熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記 2021年2月

2021年02月28日 | Weblog

近藤義郎 『前方後円墳の時代』 岩波文庫

権力や権勢を表現するのに、それが脆弱であるほど大掛かりな装置を必要する、ということが言える気がする。もっと卑近なところに引き寄せて考えると、中身の薄い奴ほど大言壮語をする、落ち目になると自慢話が多くなる、弱い犬ほどよく吠える、というようなことだろうか。ちょっと違うか。それにしても、巨大墳墓は何のために営造されたのだろう?

「古墳」というと仁徳天皇陵をはじめとする近畿地方の巨大古墳が真っ先に思い浮かぶのだが、都内やその周辺でも結構ある。例えば上野毛の五島美術館の敷地内に稲荷丸古墳がある。上野毛にはこのほかにいくつかあるようだ。大概、古墳というものは複数がまとまっている。埼玉県行田市にある埼玉古墳群はかなりの規模の古墳群で、その中にある稲荷山古墳ははっきりとした前方後円墳だ。稲荷山古墳からは金象嵌による文字が刻まれた鉄剣が出土しており、数少ない埼玉産国宝の一つである。また、同古墳群のなかの丸墓山古墳は秀吉の小田原征伐において石田三成が北条方である忍城を攻める際に陣を張った場所として有名だ。忍城攻めについては「のぼうの城」という小説や映画にもなっているが、小田原が落ちた後も降伏せずに耐え抜いたことで知られている。

それで、前方後円墳だが、その前に古墳の成立ということを考えないといけない。弥生時代前期後葉に畿内において始まったと見られる方形周溝墓は、平坦な丘頂や沖積微高地などにおいて集落に近接して営まれることが多く、弥生後期の墳丘墓・台状墓は、集落からはなれ、低い山や丘陵の頂上や尾根といった個所に営造されることが多いという。そして時代が下る中で規模が巨大化し、それとともに形式の統一性と画一性が見られるようになる。そうした流れが、一気に前方後円墳に飛躍するのだという。

前方後円墳の見た目の形と巨大さ以外の特徴の主要なものは埋葬品である鏡の多量副葬指向だそうだ。この鏡が畿内の政治勢力、大和連合から配布されたものであることが明らかなのだという。日本という国家がはっきりとした姿になるかならないかの頃、大和連合が急速に勢力範囲を拡大した証左が前方後円墳の分布に見て取れるというわけだ。その巨大化のピークが通称「仁徳天皇陵」、正式には「大仙陵古墳」であるが、学術的には埋葬者は特定されていない。宮内庁により仁徳天皇の陵墓に治定されているが、何か根拠があるのか、既に「仁徳天皇陵」との呼称が定着していたのでそういうことになったのか、私は知らない。

宮内庁の天皇系図の中で前方後円墳が陵墓として治定されている天皇は8代孝元天皇から30代敏達天皇までであり、同系図での年代では紀元前2世紀から紀元後6世紀までの約800年ほどの期間ということになる。ここで問題がある。そもそも紀元前2世紀に日本は国の体を成していない。紀元前2世紀といえば中国が前漢(B.C.202-A.D.8年)の時代で、朝鮮半島ではその前漢から逃れてきた衛満が国らしきものを建てたとされる頃、日本は弥生時代の真っ只中だ。仮に遺体遺品を収めるために没後何十年何百年後に天皇陵を造営するにしても、国の体がない時代のナントカ天皇陵ができるはずがないのである。では、宮内庁が嘘をついているのか。そういうことではなく、そういうことにしておいた方がもろもろ収まりが良いというだけのことだろう。大昔に終わってしまったことをあれこれ言ったところで何も始まらない。歴史というのは、その時代その時代に都合の良いように作るものだ。

前方後円墳は副葬品などの分析から、3世紀後半から6世紀にかけての約200年ほどの間に営造されたものということになっている。当時の国力がどれほどのものであったのかは知らないが、古墳はそれ自体何も生み出さない。再生産サイクルに組み込むことのできないものを作るのに多大なコストを投じるのは外部不経済であり、消費蕩尽である。そんなことに国を挙げていたら国を維持することはできない。国家の権威と威信の表現として巨大墳墓を建設したのだろうが、それがために国が滅んだら笑い話にもならない。どれほど国力があろうと、どれほど国家の威信が強かろうと、国のあちこちに規格化された巨大墳墓をボコボコ造るお祭り騒ぎのようなことができるのはせいぜい200年かそこらのことだったということだろう。

