中世の聖徳太子信仰は泥沼なので手をつけたくなかったのですが、事情があって調べざるを得なくなりました。その方面の最近の論文は、
堀 裕「掘り出される石の讖文―聖徳太子未来記と宝誌和尚讖―」
(佐藤文子・原田正俊・堀 裕編『仏教がつなぐアジア―王権・信仰・美術―』、勉誠出版、2014年)
です。
堀氏は、太子の予言に関する研究史の紹介から始めます。そうした研究は戦前から始まってますが、『日本書紀』では「未然」を知るとされていただけであったものが、南岳慧思の生まれ変わりとされた宝亀10年(779)の『唐和上東征伝』では200年後に「聖教」が日本に興ると預言したことになり、平安時代の『上宮聖徳太子伝補闕記』『聖徳太子伝暦』では平安遷都などの予言もするに至ったことが指摘されています。
中世にはさらに「未来記」などと称される太子の予言が次々に現れますが、寛弘4年(1007)に四天王寺で発見されたとする『四天王寺縁起(四天王寺御手印縁起)』、天喜2年(1054)に太子の墓の周辺で発見されたという長方形の石の箱と蓋に記された「御記文」がひとつの画期になっています。堀氏は後者を「天喜記文」と呼び、考察していきます。
「天喜記文」以後にも、この地から石製ないし石製と思われる予言の文が発見されています。堀氏は、石製という点に注意し、梁の神秘的な僧とされた宝誌の讖文、つまり予言との関連を検討していきます。
『四天王寺縁起』では、四天王寺の寺物を奪うような者には四天王が怒って罰するとし、仏教を交流する者がいたらそれは我が身だと説いています。これは当時の権力者で仏教熱心だった藤原道長を意識した言葉とされています。ただ、これは紙に書かれたものでした。
一方、太子の墓所の聖なる性格を強調する「天喜記文」は石製です。中国では唐代にめでたい言葉を刻んだ石がしばしば出現しており、則天武后の時も「聖母臨人~」と記された石が出ており、武后には「聖母神皇」という号が付け加えられました。武后はこうした事件を背景として弥勒化身として中国史上初の女性皇帝となります。
また、唐代には亀や瑞木などに予言の讖文が記されたものも良く出現しまいた。これらは、王朝交替や王位継承に関わって出現しがちであることが指摘されています。
これらを踏まえ、堀氏は「天喜記文」は石製であって地中から掘り出されたことに注目します。しかも、太子の墓の側から出現しているのです。
さまざまな讖文が仮託された宝誌の場合、唐代には観音の化身とする見方が広まっており、宋初には宝誌のものとされて国歌興隆に触れる讖文が登場していました。そうした宝誌を描いた図や信仰が平安時代には日本にもたらされています。堀氏は、聖徳太子も宝誌同様に観音の化現とされていたことに注意します。
つまり、「天喜記文」は、それまでの太子の予言とされるものと異なり、中国の宝誌の讖文、石に刻まれた讖文との共通性を強調するのです。
ただ、「天喜記文」や『四天王寺縁起』における予言は、四天王寺や太子の墓所を興隆させるためのものでした。以後になると、政権の変化などを予言したとされる太子の予言書が次々に出現するに至るのです。その意味で、「天喜記文」は新旧の太子の予言を画期となるものだったというのが堀氏の見解です。