木村正治のデイリーコラム

木村正治(きむらまさはる)が世の中の様々な事項について思う事や感じた事を徒然に綴っています。

卒業式

2004-03-20 14:36:27 | インポート
 小学校の卒業式に来賓として参加させて頂く。思えば
私も記憶の中にいつまでも濃く残っているのは小学校の
卒業式である。不思議であるが、小学生の頃の記憶とい
うのは強く残っている。

 私の故郷の小学校は、木造校舎と山河と海に恵まれ、
少年を包むには理想的な環境であった。小学校の環境に
は感謝している。
 さて、卒業生と在校生とが式の中で歌を交換しあう
形はほぼこれが定着しているのだろうか、私が少年の頃
と今回参加した卒業式とでは歌の中身こそ違うが、歌を
交換する姿は共通であった。

 おおよそ小学生は従順で愛らしい。少なくとも成人式
よりは小学生の卒業式のほうが行儀が良かった。しかし
この小学生も中学生、高校生と段階を経ていくうちに時
に荒れていくこともある。
 人の成長の中にある、荒れていく過程や反抗期を経て
また人は大人になっていくのだろう。
 誰にでも、幾つもの卒業式がある。

 楽しい時間も卒業する時がくる。
 間違った道を進みかけた、そういう時間を卒業する人
 もいる。卒業できない人もいる。
 卒業できない恋がある。
 それまでの考え方を卒業する時がある。
 ・・・卒業ということでも色々な場面がある。

 保護者や来賓の席で歌を歌う声が無かったり小さいも
のであるならば、小学生に示しがつかないし、大人が
節目の場面ではまじめな姿を見せておく必要があると思い
「蛍の光」はきちんと声を出して歌った。
 そういう私のほうを興味深そうに時折見やる小学生がいた。

 こういう時間が大切だと改めて感じる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

覚悟の時間

2004-03-18 09:36:05 | インポート
 祖母が脳梗塞で入院し退院後、グループホームに入った。
その人がその人ではなくなるという厳しい現実を直視する
覚悟の時間だった。
 
 高齢社会の現実と少子社会の影響、社会のあり方そのもの
について衝撃と共に考えさせられる日々が続いている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マラソン五輪代表選考

2004-03-16 09:16:04 | インポート
 新しい時代を拓いてきた人には敬意を覚える。女子マ
ラソンでは増田明美氏、有森裕子氏、そして高橋尚子氏
の三氏が時代の礎となっているといえる。
 勝敗は時の運。しかしながら女子マラソン五輪代表に
高橋尚子選手の名前が無かったことには驚きを隠せなかった。
 国内最高記録保持者や実績があるというのみでなく、前回
のシドニー五輪の金メダリストであるからだ。

 マラソン経験者でも意見は分かれている。ましてや弁護士
や他の分野の選手や評論家の意見は時に法解釈的な論理で
しかなく唖然とするものもあったが、ともかくも意見は分か
れている。
 国際五輪委員会に臨むのは、五輪の金メダリストは次回
の五輪に無条件で招待するという発想になって欲しいという
ことである。五輪は勝利至上主義ではなく、平和とスポーツ
の祭典であるという五輪精神にのっとればこそ、本人が拒否
したり辞退しない限り、団体種目は別として個人競技では
金メダリストを招待するというものになって欲しい。
 例え前回の五輪での金メダリストが今度の五輪で最下位に
なったとしても、五輪精神があればこそそれでも良いのでは
ないか。本人が拒否しない限り。

 選考も難しい。五輪は一発勝負だから一発勝負で三人を選
ぶべきだという意見もあるが、一発勝負で勝てた人が次の本番
の大舞台で勝てるかと言えばそうでもない。
 しかしながら実績を重ねてきた人が五輪という大舞台で実績
通りの力が発揮できるかといえばこれまた未知数である。
 陸連の趣旨であった、「世界で戦えることが条件」というの
は極めて妥当な視点だが、やはり誰にするのかということに
なると難航するのだろう。

 これは、マラソンのみでなく全ての分野にいえることだが
人選には必ず前進とともに遺恨も残る。
 今回の人選も五輪本番で吉とでれば良いが、三選手がふるわ
なかった時がまた選考した側からすれば辛いだろう。

 色々と考えさせられた女子マラソン代表選考だが、どれも
これも皆、実力があるから選考に揉めるということ。
 五輪での健闘を祈ります。

 それにしても高橋尚子選手、残念。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

身体はごまかせない

2004-03-15 07:06:32 | インポート
 複数の行事が同時に重なり、どれも参加したい内容の
ものばかりで嬉しい悩みの一日だった。
 
 京都シティーハーフマラソンに出場できると喜んでい
たが、急遽、様々な所用が入ってしまい参加できなくな
り残念だった。この大会は学生の頃から参加しており、
京都の市街地を走る思い出の深い大会だけに、来年以降
も参加してきたい。

 仕事の関係で会える時間が取れなくなった方々や、諸
先輩にも大会で会えるとそれがまた良い時間になる。
 学生時代には良い記録で走っていた先輩方も忙しい仕事
の影響ですっかりなまってしまい、しかしながら順位や
記録に関係なく最後まで毎年のように走っておられる姿
には、本当に走ることが好きなのだなという感銘を受ける。

 球技にしろ、走ることにしろ、少し遠ざかると下半身や
その他諸々あっという間に衰えて堕落したプレーになって
しまう。言葉ではごまかせるが、身体はごまかせないとこ
ろが運動の醍醐味でもある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虐待防止に向けて

2004-03-13 12:02:46 | インポート
 親が幼児や子供を虐げると虐待になる。夫が妻を虐げ
るとDV(ドメスティック・バイオレンス)いわゆる家
庭内暴力になる。高齢者を介護の家庭や施設において非
情な扱いをしても虐待になる。
 これらは全て行動や行為が同じであるのだが、世の中
で虐待として防止策を講じられているのは児童虐待という
枠内であることが多いのが不思議な思いである。

 家庭内暴力も定義の問題であって、DVとするのか虐待
とするのか定義が違うだけである。「虐待」というのは
むごく扱うということであるから、児童虐待も高齢者虐待
も一括して虐待として捉え、虐待防止対策としてできない
のだろうかと、ある場で問うと、なかなか管轄がそれぞれ
違うようで、児童虐待は関係部署が行うが高齢者虐待にな
ると連携が困難であるとか、家庭内暴力は人権に関係する
から別であるというのが自治体での組織運営上の実状であ
あるようだ。
 人々の物事一つ一つが全て、発想までもが縦割りに固ま
っている。

 つい数年前まで、西欧社会やアジア各国では児童虐待が
しばしばあるが、我が国ではほとんど実例が見られないと
いう見解が主流だったが、実は虐待の実態が表に出ていな
かっただけで我が国でも同様に児童虐待は存在していた。
 学生時代に国際社会福祉という講義を受けて、カナダの
講師が半年間、カナダの児童虐待の問題を説いたことを
思い出すが、今更ながらに身近な市町村で虐待問題が顕在
化していることに考えさせられる。
 生活に密着した地域単位での取り組みも、時に私生活が
地域ぐるみで筒抜けになるという危うさも含んでいる。

 年老いた親を年老いた子が介護する際に、介護疲れで
倒れる人々や介護をされる方々への人権配慮の面など、まだ
まだ世の中の行政体制にしろ、世間の取り組みにしろ、
未開拓や未構築な分野が多分にある。
 変化し続ける社会の実状を言い当てる発想や概念そのもの
も育っていないような隙間を埋めていく努力を続けていく
必要を感じている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする