先日のブログの中で述べた「怪我がなかったのが幸いだが、ニュース・カメラマンの立場としては不幸、といっておこう」という言葉について不快感をもった方もいるようだし、この問題は紛争地で仕事をするときに常に頭につきまとっていることなので、少しばかり言及しておこうと思う。
基本的に僕のやっているような報道写真家という仕事は、気持ちの上では矛盾の上に成り立っている。それは、はっきりいってしまえばこの職業が「他人の不幸で飯を食う」という類のものだからだ。
正義感や使命感など振りかざすつもりなど毛頭ないが、自分自身の探究心や好奇心によること以外に、僕は、写真によってそれがささいなことでも被写体の生活を良くすることに貢献できれば、という思いを持ちながら仕事をしている。
しかし、そのためには、現場で起こっている悲惨な現実をまず人々に伝えなくてはならない。世の中が変わるためには、まず「現実を正確に知ること」、それについて「感じ、考えること」、そして「行動すること」という3つのステップが必要になる。報道写真というのは、その第1ステップに必要である「現実を伝える」という役割を担っていると思う。
だから、もし僕がわざわざ危険を犯して戦地に赴いても、その戦地の現状を十分に伝える写真を撮ることができなればそれは単なる無駄足ということになり、報道写真家としての役割を果たせなかったということになる。
今回のイラクでの従軍では、爆弾テロや砲撃が毎日のように起こっているにも関わらず、僕はそういう現場に居合わせることができなかったし、その悲惨な現状をアメリカや日本で生活している人たちに伝えることができなかった。僕自身がパトロール中に狙撃されたり、路上爆弾で吹き飛んだりしたって別におかしくはない状況なのだ。そこまでのリスクを犯しながらも、結局僕は「意味のある」写真を撮ることができなかったのだ。
だから、報道カメラマンとしては「不幸だった」といったのだ。
仕事柄何度も目にしてきたこととはいえ、傷つき苦しむ人間や屍をみるのは嫌なものだし、それが自分と何からの関わりを持った人間であればなおさらのことだ。しかし僕は、兵士達がトランプに興じたり、軍用車のなかで昼寝をしているような写真ばかりを撮るためにわざわざイラクまで足を運んだわけではない。
あまりに頻繁に路上爆弾が仕掛けられるため、毎日パトロールのために兵士達と一緒に軍用ジープのなかで揺られながら、僕の頭の中ではいつもこんなことが堂々巡りしていた。
「1秒先に爆発がおこるかも。。。もし爆発がおこっても、誰も死んでは欲しくないな。。。でも誰かが怪我でもしないと写真にならないな。。。10メートルほど先の爆発なら、車が破壊されて怪我人が数人でるかな。そうすれば誰も死なないし、写真も撮れるな。。。もし自分の車がやられたら、一発で即死にしてもらいたいな。。。」
なんという悪魔的思考であろうか。。。不謹慎な、と糾弾されても仕方がないが、これが正直な僕の胸の内、であった。
こういう精神的「矛盾」は、この仕事を続ける限り常につきまとい続けるのだ。
ちなみに僕は、もし自身が怪我をしたり死ぬようなことがあれば、その姿を写真に収めてきちんとその現実を世間に伝えてもらうように同行する記者や兵士たちにお願いすることにしている。
基本的に僕のやっているような報道写真家という仕事は、気持ちの上では矛盾の上に成り立っている。それは、はっきりいってしまえばこの職業が「他人の不幸で飯を食う」という類のものだからだ。
正義感や使命感など振りかざすつもりなど毛頭ないが、自分自身の探究心や好奇心によること以外に、僕は、写真によってそれがささいなことでも被写体の生活を良くすることに貢献できれば、という思いを持ちながら仕事をしている。
しかし、そのためには、現場で起こっている悲惨な現実をまず人々に伝えなくてはならない。世の中が変わるためには、まず「現実を正確に知ること」、それについて「感じ、考えること」、そして「行動すること」という3つのステップが必要になる。報道写真というのは、その第1ステップに必要である「現実を伝える」という役割を担っていると思う。
だから、もし僕がわざわざ危険を犯して戦地に赴いても、その戦地の現状を十分に伝える写真を撮ることができなればそれは単なる無駄足ということになり、報道写真家としての役割を果たせなかったということになる。
今回のイラクでの従軍では、爆弾テロや砲撃が毎日のように起こっているにも関わらず、僕はそういう現場に居合わせることができなかったし、その悲惨な現状をアメリカや日本で生活している人たちに伝えることができなかった。僕自身がパトロール中に狙撃されたり、路上爆弾で吹き飛んだりしたって別におかしくはない状況なのだ。そこまでのリスクを犯しながらも、結局僕は「意味のある」写真を撮ることができなかったのだ。
だから、報道カメラマンとしては「不幸だった」といったのだ。
仕事柄何度も目にしてきたこととはいえ、傷つき苦しむ人間や屍をみるのは嫌なものだし、それが自分と何からの関わりを持った人間であればなおさらのことだ。しかし僕は、兵士達がトランプに興じたり、軍用車のなかで昼寝をしているような写真ばかりを撮るためにわざわざイラクまで足を運んだわけではない。
あまりに頻繁に路上爆弾が仕掛けられるため、毎日パトロールのために兵士達と一緒に軍用ジープのなかで揺られながら、僕の頭の中ではいつもこんなことが堂々巡りしていた。
