聖徳太子研究の最前線

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『日本書紀』という書物は、実在しなかった! (4月1日限定:特別記事) 

2013年04月01日 | その他

 聖徳太子は実在しなかったという説があります。藤原不比等、長屋王、道慈の三人が『日本書紀』の最終編纂段階にあって、ぱっとしない皇族である廐戸王をモデルにして創りあげた虚像である由。つまり、『日本書紀』が聖徳太子という理想的な人物をでっちあげたというのです。

 ところが、昨日、夜中遅くまで部屋で片付けものをしていて深夜12時を回って4月1日になってしまった頃、倚子がぶつかってマンションの壁が少々崩れ、その中から古い巻物が出てきました。紙質や書体は、正倉院文書とほぼ同じであって、奈良時代のものであることは間違いありません。中を見ると、

  日木書紀 卷第二十二
    豐御食炊屋姫天王

とありました。『日本書紀』の推古天皇の巻ではありませんか! 中身を見ると、確かにそうでした。

 いや、大変です。平安期書写の岩崎本などまったく問題にならない、最古の『日本書紀』の発見です! この資料の発見は、当時は倭国の王については、「大王」でも「天皇」でもなく、北朝の胡族国家の影響により、「天王」という表記を用いていたという説を裏付けるものでもあります。

 ただ、気になったのは、「日木書紀」とあることです。「本」の字がかすれているのかと思ったのですが、本文でも「日本」とあるべきところが「日木」となっています。

 また、この巻物は、こうした古文書としては奇跡的なことながら、首尾完備していましたが、末尾を見ると、こちらではハッキリ、「日木書紀 卷二十二」と書いてありました。

 しかも、その横に、小さな字でもって、「養老三年十二月 船史惠寸謹寫」とあります。『日本書紀』撰進の前年です。「船史惠寸」というのは、蘇我蝦夷が滅ぼされてその邸が焼かれた際、「国記」を取り出して中大兄に奉ったという船史恵尺の孫かひ孫あたりではないでしょうか。古代日本で記録を担当した渡来系の「史(ふひと)」たちが『日本書紀』編纂に携わった、という研究者の推定の正しさを裏付けるものです。

 天王寺所蔵の『万葉集』平安初期写本や安居院に伝わる「飛寺縁起併流記資財帳」断片では、「日本書紀」とあるべきところが、「日木書紀」となっていることが学界で話題になってきましたが、「日木」という表記で正しかったのです。

 中国の伝説によれば、東方の海上に島があって扶桑という巨木が生えており、そこから太陽が昇るとされています。「日本(ひのもと)」という国名はこの伝説に基づきますが、当初は、倭国は太陽が出る東方の木、その木がある場所ということで、「日木」という国名を名乗ったのです。これが後になって「日本」と改められたのでしょう。

 これで分かりました。『日本書紀』などという書物は、なかったのです。実在していたのは、ぱっとしない題名の『日木書紀』でした。中国の史書に「日本」とあるのは、後代になって改めた表記を伝えたものだったのです。

 そう言えば、明治時代には、いろいろな人の説を片っ端から否定論難し、独自の史観を強調した木村鷹太郎(1870-1931)という人物がおり、「キムタカ」と称されて有名でした。あまりにも強引な主張をし、鷹のように襲いかかって他の人の説を非難するため、反発も多く、ある人が匿名で「破壊神にして智恵神なる木村鷹太郎(ヒマーラヤ、タターガタアルハン)」という冗談論文を書き、「木村鷹太郎」なる人物は神話伝説上の人物であって、実際には存在しないことを、キムタカ風なやり方で論証してみせたことがあったほどです。

 その冗談論証については、ネット上で紹介されていますが(→こちら)、まさか、<聖徳太子>という理想的な聖人をでっちあげたという説もある『日本書紀』そのものが実在していなかったとは、思いもよりませんでした。

 なお、この発見記事を論文などで取り上げる場合は、通常の研究書や論文での引用形式と違い、「2013年」とか「2013年4月」などだけでなく、4月1日という日付まで必ず記してくださるようお願いします。

【重要追記:2013年4月28日】
 この記事は、もちろん、エイプリルフールの冗談記事です。本気で書いているのかと誤解されることを心配された方が、コメントをしてくださったため、保留にして引っ込めたのですが、記事を読み直して考えてみた結果、この追記を付し、題名も少し変えて再公開することにしました。

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