また、前方後円墳は広範囲に大きな時間差なしに出現している。形状が規格化されているかのようであるだけでなく、古墳表層に円筒埴輪が並べられていたと見られている。この円筒埴輪の原型は吉備の特殊器台という土器が原型とされている。副葬品で重要な鏡に「三角縁神獣鏡」と呼ばれるものがあるが、これは中国産なのに中国では出土していない。当時はまだ「日本」ではなく「倭」であったところへ向けて特注品として大量に作られた同笵鏡(同じ鋳型で作られた鏡)で大和政権で入手・保管されて各地首長に配布されたものらしい。倭の権力者が中国王朝との政治的結びつきにより入手した物だろうが、その輸送ルートの日本側の起点は九州北部。既に瀬戸内海の海路は確立されていたと見られ、九州と大和とは安定的に交流がなされていたはずだ。つまり、前方後円墳は大和発の一方的なものではなく、当時のオールジャパン的な総合造営物と見ることができ、大和政権が連合政権的なものであったことを示唆するものと言える。

先ほど「消費蕩尽」と書いたが、そうすることで下々に権威を感じさせることができる。身近に見たこともないような立派な鏡だとか剣だとか諸々をこれでもかという量まとめて副葬してしまうことを目の当たりにすれば、おそらく大衆は平伏する。「えぇぇ、きっついなぁ、、、」と思いながらも、古墳造営に労働力を差し出せとお上からお達しが来れば、「逆らうとタメにならんだろうしなぁ」と従うことになるだろう。それと外部不経済を可能にするには余剰生産物がないといけない。つまり経済に余裕がないといけない。民衆の側に労働力を提供する余裕があったということでもある。人を動かすのに何が必要か、ということはよく考えないといけない。

『季刊大林』の1985年 No.20に「現代技術と古代技術の比較による仁徳天皇陵の建設」という記事がある。これによると、仮に人間だけで(牛馬を使わず)、1日8時間、月25日間労働で建設すると約16−17年、1985年基準で約800億円を要するという。1985年の名目GDPは約330兆円、中央財政の歳出は一般会計が53兆円、特別会計が111.8兆円。単純に比較はできないが、ざっくり言えば、消費蕩尽ではなしに社会の安定化費用と考えれば、決して無茶ではなかったと思う。歴史を見れば明らかなように、それでも国家安寧というわけにはいかなかった。ただ、そもそも今が「安寧」と言えるのか?

ちなみに天皇の名は、奈良時代後半に淡海三船が天皇の命により、神武天皇から元正天皇まで一括して撰進したものである(当時既に諡号を贈られていた文武天皇を除く)とされる。淡海三船は天智天皇(在位:668-671年)の玄孫、大友皇子の曾孫。記紀に記されていたのは和風諱号だ。例えば神武天皇は「神日本磐余彦」。諡号には漢風諡号と和風諡号の二種類があり、現在広く通用しているのは漢風諡号である。漢風諡号は中国の例に習い生前の特徴や功績を漢字二文字で表現したものだ。『万葉集』巻一・巻二にある天皇の名は諡号によるものではなく、それぞれの天皇の宮殿の名に準ずる。例えば、巻一の巻頭を飾るのは雄略天皇(在位:456-479年)の御製歌(という立て付け)だが、『万葉集』に「雄略天皇」とは書いてない。「泊瀬朝倉宮に宇御めたまひし天皇(はつせのあさくらのみやにあめのしたをさめたまひしすめらのみこと)」であり、藤原京に遷都した持統天皇(在位:690-697年)は「藤原宮に天の下治めたまひし天皇」。かつて、天皇が代わる毎に遷都していたので、それで良かったのである。国の成長とともに首都も大規模になり簡単に遷都できなくなった奈良時代以降は、漢風諡号の時代でもある。明治天皇(在位:1867-1912年)から昭和天皇(在位:1926-1989年)までは諡号は元号とほぼ一致させてあるが、それはむしろ例外的とも言える。

