磯田道史『殿様の通信簿』新潮文庫
引き続き目から鱗が落ち続ける。日本には様々な「道」がある。柔道、剣道、合気道、弓道、茶道、華道、香道、などはすぐに思いつくが、ほかにもたくさんあるだろう。体育の授業で柔道と剣道は経験した。自らの意思で経験したのは茶道だけだ。道楽で陶芸をやっているので、使う側のことを知らないといけないと思い、2年ばかり裏千家の先生について学んだ。陶器の使用ということでは華道もやってみないといけないということになるが、今はそういう予定はない。しばらく前に大宮で盆栽を眺めることがあって、鉢も含めて盆栽をやってみようかなと思ったことはある。
ところで茶道だが、大名が遺した茶道具というものがたくさんある。「名物狩り」というような強引なやりかたで茶道具を集めた権力者もいたようだ。茶を飲むのになぜ事細かな決め事を設けて仰々しくしないといけないのか、素朴に疑問を抱いていた。どうやら身分制の所為らしい。例えば自分が天皇陛下とお話をしたいと思っても、まず無理だ。かろうじてそのお言葉に直に触れる機会があるとすれば、勲章をもらうようなことをするとか、歌会始で図抜けた歌と認められるとか、災害で避難所に入る、というような気の遠くなるような小さな確率に賭けるしかない。世の中の仕組みとか仕来りというものがどれほど厳格であったとしても、生身の人間がその厳格さに適応できなければ仕組みは維持できない。そこで、仕組みのなかに余裕を組み込んでおかないといけないということになる。茶道というのは、その余裕なのである。
こういう日本社会において、殿様が他人と親しく話をする方法は、二つぐらいしか残されていない。一つは茶室である。茶会によび、狭い茶室空間にいれてしまえば、膝詰めで、誰とでも話ができる。だから、江戸時代の大名は、ほとんど例外なく、茶道が好きである。これがなければ精神的に生きていけないといってよかった。もう一つは、かなりまずい。御殿からこっそり出ていく「お忍び」であった。(24頁)
ということは、今の時代に茶道は成立しないということでもある。遊びとしての茶道というのはあるだろうが、精神の健康を守るというような切羽詰まった事情での茶道というのはないだろう。野放図な現実における遊びだから、道のなかの些細な決め事が生きるのである。現実が野放図でも茶道というものが成り立つ別の理由は、既に茶道がある種のステイタスとしてのブランドを確立しているからだ。ひとたびブランドとして確立されると、そもそものことなどたいして関心が払われなくなる。これはそういうことになっている、と決めてしまってその決め事への対応だけで済ませてしまえば考えるという面倒なことをしなくて済む。人は易きに流れる。
名にこだわるというのは、ある種、日本人の性といってよい。この国では、「名」によって驚くほど簡単に支配が正当化される。木下藤吉郎が「豊臣」の姓を賜り、「関白」の官名を名乗ると、草履取の支配も、たちまちにして正当化された。つまるところ、名があれば、日本人は納得する。ブランド名による納得と支配。これが日本人の深層心理の一つといってよい。(33頁)
ただ、「ブランド」というのは世間一般で共通認識として確立されていなければ効力を発揮しない。ファッションブランドのようにどうでもよいものは安直にブランドになって何の不都合もないのだが、利害に絡むようなことでは当事者だけでなく関係者一同の間で認識が共有されていないと厄介なことや滑稽なことが起こってしまう。例えば、政治家だ。国会議員あるいは大臣というのはエライのか、ということがある。選挙で選ばれるのだから有権者のほうが上だ、現に選挙のときは候補者がペコペコしているではないか、と思う人もいるだろう。いや、「末は博士か大臣か」という言葉あるように「大臣」というのはこの社会の頂点だ、と言う人もいるかもしれない。こういうときは当事者は控えめにしておくとよいのだが、うっかり己に正直に行動してしまうと、周囲との認識ギャップから大問題が起こることがある。大臣の権限で国有地の払い下げで小細工を下々に指示しただの、指示はないが下々が忖度しただのということは、やはりこういうギャップに起因しているように思うのである。
