2011年1月、パリでのメモ

2011年02月03日 | 随想
先週、フランスの出張から戻ってきた。
その時々の断想の枠を出ないが、自分にとっては大切な考えの
メモである。このようなことを落ち着いて考え、行動を伴って
深めていくことが中々出来ない。
僕の日常の中の大きなジレンマである。
小さな一歩であっても、ともかく書き留めておこう。

2011年1月20日(木)パリで今日から仕事



もう夜の7時。メッセ会場から地下鉄の駅に向かう途中。
何故こんなに寒いのだろうか。
先週はつかの間の春。今日、また冬の大将軍が舞い戻って来た。
どこにいても足元から寒気が這い昇って来る。

たくさんの国々の人が集まるヨーロッパ。此処が僕の住むところ、
住んできたところなのだろう。どこか、日本よりずっと見慣れた
風景にも思える。

日本の暮らしから離れて約30年。ドイツにいても日本にいても
異邦人であることには変わりがない。その土地や言葉にいくら
馴染んでも、帰属感がない。自分の居場所がないという感覚が
常につきまとう。





日本にいても親近感と疎外感は常にないまぜでである。自分の国で
ありながら、ほぼ全てのことが他人事である。何処にいても傍観者
として、孤独な観察をしていることが多い。

ここ数年、このことを考えることがよくあった。ドイツと日本、
二つに一つ、これからの人生をどちらの国で送るのだろうか。
そんなこともよく考えていた。この問いかけが最近、自分の中で
違う表現を取るようになった。
昨月のノートにはっきり記されている。「二つの国に住もう。」





このメモには自分でもまだ、具体化の内容がともなっていないと思う。
けれでも、指し示すところは明らかだ。
このことを毎日イメージし、それに従っていこう。


2011年1月24日

朝10時。メッセ会場に向かう途中。
パリは生活者の視点からは決して綺麗な街とは言い難い。
むしろ、荒んだ雰囲気や汚なさがあちこちで目につく。

花の都パリ。遠く明治の昔から多くの日本人の強烈な憧憬、羨望の
対象だった。西欧文化の広大な山脈の中、ひときわ高く聳え立つ。
まことに富士山のような存在である。

遠景の中に浮かぶその姿は高貴、優美にして雄大、豪壮。
全ての人を魅了する。近づけば、近寄り難し。
美しきその姿は火山石の塊、緑の麗しさなく、荒々しく、
灰色の岩石が連なる。悠久の歴史の中、マグマの躍動が風化し、
永遠の時間の中に風化したようである。

バリの街にも随分とその様なところがある。
もう歴史を動かす街ではない。社会の旧弊や硬直化。
相変わらずの階層差と社会的な分裂。歴史的没落の過程。
成熟した文化が暗い闇を秘めながら、長い夕闇の中で
その残光を輝かしている。

昨年の10月、パリに行った時にも折に触れてそのような考えが
浮かんできた。似たような印象が強かった。
ツイッターにも下記のような記録を残している。

「フランスの美や理想は、ちょっと威張るのが得意。
昔も今も多くの人がほだされる。千両役者だ。少し用心
した方がいい。」

「パリ北駅の夕景。外から見ると本当に美しい。
過去と現在、光と陰の姿。
ヨーロッパの文化は美女と野獣の積層体のように思う。
フランスはその中でも香水の国。芳香は淫靡なもの。」





「秋の陽光に輝くセーヌ川。 栄光の残照。この絵葉書の風景を
支えたのがパリの貧民街やアジア、アフリカの植民地だったのだろう。
現在の僕達の暮らしの中でも、このようなことは所と形を変えて
繰り返されている。日常生活の中で直接関係していないようでも、
僕達の営んでいる日常が、構造的な搾取の側にあることは確かである。
僕達の同時代者としての責任もそこにある。
傍観者として、無力な一市民として何も出来なかった、ということは
繰り返したくない。」





「大正の昔、フランスの西欧文化がまだ隆盛を極めていた頃、
それに身体の芯までほだされながら、常に反発を感じ、死ぬまで
違和感を抱き続けた画家も居た。その葛藤自体が彼の半生の
アイデンティティだったのだろうか。
雪国秋田の出身。その名を藤田嗣治と言う。」



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