K.テツのひとりごと

行動記録、趣味の話などを書いてゆきます

5月度 信長公記を読む会

2014年05月12日 | 講座・会合

5月6日(火) 10時から信長公記を読む会がありました。連休最後の日にもかかわらず、出席者は21名でした。

巻三(元亀元年)の9月24日の条から読み進める。9月23日、野田福嶋の陣を引き払い京都に帰った信長は、24日宿泊した本能寺を出発、逢坂山を越えて下坂本にて朝倉・浅井軍に立ち向かう。まさに電光石火、信長の面目躍如というところだ。太田牛一は朝倉・浅井軍は敗軍のように叡山に逃げ上がったと書いたが、レジュメの「言継卿記」「当代記」からは予定の行動であったことがわかる。

ここで砂川先生のお話は、戦国時代がなぜ始まったのかということから、現ロシア、ウクライナ情勢、中国の歴史へと大きく話が脱線。それがこの講座の良いところなのです。

信長は延暦寺に対し味方をするか、局外中立をするよう要請(外交努力)したが、延暦寺は拒否、朝倉・浅井に加勢する。レジュメの「多門院日記」には延暦寺と日吉大社の退廃ぶりが書かれているし、ルイス・フロイスの書簡には朝倉・浅井軍との講和が成立した後も、信長は比叡山の僧侶、上坂本、堅田の町に対し、心中大いに憤っていたとある。この大きな憤りが大殺戮につながるのであろう。

25日信長軍も布陣を終え、比叡山包囲網が完成する。

砂川先生は問題点として、①なぜ延暦寺は信長に敵対したのか ②家康が信長に対し援軍を送ったのは「松平記」「尋憲記」「信長書簡」などから確かで有るにかかわらず、信長公記似記述がないのはなぜか を挙げられる。

足利義昭の9月14日付けの松平家康宛書状には「信長は援助は不要と言っているが、是非出陣してほしい」とあり、出陣を要請したのは義昭だったのだ。

ここで両軍のにらみ合いが続き膠着状態となる。10月20日信長は決戦を申し入れる。これに対し朝倉側は和睦を申し入れたが信長は拒否と太田牛一は書いているが、先生は疑問だと仰る。

 

ここで大阪の三好党が動き、久御山まで出てくるが勝利することができなかったので、結局堺に戻ってしまう。

砂川先生は「挟撃されたこの一連の戦を研究者たちは信長最大の危機というが、それほどのピンチでは無かったのではないか」と仰る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする