『日本書紀』には、法隆寺の火災の記事はあるものの、飛鳥寺などと違って創建記事がありません。このため、いろいろと疑われてきたのですが、『日本書紀』で創建記事が記されていないのは、実は天智天皇の創建寺院も同様でした。この問題を追及したのが、
中野高行『古代日本の国家形成と東部ユーラシア<交通>』「第四章 天智朝創建寺院と正史」
(八木書店、2023年)
です。
『日本書紀』天武9年(680:本が「六六〇」としているのは誤記)四月是月条では、「国大寺」である「二三」の寺以外は「官司」が治めることを禁じています。その「二三」の寺については、天武14年(685)9月丁卯条では、天皇の病気回復を祈り、「大官大寺・川原寺・飛鳥寺」で経を読ませ、稻を布施したと記されていますので、この三寺とみるのが通説です。
持統天皇即位前紀:朱鳥元年(686)12月乙酉条では、天武天皇の百ヶ日法要が、「大官・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂田」の「五寺」で行われています。
これらのうち、豊浦寺は蘇我稻目が向原の家を喜捨して寺とし、それが後に桜井道場(豊浦寺)となったとされています。飛鳥寺は有名なので略。阪田寺は、推古天皇が飛鳥寺の仏像造顕と納入の褒美として水田を布施したため、鞍作止利が天皇のために金剛寺を建てたとされています。
大安寺は、舒明天皇が創建した百済大寺であって、後に移築して大官大寺となったものですね。弘福寺(川原寺)は不明であって、斉明天皇の崩御の後に中大兄が建立したという説が有力です。薬師寺は、皇后が病気になったため、天武天皇が発願して建立しています。
つまり、これらのうち、川原寺だけ創建記事がなく、これは天智天皇建立とされる崇福寺、筑紫観世音寺も同じです。ということは、法隆寺(若草伽藍)と同じ状況ということになります。
法隆寺は、天武朝から奈良初期にかけては、国家から特別待遇を与えられていませんでした。このため、山部氏など、上宮王家と関係深い斑鳩の豪族たちが法隆寺を再建し、支えたとされてきましたが、豪華な壁画などから見て、国家的支援があったとする説もあります。また、考古学の森郁夫氏などは、7世紀後半から8世紀初めの頃になって斑鳩で一斉に再建法隆寺式の軒瓦を用いた寺が整備されていくことに注目し、官が関わっていたと推測しています。
ここで中野氏が注目するのは、上宮王家の名代が敏達の皇子である押坂古人大兄皇子の孫たちに受け継がれているとする武光誠氏の指摘です。つまり、太子の子のうち、山背大兄の壬生部は古人大兄皇子に、長谷王の長谷部は間人皇女に、財王の財部は宝皇女(皇極天皇)に、長谷王の子である葛城王の葛城部は葛城皇子(天智天皇)に受け継がれているのです。
(本では、武光誠註(34)参照としてますが、(32)です。こうしたミスが目立つ)
このことから、中野氏は、創建法隆寺も、上宮王家が亡びた後は、敏達の曾孫世代に継承されたのではないかと推測します。
再建法隆寺については、若草伽藍が焼ける前に西院伽藍の地に金堂を立てる企画が動き出していたとする説も有力ですが、中野氏は、敏達曾孫世代の代表である天智天皇がその企画を推進した可能性があると見ます。
伽藍配置でいうと、崇福寺は川原寺式、筑紫観世音寺は法起寺式であって、法起寺式は再建法隆寺が金堂が西で塔が東であるのと東西が反対ですが、金堂と塔が横並びである点は共通しており、これは舒明天皇の百済大寺以来のものであって、それまで百済影響ではなく、中国の影響であることが知られています。
天智朝の天皇発願寺院は、いずれも親の追善のために造立されているため、再建法隆寺もこの系統が推進したなら、舒明→皇極→天智の系統が上宮王家の人物を追善したのではないかと、中野氏は説きます。
そして、これらの寺の創建記事が『日本書紀』に見えないのは、近江朝廷の文物が失われたためである可能性に触れます。いずれにしても、『日本書紀』は厩戸皇子と中大兄M子を重視しておりながら、この二人の皇子と関係深い寺院の創建について記していないことに注目すべきだというのが、中野氏の結論であり、今後の課題としたいと述べて終わっています。