「1秒先に爆発がおこるかも。。。もし爆発がおこっても、誰も死んでは欲しくないな。。。でも誰かが怪我でもしないと写真にならないな。。。10メートルほど先の爆発なら、車が破壊されて怪我人が数人でるかな。そうすれば誰も死なないし、写真も撮れるな。。。もし自分の車がやられたら、一発で即死にしてもらいたいな。。。」
なんという悪魔的思考であろうか。。。不謹慎な、と糾弾されても仕方がないが、これが正直な僕の胸の内、であった。
こういう精神的「矛盾」は、この仕事を続ける限り常につきまとい続けるのだ。
ちなみに僕は、もし自身が怪我をしたり死ぬようなことがあれば、その姿を写真に収めてきちんとその現実を世間に伝えてもらうように同行する記者や兵士たちにお願いすることにしている。
さすがですね。
だけど、怪我や爆撃の写真ばかりが写真ではありません。
この間のバーコードの写真は、すごくインパクトが強かったです。
そういう、視点のちがう伝え方を探るのも、写真家としての挑戦ではないでしょうか。
報道カメラマンが世界へ伝えることによって
国や組織が動くケースは多いです。
伝わらない内戦や虐殺ほど悲惨なものはありません。
そして今回の高橋さんが書いたような葛藤は、
どの報道カメラマンも当然抱くものだと思います。
というよりも抱いて欲しいです。
その葛藤を抱きつつ、良い報道写真を
撮り続けて欲しいと思っています。
でも人間の気持ち一つでおきてしまう
高橋さんの込めたいメッセージに、いつも共感し、「作品」としてのクオリティにも、感動したりします。
悲しいこと、
悲惨なこと、
凄惨な現場、
そのリアル
リアルを「現実」や「日常の続き」と感じられないたくさんの人々・・・日々の「当たり前」の中に埋没してしまう感受性をより奮い立たせるのは、
痛みを伴う場面なのかもしれません。
そこにある真実だから。
自由のきかない環境で、限られた枠組みで、伝えたい真実に触れるチャンスは少ないのかもしれません。
そういう意味での「不幸」
もどかしさ。
凄惨な写真でなくとも、
伝わる感受性がそれぞれの中に存在するのならば、
憂う母親の横顔だけで伝わるのでしょう。
お疲れ様です。
無事を祈っています。
今後は多少表現に配慮いただければ幸い。
いみし。
同時にジャーナリストとしての姿勢を学ばせていただきました。
>こういう精神的「矛盾」は、この仕事を続ける限り常につきまとい続けるのだ。
ぼくのような駆け出しが理解できるなどと気軽に言えることではありませんが、ぼくもパキスタンでの取材中や日本国内でも難病患者を取材中に何度もこうした「矛盾」と意識してきました。
前述の方の「怪我や爆撃の写真ばかりが写真ではありません」。
ぼくはそうした自分なりの視点をもった写真も模索していきたいと思いました。
高橋さんも矛盾を抱えながら仕事をするのは
かなり辛いとは思いますが頑張ってください
高校のときに 高橋さんの写真をみてから
せかい中の出来事への 関心がわきました。
それゆえの哀しさがありましたが
今回の解答で救われた気がします。
現実として知らない以上、
私は何も言うべきではないです。
これからも その考え方・情熱・etc・・
忘れないでいてください。
失礼致しました。
邦さんのコトバは、いつも正直すぎるぐらい正直で、ココロにずきずき刺さります。カメラを持ってるって戦場であっても、障害児を撮っていても似たようなものだと思います。環境は全く違いますよ。そんなのは一緒になりませんから。
ただ撮りたい、それだけ、という部分。
>軍用車のなかで昼寝をしているような写真ばかりを撮るためにわざわざイラクまで足を運んだわけではない。
でも。
なぜ昼寝をしてしまうんですか。
暑くてなお疲れているのでしょう。
別にイラクを選んで仕事をしてくて兵隊になったわけじゃなくて、気がついたらイラクに派遣されてただけで。重要な写真なんですよ。昼寝の写真も。
写真を撮るなんて実は傲慢なことです。私はいつもそう思って撮ってます。
だけど。
悪魔的な思考。糾弾されてもしかたない思考。
すごく解る。
でも。
今を撮れるのは、今に生きている人に他ならない。私は障碍者の親ですから、いつでも何をしてもイデオロギーで括られてしまうんですね。でも、今撮らねば意味がない。何を言われてもです。
私には、そんなところとは別に伝えたいことがある。なんと言われても、勘違いされてもいい。イデオロギーや国家の方向性とは違った所に伝えたいことがある。解ってもらえなくてもですよ。素人なのに、ですよ。
写真はしんどい。勘違いされて、もう写真なんて辞めたくなるほどに。
でも。
しんどくないと意味がない。しんどいのは、そこに生きているイラクの人も一緒だもの。日本に住んでいる障碍者の人も一緒なんです。だから撮るんではないんですか。邦さんはいつも、生きたいと思いながらも死んで行く人を忘れてない。
死んだ人は時と場合により、自分かもしれないからでしょう。
違いますか。興奮し、好奇心は当たり前に存在しますよ。人なら普通にあると思いますよ。見たいし、感じたい欲望は誰にでもあるでしょう。
しかし、そこに何を恥じる。
堂々と昼寝を撮ればいい。
そこには、邦さんが思う以上の意味があるじゃないですか。
そのままを。死にたくなくて、または爆撃に合わないその日のそのままを撮ってください。
邦さんにしかできないことですから。