磯田道史『日本史の内幕 戦国女性の素顔から幕末・近代の謎まで』中公新書
新聞の連載をまとめたもののようだ。各章がほぼ独立していて、それぞれ3ページほど。それでもしっかりとした内容のものばかりだ。一次史料に拠っていることの効果だろう。受け売りではなく、きちんと創造された文章の強さだ。もちろん、「一次史料」に本当に拠っているのかどうか私には確かめようがない。ただ、話というものは語り手がそのことをどこまで理解納得しているかによって説得力が違うものだ。自分が経験したことを語る言葉が何よりも生き生きと相手に伝わるのは当然として、経験はしていないが経験から納得できることというのもそれなりに力のある言葉になるはずだと思うのである。
他の作品と重複するところも多いのだが、本書に限って興味を引かれたのは人口シェアの話だ。古代の人口をどのように推計したのか知らないが、感覚として人口と国力の相関というのは腑に落ちる。
磯田道史『無私の日本人』文春文庫
本書で取り上げられているのは穀田屋十三郎、中根東里、大田垣連月の三人。三人ともちっとも知らなかった。ただ、こういう人たちは無名の市井の人々の中に当たり前にいるような気がする。たまたま巡り合わせで村を救うとか、有為の若者を育てるというようなことになったまでのことで、志の違いこそあれ、愚直に正直に誠実に生きている人のほうが多数派であるのではないか。だからこそ、世の中がなんとか回っているのではないか。そもそも信を抜きに成り立つ社会などあるまい。
磯田道史『歴史の愉しみ方 忍者・合戦・幕末史に学ぶ』中公新書
新聞の連載をまとめもののようだ。著者の作品を何冊も読んだ後なので、本書は気楽に読み通した。
小林秀雄・岡潔『人間の建設』新潮文庫
進歩というものについて考えてしまう。小林秀雄は好きでけっこう読んだのだが岡潔という人のことは何も知らなかった。数学の難問を解決した人らしいのだが、本書では専ら世情を憂いている。例えば以下のような感じである。
世界の知力が低下すると暗黒時代になる。暗黒時代になると、物のほんとうのよさがわからなくなる。真善美を問題にしようとしてもできないから、すぐ実社会と結びつけて考える。それしかできないから、それをするようになる。それが功利主義だと思います。西洋の歴史だって、ローマ時代は明らかに暗黒時代であって、あのときの思想は功利主義だったと思います。人は政治を重んじ、軍事を重んじ、土木工事を求める。そういうものしか認めない。現在もそういう時代になってきています。(33頁)
前提として人の「知力」というものへの信頼があるのだろう。かつてそういうものが十全に発揮された時代とか社会というものがあったのかどうか知らないが、人の発想が実社会の個別具体に基づいているのは当然ではないか。目先のことを追い続けた結果として今がある。ただそれ一辺倒というわけではないのが人間というものだと思う。一人の人間が功利を求める一方で真善美を問題にすることに何の不思議もない。人は自分が思っているほど確たる存在ではなく、その時々の関係性のなかで功利にも真善美にも振れるものではないか。
本書は対談だが会話になっているように見えないのも面白い。本当はどのような対談だったのだろうか。
岡潔『春宵十話』光文社文庫
結局は「私」に対する関心なのだと思う。世情を憂うのも「私」の背後にあるものを肯定するのに都合の悪い現実があるということだ。本書にしろ、『徒然草』にしろ『エセー』にしろ、時代や場所を超えて記述されていることのエッセンスは同じであるように見えるのだ。人が生きていられるのは生理的な健康だけでなく、自分が生きていることの正当性を自他に承認されている実感があるからだろう。殊に「私」の承認というのは無意識のことでもあるので、それを確認するのは厄介だ。通り魔のような事件を起こすのも、社会的地位を投げうってまでつまらない映像を撮ることに執着するのも、世間で評判の場所に「評判」への関心から足を運ぶのも、所謂「ブランド」にこだわるのも、「私」を承認して欲しいからだ。あるいは真面目に日々の仕事に精を出すのも、ボランティア活動に励むのも、やはり「私」を承認してもらいたいという欲求あってのことだろう。「私」は物理的に存在しているものだけでなく、それが在る環境から縁起までひっくるめた認識なのである。つまり「私」は理想だ。「私」の生きている社会に「私」の理想に反する現実があるのは我慢ができない、ということなのだろう。
