれば充実したものでありたい。そこでいろいろと考える。》

三日で読了した。寝る前にベッドの中でもかなり前に進んだ。それぐらい気安く読める本だったのである。

「哲学者歴伝」のような形式になっている。著者はその時代の思想背景を簡単に解説してから哲学者それぞれの経歴を『三行記事』で紹介することから始めて、どのような生活をしていたか、その一生を面白いエピソードを交えて語ってくれる。そしてその『思想』を代表的な著作に基づいて解説して読者(私)を分かったような気にさせてくれる。最後に「読書案内」として代表的な著作を薦めてくれている。

この本は「分かったような気にさせてくれる」というのがミソである。

アダム・スミスの「国富論」にしても著者は《『国富論』という本は、要するに、自由な経済競争ができる場合にだけ、国の経済が発展し、パイが大きくなり、国民が豊になる、ということを説明するために書かれた本なのである。》と極めて要領よくまとめてくれる。「パイ」というのは一国の全ての富のこと。これなら分かる。

スミスはオックスフォード大学に六年ほど通ったが失望した。それで「国富論」に次のようなことを書くことで復讐したそうである。

《「オックスフォードの教師達は何も勉強していない。だから講義ができない。講義には準備が必要となるから、オックスフォードの教師はそれを嫌がる。しかし、いい手がある。『外書講読』という手である。ラテン語かギリシャ語の本をテキストにする。学生にそれを訳させる。語学力は学生よりもあるから、学生の訳の間違いをときどき直してやればいい。それだけしかない、これは教師が楽になるための方法である。こんなものは授業ではない。教えるふりをするだけのことである」と書いている(これは今でも真理である)。》

括弧内は著者の注釈。著者も同僚に含むところがありそうにとれるが、私は幸いにも「国富論」を読んでいないおかげで至極真面目に講義の準備をしたとも言える。でも面白そうだから「国富論」を買ってやろうという気にさせられた。

ウィトゲンシュタインという人がいる。二十五歳で書いた「論理哲学論考」という論文で、もう哲学の問題は全て最終的に解決されたとの確信を述べているそうである。そして著者は次のように解説している。

《「答えが成立するときだけ問いも成立し、そして何かが語られうるときだけ答えも成立する」。人生の意味については私たちは問うことさえもできないのだ。それは答えがありえないからであり、それについて語ることはできないからである。語りえないものについて人は沈黙しなければならない、のである。これが『論理哲学論考』の結論となる。》

これもよく分かる。国民の選良たる国会議員にエッセンスを是非会得していただき、国会での質疑応答の質を高めていただきたいものである。。

人物について私は何も知らないが、ジョン・ロールズの「正義論」(1971年)という本の紹介がまたいい。《今や(今でも)少なくともアメリカの大学では、この本は政治哲学や倫理学の学生・大学院生にとっての古典であり、必読文献である。》

《正義とは何か、というテーマがきわめて抽象的な哲学の言葉で記述される。きわめて無味乾燥な言葉で記述される。》
《これが政治哲学者や大学院生に受けた理由はわかる。これを対象にすると論文がかけるのである。理詰めであるから、論理の関係を論じることができるし、矛盾や飛躍を指摘することもできる。そうやっていくと学術論文が書ける。それがどうしたと思われるかもしれないけれど、これをやると論文が書けるかどうかは業界では大切なポイントである。ほとんど死活の問題である。》

この著者、こんなことを言って業界で生き延びられるのだろうか。

この本を読むとまともな哲学書を読まなかった私は極めて賢明であったように思う。哲学者の語っていることの多くは要するに『常識』なのである。「なるほど、なるほど」と頷く箇所が結構あった。ということは私のこれまでの人生で身に付いてきたものの見方・考え方がわたしの『哲学』になっているのである。いや、ご立派、PhDを体現していたのである。

人生体験豊富な熟年の方々は多分私と同じ思いを抱かれるだろう。この本を読むと自分はヒューム型、サルトル型、いやウィトゲンシュタイン型、etc と必ず思い当たることがあるはずだ。十分退屈しのぎになる。


走り梅雨に本がやって来た

2006-05-19 12:04:37 | 読書

雨が多い、雨が続く。こういうのを『走り梅雨』というのだろうか。
今日もお昼から神戸市立博物館の「江戸の誘惑」展を観にいくつもりだったけれど、雨脚に気後れがして迷っているところにAmazon.comから15日に注文した本が届いた。

斉藤憐著のかずかず、どれも面白そうだ。たとえば「昭和不良伝」の帯には

 永井荷風を捨てた女 藤蔭静枝
 マンハッタンからの眺め 石垣綾子
 金子光晴と巴里道中 森三千代
 シャボン玉の人生 佐藤千夜子
 モスクワの裏切り 岡田嘉子

なんて旧知?の女性が紹介されている。

旧知というと誤解を招くが、藤蔭静枝の二代目とは一つ写真に納まったことがあるし、石垣綾子の「石垣綾子日記」上下(岩波書店)はなかなか面白かったし、森三千代は金子光晴の一連の『放浪もの』でとっくにお馴染み、ソプラノの佐藤美枝子をいつも佐藤千夜子と言ってしまうし、岡田嘉子とはテレビでお目にかかっているから、と言う程度のこと。それにしても今も昔も日本女性は逞しい。

雨の音を聞きながら読んでみようと思っている矢先、外が明るくなってきた。