話は前方後円墳に戻るが、あちこちに多数造営されるようになった前方後円墳が、造営されなくなるのは6世紀以降のこと。天皇の陵墓に限って見てゆくと、『万葉集』に登場する雄略天皇の陵墓は、その候補として名が挙げられる河内大塚山古墳は前方後円墳だが、宮内庁によって治定されているのは島泉丸山古墳という円墳と島泉平塚古墳という方墳の二基。写真で見ると前方後円墳をつくるつもりが、うっかり二つになってしまった、と見えなくもない。続く清寧天皇(在位:480-484年)、顕宗天皇(在位:485-487年)、仁賢天皇(在位:488-498年)の陵墓は前方後円墳だが、武烈天皇(在位:498-506年)は山形墳。継体天皇(在位:507-531年)は宮内庁治定の太田茶臼山古墳も、歴史学界で定説とされている今城塚古墳も前方後円墳だが、太田茶臼山古墳は築造が5世紀中頃とされ、天皇在位前から存在することになってしまう。そういうこともあって6世紀前半築造とされる今城塚古墳がそれらしいということになるのだろう。安閑天皇(在位:531-535年)、宣化天皇(在位:535-539年)、欽明天皇(在位:539-571年)、敏達天皇(在位:572-585年)は前方後円墳。次の用明天皇(在位:585-587年)以降は前方後円墳ではなくなる。

注目すべきは、欽明天皇の時代に仏教公伝があることだ。ただし、何を以って「仏教公伝」とするかについては諸説あるようだ。大昔のことなので仕方がない。政権内部抗争は当然にあっただろうが、大和政権そのものは権力としてほぼ定着して、もはや「どうだ、すげーぞ」というような物理的な装置としての古墳が必要なくなったということもあるだろうし、宗教というよりも哲学・思想科学としての仏教の伝来で、「これからは頭の時代ですよ」というような風潮も醸成されたのかもしれない。人々の社会が社会として成熟して秩序が堅固になり、自然に身の丈にあった暮らしを営むような習慣が定着したのかもしれない。いずれにしても前方後円墳が営造されなくなった時期と仏教の伝来が重なっているというのは説得力があり、偶然ではあるまい。

たぶん、人は一つの大きな軸を基準にして自分の置かれた世界を理解する。特定の宗教の教義のような浅薄なことではなく、世の中を見る時の漠然とした座標軸を誰もが持っている。しかし、そこに全幅の信頼を寄せているわけではない。己の未知なることが底知れぬ闇のように眼前に横たわっていることは意識するとしないとにかかわらずわかっていて、そのことへの不安は常に感じている。不安は不快で本能的にその不安を解消しようとする。例えば、未知なるものはないと思い込む、浅薄な教義とかブランド(所謂既成宗教や「科学」)に縋る、といったような風に。おそらく、巨大古墳の世界観と大陸伝来の仏教のそれとは相容れなかったのだろう。そして、古墳的世界観の勢力と伝来仏教的世界観の勢力との政治的抗争で後者が前者を駆逐したということもあっただろう。最後に前方後円墳に祀られた敏達天皇から15代後の聖武天皇(在位:724-749年)の治世には巨大な大仏の鋳造が始まり、次代の孝謙天皇(在位:749-758年)の治世である天平勝宝4年(752年)に完成して開眼会が挙行される。やっぱり人は大きいもの、わかりやすいものを選好するらしい。

いつの時代でも、一見尤もらしいが本当のところはわからないものが政治に利用されて権力が増強されたり滅亡したりする。「宗教」というと今の時代の人はちょっとspeculativeなことのように捉えがちだが、世界観とか倫理観のような社会に通底する核となるものの考え方と見るならば、古墳時代が仏教の時代に取って代わられるというのは興味深いことである。わずか100年かそこらで「正しい」ことは変わってしまうのだ。今の時代だって、資本主義と社会主義・共産主義とのイデオロギーの対立がかなり最近まであったのが、コロッと変わってしまったりする。少し前に遡れば、「鬼畜米英」なんて言っていたのが、敗戦後は上から下まで国民が先を争うように進駐軍に媚びを売る国もある。そういうネタとして環境問題を捉えることもできるだろう。感染症問題も広義の環境問題であり、それがもとになって思いがけない大変化が起こるのかも知れない。

 

関敬吾 『民話』 岩波新書

「むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがおりました。おじいさんは…」というような話は「昔話」と言われる。本書で言う「民話」は「神話」に対するもののようで、「昔話」は「民話」の範疇に入る。思いきり単純化してしまうと、神話は秩序のためにあり、民話は生存戦略を語るものであるように思う。

民話が現代での娯楽と捉えられている感があるが、それは多分一面的に過ぎる。おそらく民話が生成された時代は人々の暮らしは今より忙しかった。家事を担う家電製品はなく、通信や交通も基本は直接対話なので、肉体労働は現在の比ではなく、照明が限られていたので夜間にできることが限られ、生産活動のための稼働時間は現在とは比較にならないほど短かったはずだ。娯楽で昔話を語る余裕がどこにあると言えるだろうか?

