日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

斉藤憐著「ジャズで踊ってリキュルで更けて」を楽しむ

2006-05-13 12:24:19 | 読書
読書の楽しみは多様である。知らなかったことを知るだけでも楽しいのに、『なるほど』(同感)、『ふ~ん』(ほんとうかな?)、『へぇ~』(驚いた)、『ほほぅ』(感心する)と思わず口に出てくる箇所が多ければ多いほど得をした気分になる。

西条八十に対する興味から読み始めた斉藤憐著「ジャズで踊ってリキュルで更けて」(岩波書店)もそのような本であった。「 歌は世につれ、世は歌につれ」と言われるがまさにその通り、著者は歌を語ることでその歌の生まれた時代をプレイ・バックする。それに被された著者のナレーションに私が結構敏感に反応するのである。そのいくつかを取り上げてみる。

♪星はまたたき 夜ふかく
 なりわたる なりわたる
 プラットホームの別れのベルよ
 さよなら さよなら
 君いつ帰る

奥野椰子夫作詞・服部良一作曲の「夜のプラットホーム」で戦後二葉あき子が歌って大いにヒットした。実はこの曲は戦前に発売された(昭和十一年前後?)がその直後に発売禁止処分を受けていたのである。そこで著者のナレーション、
《平時だったら、なんでもない歌詞だ。しかし、作詞の奥野椰子夫は、出征兵士を見送る神戸駅のプラットホームで涙を堪えている若妻を見て、詞を書いている。この曲を聴けば、出征兵士との別れだと国民が思うだろうと、当局が考えたのは当然だった。》

つい一週間前にも表玄関に戦前の面影を残す神戸駅から電車に乗ったばかりである。出征兵士は多分この同じプラットホームから下りの汽車に乗ったのだろうなんて想像していた。しかし、である。なぜこの歌が発禁になったのか、私には分かるようで分からない。それぐらい理不尽が罷り通っていたのだろうな、と思うことは出来た。


《昭和十六(1941)年、日本は鬼畜米英との戦争をはじめ、平成十六(2004)年、日本は米英とともに天に代わりて不義を討つ戦争をはじめた。》
《日米戦がはじまると、「敵性音楽」が問題になり、日本放送協会は大晦日の「蛍の光」を追放、「埴生の里」も「故郷の空」も禁じられた。》
《思えば、日本の音楽教育はアメリカに留学した伊沢修二によってはじめられ、文部省は英米のヨナ抜き音階の曲を唱歌として全国の子どもたちに押しつけた。その八十年後、英米楽曲選曲が演奏禁止となり、これまで、西洋音階を叩き込んでいた唱歌の時間は、西洋の「敵の航空機や潜水艦の音を察知するための音感教育」の場となった。》

私はその『音感教育』を受けてきた世代なのである。


♪青い目をした お人形は
 アメリカ生まれの セルロイド
 日本の港へ ついたとき
 一杯涙を うかべてた

野口雨情作詞・本居長世作曲「青い目の人形」が発表されたのは大正十(1921)年であるが、その六年後の昭和二(1927)年に偶然であるがアメリカから一万二千余体の「友情の人形」が送られてきた。日米移民排斥運動に心を痛めたアメリカ人、ギューリック博士の呼びかけで国際親善の願を込めて贈られたものである。(以上の部分は読売文化部「唱歌・童謡ものがたり」(岩波書店)に基づいているが、斉藤氏によると《「青い目の人形」は、昭和二年、アメリカの宣教師シドニー・ギューリック博士が渋沢栄一氏とともに米国の人形を「平和の親善大使」として日本に贈ることを企画したものだ。》とある。)この人形は全国の小学校や幼稚園に贈られた。

《(翌)昭和十六年、「敵国アメリカの人形はスパイだから捨てるように」との通達が、全国の学校や幼稚園に伝えられ、青い目の人形は焼かれて「青い目の人形」も歌われなくなった。》

『へぇ~』、『ふ~ん』である。


その戦時のまっただ中、サトー・ハチローが古賀政男とのコンビで「青い牧場」を出している。

♪誰の涙か朝露か 仔山羊の角が光ってる
 どこだよ そこだよ あの丘だ
 どこだよ そこだよ あの影だ
 売られた仔山羊は 仔山羊は
 メエメエ帰ってくる

この歌が発禁処分をくらっているのだ。何故か。

《小沢昭一は、歌った杉狂児が〔メエメエ〕をあまり見事に仔山羊の真似をして歌ったから発禁になったと言うが、この説明だけじゃ、なぜ発禁になったかわからない。
 この詞をばれ唄としてみると、「角が濡れて光って」「どこだよ、そこだよ」と探るのが「丘と影」というわけだ。そして切れ切れの泣き声。それにしても昭和十八年に、恐い検閲官をこうしてからかったサトウ・ハチローは凄いが、見破って発禁にして検閲官もハチローの根性を見抜いていて天晴れ!》

私には禅問答のようでさっぱり分からないが、このようなご時世にも高見順のみならず日本の知性が健在であったことは確かなようだ。


その戦争中《昭和十六年に音楽挺身隊長に就任し、高級将校の軍服に似た衣装に拍車をつけた長靴をはき、日本刀をひっ下げて歩き廻った》山田耕筰が、戦後ふともらした言葉を山住正巴の「近代日本と音楽」から著者は引用している。

《「私は戦後になってほんとうにがっかりしたことがある。それは天皇が退任しなかったことだ。それまで天皇に対して非常な尊敬の念をもっていたが、天皇は戦争の責任をとろうとしなかった。天皇が責任をとらないのに、どうして我々がとる必要があるのか」》

『なるほど』、ここにも戦後に甦った日本の知性がある。
ここで昭和天皇の退位問題に関心を抱かれた方は「不忠の『臣・茂』?・・・」をご覧あれ。


戦後昭和二十二(1947)年にNHKの「日曜娯楽版」が始まった。私も楽しみにしていた番組である。三木鶏郎の「冗談音楽」が目玉で、小学唱歌「会津磐梯山」の次のような替え歌の流れたことがあるらしい。

♪イヤア 銀行公団は宝の山よ ハヨイト
 窓に黄金がエエ マタ成り下がる
 公団総裁何で身上つぶした
 浮気 浮酒 浮き貸し大好きで
 それで身上つぶした

《講和条約が発効し、占領体制が終わると昭和二十七(1952)年六月には「冗談音楽」が「ユーモア劇場」と改名させられ、政治風刺が圧殺された。》

ここは著者とは少し意見が異なる。『占領体制』は姿を変えて続いているし、戦争を知らない世代が牛耳る怯懦なマスメディアの『自己規制』が現在の政治風刺の不在をもたらしたのである。


斉藤憐氏は反骨の方でもある。氏に失礼を顧みずに言わせていただくと、まるで私が乗り移ったかのような言葉がボンボンと飛び出る。

《昭和二十年十二月、五歳の僕は自分の体重ほどもあろうかというリュックサックを背負って、京城(ソウル)から日本という国に引き揚げてきた。京釜線の無蓋貨車に吹き付ける風や、引き揚げ家族の戦後のひもじさは、「だれが」「いつ」「なぜ」、僕に残した負債だったのか?》

著者と私に共通の原点があったとみた。

最新の画像もっと見る