先日DVDで、映画「キリング・フィールド」(The Killing Fields)をみた。
クメール・ルージュによる大虐殺のおこった1975年のカンボジアを舞台にした映画だが、封切られたのが80年代半ばだから、もう一昔も前になる。実在したニューヨークタイムスの特派員記者と、現地のアシスタントの交流を描いたこの映画は、以前からずっと観たいと思っていたのだが、これまで機会に恵まれなかった。
それがある出来事がきっかけで、DVDを購入する羽目に。。。
その出来事とは、映画の主人公の一人でもあったカンボジア人ジャーナリスト、ディス・プランの死だった。
幾度も死線をさまよいながら、ポル・ポト派の虐殺を生き延び、戦後アメリカに渡りニューヨーク・タイムスのカメラマンとして働いてきたプランは、今年3月にガンで他界した。
彼の存在やキリング・フィールドのことは知識として知っていたので、数ヶ月前にラジオで彼の死のニュースを聞いたときも、「ああ、また歴史の証人がひとり亡くなってしまったのだな。。。」とある種感慨深い思いをしたのを憶えている。
それからしばらくたって、購読している全米報道写真家協会の月刊誌が自宅に届いた。もちろん、数ページを割いて亡くなったプランの紹介がなされていたのだが、ページをめくり掲載されていたプランの写真をみて僕は思わず息をのんだ。
「あのおっちゃんじゃないか!!」
僕はなんと以前彼と現場で出会っていたのだ。前述したように、僕はプランというジャーナリストの存在は知っていたけれど、彼の名前や容姿まではこのときまで知らなかったのだ。
7年前、9・11テロのおこったその日に僕はボストンからニューヨーク入りしたが、マンハッタンの消防署で撮影をしているとき、ひとりの年配のアジア人のカメラマンと出くわした。お互い挨拶し、二言三言言葉を交わしただけでその内容は覚えていないが、人当たりが良くて気さくなおっちゃんだったことは印象に残っている。あのときの取材では混乱の中、かなりの数のカメラマンたちと出会ったので、このおっちゃんのこともあまり気に留めることもなく、そのうち忘れてしまっていた。
しかしこの日、僕は月刊誌のページの写真のなかのおっちゃんと再会した。
紙面に記された彼と記者シドニーとの交流の様子を読み、そして掲載された彼の写真をみながら、どうにも涙がとまらなくなった。そして同時に、どうしようもない後悔の念が心を圧迫してきた。
「あのおっちゃんがプランだと知っていたなら。。。」
いろいろ聞きたいこともあった。なんせ、ポル・ポト派の虐殺を生き延びるなどという想像を超えた経験をしてきた人間と、そうそう巡り会える機会などない。それもニューヨークという土地で、そしてカメラマンという同業者としてだ。
ニューヨークで自己紹介をしたときに、彼の名前を聞いても反応しなかった僕に対して、プランはどう思ったのだろう?「この無知な若造め、キリング・フィールドのこと知らないな」と思ったか、それとも「俺のこと知らないようだし、いろいろ質問されずに気楽に話ができる。。。」と安堵したか、いまでは知る由もない。
映画を観ながら、あらためてプランのかいくぐってきた至難を知るにつれ、彼ときちんと話をしなかったことが一層悔やまれた。
しかし、ほんの数分の間でも、彼の温かくて気さくな人柄に直に触れることができたことに感謝すべきか、とも思っている。
クメール・ルージュによる大虐殺のおこった1975年のカンボジアを舞台にした映画だが、封切られたのが80年代半ばだから、もう一昔も前になる。実在したニューヨークタイムスの特派員記者と、現地のアシスタントの交流を描いたこの映画は、以前からずっと観たいと思っていたのだが、これまで機会に恵まれなかった。
それがある出来事がきっかけで、DVDを購入する羽目に。。。
その出来事とは、映画の主人公の一人でもあったカンボジア人ジャーナリスト、ディス・プランの死だった。
幾度も死線をさまよいながら、ポル・ポト派の虐殺を生き延び、戦後アメリカに渡りニューヨーク・タイムスのカメラマンとして働いてきたプランは、今年3月にガンで他界した。
彼の存在やキリング・フィールドのことは知識として知っていたので、数ヶ月前にラジオで彼の死のニュースを聞いたときも、「ああ、また歴史の証人がひとり亡くなってしまったのだな。。。」とある種感慨深い思いをしたのを憶えている。
それからしばらくたって、購読している全米報道写真家協会の月刊誌が自宅に届いた。もちろん、数ページを割いて亡くなったプランの紹介がなされていたのだが、ページをめくり掲載されていたプランの写真をみて僕は思わず息をのんだ。
「あのおっちゃんじゃないか!!」
僕はなんと以前彼と現場で出会っていたのだ。前述したように、僕はプランというジャーナリストの存在は知っていたけれど、彼の名前や容姿まではこのときまで知らなかったのだ。
