K.テツのひとりごと

行動記録、趣味の話などを書いてゆきます

5月度暁月講座「中国古典に学ぶ会」

2014年05月21日 | 講座・会合

5月14日(水)朝、5月度暁月講座「中国古典に学ぶ会」に出席いたしました。4月は写真展開催で欠席したので2ヶ月ぶりの出席です。

 

本日の岡本先生のお話。

先月末に発売された切手「尼崎の地名」について・・・神戸新聞に掲載された記事と画像です。

発売された「尼崎の地名」切手

5月15日(木)に開催される葵祭に関連して

①京都御所をスタートして、下鴨神社・上賀茂神社まで斎王代を先頭に優雅な平安絵巻のような行列が行われる。行列のすべてに「葵の葉」が飾られることから葵祭と呼ばれるようになった。源氏物語にも登場している。

②葵祭に先立つ競べ馬には白馬と黒馬が出てくる。神様に奉納する神事だが、後世本物の馬を奉納する代わりに絵馬を奉納するようになった。白馬は日照りを表し、黒馬は雨降りを表す。両者で雨乞い、雨止め祈願することになる。

三輪山(大神神社)ゆかりの植物

①杉玉・・・大神神社は酒の神として有名で、三輪の神杉の葉を球状に束ねたものが「しるしの杉玉」。造り酒屋の杉玉は昔は大神神社のものだったが、最近は造り酒屋が自分で作ることもあるようだ。

②笹百合・・・三輪山に咲き誇る笹百合は大神神社の御神花。

立花(橘)

①橘・・・左近の桜、右近の橘として有名。垂仁天応の命により田道間守(たじまのもり)が持ち帰った不老不死の霊果。残念ながら間に合わなかった。持ち帰った実の半分を皇后に差し上げ、残りを天皇の御陵にお供えした、田道間守の悲しみは深く、そのまま亡くなった。古代では「菓」という言葉は「果物」を指すこともあり田道間守は「菓子祖」として信仰されるようになった。垂仁天皇陵の濠に浮かぶ小さな島は、田道間守のお墓といわれる。

②立花(尼崎の地名)・・・もともとこのあたりは摂関家の果樹園だったことからこの地名となった。

そのほか尼崎についてのお話は尽きることがありませんでした。

①貴布祢神社のお祭り。 ②蓬川、であい橋、入江橋  ③崇徳院とその中宮である皇嘉門院に仕えた別当の歌(百人一首)・・・「せをはやみ いはにせかるる たきがはの われてもすゑに あわむとぞおもふ」&「なにはえの あしのかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや こひわたるべき」 ④なにわとなんば ⑤御津の浜、芦刈、世阿弥・・・・。

 

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アレグロ(イタリアン)

2014年05月20日 | グルメ

5月12日(月)塚口アレグロで夕食。飲み物ははじめビール、あとは赤ワインです。

 

鮎のコンフィ、前菜6種盛り、ホワイトアスパラです。

  

 

このお店のナポリピザはとても美味しいのです。

 

 

スパゲティはウニとホワイトソース。

 

少し食べ過ぎました。

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N氏を囲むGOLF会

2014年05月19日 | ゴルフ

5月12日(月)、枚方カントリー倶楽部で大先輩のN氏を囲むGOLF会がありました。参加者は9名、久しぶりに3組でプレーしました。心配された雨にも降られず、絶好のGOLF日和の中、和気藹々とプレーをいたしました。入浴後、懇親会を兼ねた表彰式をしてお開きとなりました。

 スタート前に撮影した写真です。

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日帰り撮影会(中津~天満) その2

2014年05月18日 | 写真

一昨日のブログの続きです。

茶屋町から中崎町界隈です。

 

中崎界隈も古い街並みが残っており、最近若い人たちが散策している姿をよく見かけます。このお店を写生している人たちが数人おりました。

 

 

天五商店街からJR天満駅周辺に来ました。ちょうど昼時になったので駅前の「紫微星」というお店で中華ランチをいただきました。

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特別展「山の神仏 吉野・熊野・高野」

2014年05月17日 | 展覧会

5月11日(日)、大阪市立博物館で開催されている特別展覧会「山の神仏」を見に行きました。

「紀伊山地の霊場と参詣道」世界遺産登録10周年記念の展覧会です。

 

(大阪市立美術館のサイトから引用)

吉野・大峯、熊野三山、高野山の三霊場は、参詣道を通じて有機的な繋がりを保ちつつ、それぞれ独自の文化圏を形成してきました。一方で、日本固有の宗教である神道と中国・朝鮮半島から伝わった仏教が、併存あるいは融合して現在にいたるという大きな共通点を持っています。(引用終わり)


通常は一度に見ることが出来ない神仏の姿120点あまり(国宝2点、重文多数を含む)が集合し、三霊場に分けて展示されている様は壮観でした。


 

 

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日帰り撮影会(中津~天満) その1

2014年05月16日 | 写真

5月11日(日)、写塾の日帰り撮影会がありました。午前10時に中津中央公園で集合、中津駅ガード下→中津商店街→茶屋町→天五中崎商店街→JR天満駅前をそれぞれ自由に歩きながら撮影するのです。

