熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「利休にたずねよ」

2009年02月19日 | Weblog
物事の締めの重要性を認識させられる。最後の「恋」と「夢のあとさき」での結末、そこに至る時間を遡ってエピソードをつなげていく流れが素晴らしい。途中のエピソードのなかには冗長さを感じるものもないわけではないのだが、その冗長さが最後の2章で見事に打ち消されていた。利休に象徴される首尾一貫した美意識が作品全体の根幹をなしていて、心地よい緊張感をかもし出している。作者の並々ならぬ集中力が伝わってくるようで、たいへんよい心持で読了することができた。

自分の内に求めるか外に求めるか、という違いはあるにせよ、人にはそれぞれに価値観の基準がある。自分の内に確たる価値基準があれば、何が起ころうとも平然としていることができるものである。しかし、揺るぎない基準を設けるというのは容易なことではない。なによりも、そこに理がなければならない。

理というのは知識と経験によって構成される骨格のようなものである。理にかなっていれば、即ち合理的であれば容易に納得できるので、そこに思考や行動の反復が生じる。反復が回を重ねれば学習効果によって勘、あるいは暗黙知を習得するに至る。そうしたものの集大成が価値観であるので、すべてを言語化できるはずはない。

理を構成するのは知識だが、そのもとになる経験は行動することによってしか得ることができない。行動を起こせば、上手くいくこともあるだろうし、とんでもないことに陥ることもあるだろう。失敗を恐れて行動しないのであれば経験は得られない。生半可な知識だけに拠る理は、理と呼ぶにはあまりに脆弱だ。自分の価値観の根幹が脆弱であれば、不安に駆られて手近にある世間の風説にしがみつかざるを得ない。そうなれば常に目先のことに翻弄され心安らぐことがないのである。

利休が秀吉に切腹を命ぜられたとき、助命を請わなかったのは、既に何時死が訪れても不思議ではない年齢に達していたという事情もあったかもしれない。美にこだわりぬいた人ならば、己の死に様にも思うところがあったはずだ。それはさておき、時の権力に屈することなく己が生き方を曲げることがなかったのは、そこに強い自負心とそれを支える価値観があったからだ。その価値観の形成の重要な契機として一目惚れともいえるような或る女性との出会いを置いた着想が面白い。確かに、他人から見れば取るに足らないことが本人にとっては命を賭けることも厭わないほどの一大事、ということは現実にあると思う。人の心とは、それほどに緻密で微妙な造りになっているということだ。そして、そうした繊細なものの扱いの極意が茶の道ということなのだろう。

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