7年前、9・11テロのおこったその日に僕はボストンからニューヨーク入りしたが、マンハッタンの消防署で撮影をしているとき、ひとりの年配のアジア人のカメラマンと出くわした。お互い挨拶し、二言三言言葉を交わしただけでその内容は覚えていないが、人当たりが良くて気さくなおっちゃんだったことは印象に残っている。あのときの取材では混乱の中、かなりの数のカメラマンたちと出会ったので、このおっちゃんのこともあまり気に留めることもなく、そのうち忘れてしまっていた。
しかしこの日、僕は月刊誌のページの写真のなかのおっちゃんと再会した。
紙面に記された彼と記者シドニーとの交流の様子を読み、そして掲載された彼の写真をみながら、どうにも涙がとまらなくなった。そして同時に、どうしようもない後悔の念が心を圧迫してきた。
「あのおっちゃんがプランだと知っていたなら。。。」
いろいろ聞きたいこともあった。なんせ、ポル・ポト派の虐殺を生き延びるなどという想像を超えた経験をしてきた人間と、そうそう巡り会える機会などない。それもニューヨークという土地で、そしてカメラマンという同業者としてだ。
ニューヨークで自己紹介をしたときに、彼の名前を聞いても反応しなかった僕に対して、プランはどう思ったのだろう?「この無知な若造め、キリング・フィールドのこと知らないな」と思ったか、それとも「俺のこと知らないようだし、いろいろ質問されずに気楽に話ができる。。。」と安堵したか、いまでは知る由もない。
映画を観ながら、あらためてプランのかいくぐってきた至難を知るにつれ、彼ときちんと話をしなかったことが一層悔やまれた。
しかし、ほんの数分の間でも、彼の温かくて気さくな人柄に直に触れることができたことに感謝すべきか、とも思っている。
もちろん彼に直接会ったことはないのですが、カンボジアに行った時にはこの映画のシーンが頭に浮かびました。
私もありますもん。
ガンで亡くなる前に講演した方の話しを聞いていたけれど、
その人の功績を調べようともしなかったんですが、
あるとき、本を読んでいてとても感動したんです。
涙が出るほどに感動した。
それがそのヒトの書いていたものだった。
後悔しましたね。あのとき質問したりできたのに、と。
もう答えてもらえませんから。亡くなっているし。
あの講演はガンを押して伝えたかったことを
自分の身を投じてというか犠牲にしてきてたんだと
あとから知るんですが。
見逃すチャンスというのは確かにあります。
でも、だからこそ心に残ることもあるのかもしれません。
それから、見渡す限りの頭蓋骨の場面。
そのモデルになった人たちがまだ生き残っていたということに驚きました。
まだ、それほど長い年月が過ぎていないということですね。
日本の戦争の生き証人もどんどん亡くなっていくし、歴史が遠ざかっていくような感じです。
ブランさんがカンボジアを脱出できないで別れる場面を見ると、自分が国際協力の現場で、もし、今いる国で内戦が起こったら、自分は恐らく日本政府が用意する安全な手段で脱出できるだろうけれど、一緒に働いている現地の同僚達は残されるのだろうと、そんなことを考えさせられます。
キリング・フィールドは5年前に訪れました。
地面に白骨がみえました。
それよりショックだったのは、若い世代が同じ民族が虐殺をしたという事実を受け入れたがらない、若い世代に教えない方がいいという意見があるというガイドさんの話です。
拷問につかわれた学校が博物館として残されていますが、そこにはクメール・ルージュに加わった人々の現在の様子が紹介され、何故、クメール・ルージュに入ったのかが彼らの言葉で紹介されていました。
誰も虐殺に加担するつもりでクメール・ルージュに加わったわけではなく、自国の貧困を変えようという志のあった若者が扇動されてしまったことが分かります。
だからこそ、これは狂気の一人のリーダーが起こしたまれな事件ではなくて、今後もどこかで起こるかもしれないようなことで、どうして普通の若者たちが巻き込まれてしまったのか、事実を消さずに伝えていかなければいけないのだと思います。
ブランさん、その後どんな写真を撮られていたのでしょうか。興味が湧いてきました。
小さくですが。
「キリング・フィールド」は秀逸でしたね。
この映画の監督の「ミッション(the Mission)」もいいですよ。米国では歴史の授業で見ることもあるようです。
私は去年「ミリキタニの猫(the Cats of Mirikitani)」という映画を見て、「こ、このおじさん、ワシントン・スクゥエアで見たことある」とビックリしました。こちらは無名の方ですが。
おもしろい出会いに後から気付くことってありますよね。
始めは、映画の内容の意味がよくわからなかったのですが、ラストシーンの「Noting」というセリフだけは強烈に心に残りました。
そして、大学2年の時にDVDで2度目の鑑賞。
このときは、さすがに内容がつかめ、いつかDVDで2度目を手に入れようと思いました。
映画に出演されていた方が、実際に体験したことだと知って、二重の驚きでした。
ブランさんは、きっと、「キリング・フィールドの人」として有名であることではなく、歴史を知る一人の人間に過ぎない、というスタンスで生きていたのではないでしょうか?