おなじみのチャップリン前とガード下です。ガード下の水銀灯のオレンジ色の光と影が趣を出しています。

 

中津中央公園から中津商店街付近には古い街並み、商店が残っています。

 

豊崎に抜けるガード下。狭いスリットを通った光が面白い。

 

 続きは明後日のブログで。

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5月度 鉄人マスタークラブ(料理教室)

2014年05月15日 | 講座・会合

5月10日(土)、鉄人マスタークラブ(料理教室)がありました。今回の参加者は少なく6名でした。先月は所用のため欠席でした。5ヶ月ぶりの料理教室です。

献立は

①アクアパッツァ

②人参のマリネサラダ

③キャベツのポタージュスープ

④抹茶豆乳かん

です。アクアパッツァとはブイヨンを使わず、水とトマトだけ、または白ワインを加えて煮込んだ魚介料理のことです。

 

とても美味しくいただきました。

 

 

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管 洋志 没後1年記念出版と遺作展「一瞬のアジア」

2014年05月14日 | 展覧会

5月8日(木)大阪ニコンサロンで開催されている 管 洋志 没後1年記念出版と遺作展「一瞬のアジア」 を見に行きました。

写真集のパンフレットです。

 

ニッコールクラブ顧問だった 管洋志氏のアジアへの旅は、1969年からの1年半のネパール滞在を機に40余年にわたっています。写真は国毎に分けて展示してありましたが、庶民の中に入り込まないと写せない写真がずらりと並んでいました。作者の人となりがうかがえる写真展でした。

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串の店 うえしま

2014年05月13日 | グルメ

5月8日(木)、家内、娘夫婦と一緒に西心斎橋にある「串の店 うえしま」に行きました。大阪で一番美味しい串カツと評判のお店です。

 

美味しい創作串が、ストップと言うまで出てくるのです。

ビールは一杯のみ、あとはぬる燗の日本酒です。

スタートはいつもの通りキスから。続いてそらまめ、牛肉、エビ入りクリームコロッケ、名物のイカウニと続きます。

     

 

さらにトコブシと椎茸、 車エビタルタルソース、貝柱、?、チーズ巻、ふぐ、カニ爪、アサリスープにサヤインゲンと子持ち昆布、

      

 

カレーパン、?、キスにタマネギとホワイトソースのせ、牛肉の包み揚げ、ここでストップいたしました。

    

 

このお店に来るといつものことですが、美味しい串を食べながらのぬる燗のお酒がどんどん進みました。カウンター12席のこぢんまりしたお店ですが満席でした。

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5月度 信長公記を読む会

2014年05月12日 | 講座・会合

5月6日(火) 10時から信長公記を読む会がありました。連休最後の日にもかかわらず、出席者は21名でした。

巻三(元亀元年)の9月24日の条から読み進める。9月23日、野田福嶋の陣を引き払い京都に帰った信長は、24日宿泊した本能寺を出発、逢坂山を越えて下坂本にて朝倉・浅井軍に立ち向かう。まさに電光石火、信長の面目躍如というところだ。太田牛一は朝倉・浅井軍は敗軍のように叡山に逃げ上がったと書いたが、レジュメの「言継卿記」「当代記」からは予定の行動であったことがわかる。

ここで砂川先生のお話は、戦国時代がなぜ始まったのかということから、現ロシア、ウクライナ情勢、中国の歴史へと大きく話が脱線。それがこの講座の良いところなのです。

信長は延暦寺に対し味方をするか、局外中立をするよう要請(外交努力)したが、延暦寺は拒否、朝倉・浅井に加勢する。レジュメの「多門院日記」には延暦寺と日吉大社の退廃ぶりが書かれているし、ルイス・フロイスの書簡には朝倉・浅井軍との講和が成立した後も、信長は比叡山の僧侶、上坂本、堅田の町に対し、心中大いに憤っていたとある。この大きな憤りが大殺戮につながるのであろう。

25日信長軍も布陣を終え、比叡山包囲網が完成する。

砂川先生は問題点として、①なぜ延暦寺は信長に敵対したのか ②家康が信長に対し援軍を送ったのは「松平記」「尋憲記」「信長書簡」などから確かで有るにかかわらず、信長公記似記述がないのはなぜか を挙げられる。

足利義昭の9月14日付けの松平家康宛書状には「信長は援助は不要と言っているが、是非出陣してほしい」とあり、出陣を要請したのは義昭だったのだ。

ここで両軍のにらみ合いが続き膠着状態となる。10月20日信長は決戦を申し入れる。これに対し朝倉側は和睦を申し入れたが信長は拒否と太田牛一は書いているが、先生は疑問だと仰る。

 

ここで大阪の三好党が動き、久御山まで出てくるが勝利することができなかったので、結局堺に戻ってしまう。

砂川先生は「挟撃されたこの一連の戦を研究者たちは信長最大の危機というが、それほどのピンチでは無かったのではないか」と仰る。

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