以下、備忘録的抜き書き。
全くわからないという状態が続いたこと、そのあとに眠ってばかりいるような一種の放心状態があったこと、これが発見にとって大切なことだったに違いない。(36頁)
戦争を生き抜くためには理性だけで十分だったけれども、戦後を生き抜くためにはこれだけでは足りず、ぜひ宗教が必要だった。その状態はいまもなお続いている。宗教はある、ないの問題ではなく、いる、いらないの問題だと思う。(56-57頁)
宮沢賢治に「サウイウモノニワタシハナリタイ」というのがあるが、このくにの人たちは社会の下積みになることを少しも意としないのである。つとめてそうしているのではなく、そういうものには全く無関心だから、自然にそうなるのである。(71頁)
日常安心して暮らせるのは、人が法律的な責任を持つことに信頼しているのではなく、道義的な責任を持つことに信頼しているからなのだが、しかしそれを人々はどこまで考えているだろうか。(87頁)
謙虚でなければ自分より高い水準のものは決してわからない。せいぜい同じ水準か、多分それより下のものしかわからない。それは教育の根本原理の一つである。(103頁)
人の基本的なアビリティーである他人の感情がわかるということ、物を判断するということ、これは個人の持っているアビリティーであって、決して集団に与えられたアビリティーではない。学生たちに最初から集団について教え、集団的に行動する習慣をつけさせれば、数人寄ってディスカッションをしないと物を考えられなくなる。しかしそれでは少なくとも深いことは何一つわからないのだ。(105頁)
何よりいけないことは、欠点を探して否定することをもって批判と呼び、見る自分と見られる自分がまだ一つになっている子供たちにこの批判をさせることである。こうすれば邪智の目でしかものを見られなくなり、本当の学習能力はなくなってしまうのである。(139頁)
中谷宇吉郎『科学の方法』岩波新書
「科学」というと、なんだか普遍的なもののように感じてしまうが、所詮は人間の社会や生活という枠のなかでのことだ。人間が考えることなので、当然にその知覚世界が「世界」の全てということになる。計測機器を用いて五感では知覚できないものを見聞きするというのも、結局は何らかの形で知覚できるようにするのだから、やはり知覚世界の範囲内だ。しかし人間の知覚は人間の生存に必要な情報提供をするもので、そこに関係のないと人間の進化の過程で知覚することを放棄した領域がある。そういう知覚の外に何かがある、ということを了解して生きるのと、知覚が全てと信じて生きるのとでは「我」の在りようが全く違ったものになるだろう。「私」は何者か。知覚世界が「世界」の全てであるなら、「私」は危うく、小さなものにしか思えない。安心、安全を求めれば、勢い横暴になる。強がりばかりでは幸せなど感じる余裕がなかろう。科学が人類の幸福に資するとすれば、人の小ささを示すものであるべきではないか。
岡潔『春風夏雨』角川ソフィア文庫
たぶん今ならこの本は出版されない。本人の信条や世界観を書いているだけで、特に誰かに対して闇雲に攻撃的であるわけではないのだが、所謂「炎上」を招く内容だと思う。しかし、当たり障りのないようなものに金を払うというのも妙なもので、昨今の出版不況は結局のところつまらないものばかりだから、ということの証左でもあろう。それにしても酷い内容の本だ。鍵になる用語は「人」「日本人」「民族」「情」といったところだ。これらの言葉を駆使して作者の「小我」を語っているのである。でも、こういう人が身近にいたらと思うと、ウザいかもしれないが、楽しいには違いあるまい。ちょっと憧れてしまう。
中谷宇吉郎『雪』岩波文庫
あたりまえのことが何故あたりまえなのかを研究するのが学問というものだと、どこかで聞いた気がする。雪の結晶が語ることの深さに驚愕する。