もちろん健康な精神生活に娯楽は不可欠だ。しかし、民話はもっと切羽詰まったものであっただろう。人から人へ口承で伝えられる物語には、どうしても伝えておきたいことが盛り込まれていたはずなのである。それは生存戦略、生存ノウハウではなかったか。

民話、そもそも「話」は話す相手がなければ成立しない。なんのために話すかと言えば、共同・共生のためだ。同じ倫理観を共有していなければ生活を共にすることはできない。

われわれの生活は、かつては晴と褻の二つが、今よりも判然と分かれていた。晴の日は祭の日である。この日は食物も衣服も褻の日とは截然と区別されていた。晴の日は神との共食が行われる日であった。日常の食事とは根本的に区別されるべきである。日常の食事は食うために集り、祭の食事は集るために食う食事である。昔話を語るのにも、恐らくこうした区別があったのではないかと考えられる。昔話をかたるという<かたる>は、柳田国男氏も指摘される通り、仲間に<かたる>(加わる)ことを意味する言葉である。(中略)祭日にも、特にそのために用意された話ではなく、誰もが知っている話が、ある特定の人によって語られる。これが語部である。人はこの語部を中心に、昔話を媒介として集るのである。(94-95頁)

昔話を語ることは、そこで語られている世界観を共有していることを確認する作業だったと思う。そして、共に生きるということは、生産活動での協働だっただろう。生産こそが善なのである。その基本は汗水垂らして働くこと。忍耐・節度・協力・勤勉・謹み・遠慮・気配りができないと協働・共同生活を営むことはできないのである。

昔話のなかでは、道徳そのものは極めて素朴な形でとり上げられる。しばしばいうように、善と悪とが鋭くわかれ、相互に対立した二つの群としてとり扱われる。しかし、善と悪とは、それぞれ独立した概念ではない。両者を比較することによって成立する。善に対して悪であり、悪と対比することによって善である。(中略)善とはなんらかの報酬を与えられることである。悪はその反対である。勝ったものはつねに官軍であり、善人である。負けた者は、理由のいかんに拘らず、悪人である。悪の代表者が処罰されるということは、われわれの概念による不法行為に対して課せられるのではなく、人間的な弱さ・強欲・嫉妬・怠惰・高慢・無遠慮・愚鈍に対して課せられる処罰である。(173頁)

共同体を維持することは人口を維持することでもある。婚姻は生存と同義でもある。

昔話の多くは婚姻譚である。しかし、恋愛はほとんど語らない。生活の安定を目標にした婚姻であり、恋の冒険も愛の奉仕も語らない。婚姻は同時に物質の充足を意味する。(187頁)

慈悲と同情は、この世界における人間性の外面的な特徴である。勇敢と誠実とが一切の悪を克服し、自らを保護し、一切を包容する。同情と親切とは、つねに幸福と報酬とが約束され、幸福な婚姻に到達する。(196頁)

今はネット空間上のゴミのような文章や画像が時々刻々無数に生成されている。昔話とは違って時間と社会による選抜や淘汰を経ることなく最初から記録されているが、スクリーニングを経ていないことによる脆弱性は否めず、昔話とは違って後世に語り継がれるほどの強い内容はない。それにしても誰もが文章や画像を公開できるというのは贅沢なことである。こんな状況を豊かと呼ばずに何とする。と、思うのだが、あまり幸せそうな文章や画像にはお目にかからない。生産活動とは縁の薄いものが多い所為もあるのだろう。

 

C.アウエハント著 小松和彦・中沢新一・飯島吉晴・古家信平 訳『鯰絵 民俗的想像力の世界』岩波文庫

東日本大震災から10年目に想うことをnoteに書いて、この『鯰絵』を読んでいたら、大きな地震が13日の夜遅くにあった。なんて書くと、地震を予感していたかのように見えないこともない。しかし、あの日は全く予感していなかった。

当時、巣鴨で暮らしていた。地蔵通りと呼ばれる国道17号の旧道に面した6階建の小さなビルだった。1階は店舗。入居した時は漬物屋だったが途中から近所にあったマルジの店舗の一つになった。1フロアに2戸しかない小さなビルで、2階から4階までが貸家で5階と6階が大家さんの家だった。私は2階で暮らしていた。

仕事は夕方から夜間にかけてのシフトで午後4時頃に出社していた。その分、起床は遅いが、ゴミの収集が朝8時頃だったので、それに間に合うように起きるようにしていた。午前中は掃除機をかけたりした後、近所の区立体育館にあるプールに出かけることが多かった。その日も泳いで、家に戻り少し遅めの昼食の支度をしていた。離婚して一人暮らしで、飯は食事の都度、小さな土鍋で炊いていた。蓋の空気穴から立ち上る湯気に少し焦げた香ばしい香りが混じって一呼吸置いたあたりが火から上げる頃合いだ。ちょうど火を止めたところで、それまで経験したことのない縦揺れがあり、台所のコンロ周りのタイルの目地から白い砂状のものがサラサラとこぼれ落ちた。そこにユッサユッサと大きな揺れが来た。先日もそうだったが、揺れが長く感じられた。

揺れは収まり、外の物音ももとに戻ったように感じられた。停電はなかったが、飯が炊けていたので、惣菜を作ろうとコンロに点火したがガスがつかなった。ガスの安全装置が起動して、元栓が閉じていた。入居してガスの開通をした時にもらった小冊子を開いて安全装置の解除の方法を確認し、コンロを点火して何か炒め物を作ったと思う。腹拵えをして落ち着いたところで、身支度をして出勤しようと外に出た。地蔵通りから巣鴨駅までは特に変わったところはなかった。しかし、駅の様子が変だった。入場規制をしているらしく駅前で人がごった返していた。地震から2時間近く経っていたが、JR山手線も都営地下鉄三田線も止まったままだった。とりあえず家に引き返し、職場の上司と同僚に交通が止まって出勤できない旨のメールを打った。中学生だった娘から「大きな地震だったね」とメールが来た。学校に泊めてもらうように先生に話せと返した。

その後、福島だけでなく日本中の原発が停止したこともあり、電力不足でしばらく計画停電が実施されたが、住まいのあった豊島区も勤務先があった千代田区も一度も停電には当たらなかった。当時の勤務先は米系の証券会社で、3月14日に福島の原発が水素爆発を起こした後、大使館から福島第一原子力発電所を起点に半径80kmから速やかに退避するようにとの勧告が出され、会社としても社員に対し同様の指示を出した。勿論、「トモダチ作戦」をはじめたくさんの支援や応援を世界中からいただいたが、私の身の回りではあたふたと日本を離れる人たちも少なくなかった。当然だと思う。世界には地震を経験したことが無い人も大勢いる。そういう人が地面がゆっさゆっさと揺れるのを経験したら腰を抜かさんばかりに驚くかもしれない。その上、原発が爆発したのである。生きた心地がしないという人だってたくさんいたはずだ。日本人でも福島の風下で放射線量が増加した茨城県や千葉県では環境への関心が高い人たちの中に西日本へ転居する人たちた結構いたと聞いている。

その茨城、かつての常陸、の一宮が鹿島神宮であり、隣接する下総の一宮が香取神宮だ。どちらにも「要石」というものがある。二つの神社にまたがるように巨大な鯰が地下に居て、それぞれの神社の要石でこの鯰(鹿島が頭、香取が尾)を押さえている、ことになっている。見出の写真は鹿島神宮境内にある要石だ。こんな小さな石で大丈夫なのか、と思うようなものだが、露出している部分はこの程度で実は巨大な岩だったりするのかもしれない。いずれにしろ、その下に生きた鯰はいないと思う。ミミズじゃあるまいし。流石に地震=地下の鯰の暴れ、と信じている人は今はいないだろうが、昔はいたかもしれない。少なくとも鯰絵が登場する江戸時代にプレートテクニクスは知られていなかっただろう。日本列島はプレートの縁に位置しているので、地震からは逃れようがない。鯰絵というものが登場する江戸時代以前からあちこちで地震は起こっていたはずだ。その地震封じの神様が何故鹿島と香取なのか。天皇家の大番頭のような藤原氏の氏神である春日大社は、社伝によると、鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。地震国なのだから、その制御能力が権力の裏付けに直結するのは自然だろう。ということは、大化の改新以前から鹿島・香取と地震が関連づけられて認識されていたということだろう。

本書は鯰絵がテーマなので、そういう古いことにはあまり言及がない。そういうそもそもの部分がモヤモヤとしたままなので、鯰と地震の関係もモヤモヤしたままになってしまう。地震という自然現象の方はだいぶ解明が進んでいるようで、こちらとしても諦めがつくのだが、「何故、鯰?」の部分がもう少しスッキリしないと地震の度にモヤモヤが深くなる気がする。

余計なことだが、あの地震で鹿島神宮の大鳥居が倒れた。だからどうと言うわけではないが。


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