聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

綿密な文献検討がなされる一方、首をかしげる箇所も多い吉田一彦『仏教伝来の研究』(1)

2012年12月23日 | 論文・研究書紹介
 最近、すっかり芸能史研究者になってしまい、このブログは長く更新しないままでしたが、知らない間に、仏教伝来に関する吉田一彦氏の新著が刊行されていました。

吉田一彦『仏教伝来の研究』(吉川弘文館、2012年9月1日刊)

です。本文353頁の力作です。

 聖徳太子記事を初め、『日本書紀』の仏教関連記述は道慈の筆によることを強調してきた吉田氏が、森博達氏や私の批判を踏まえ、どのような応答をされているのか楽しみに拝読したのですが、まったく考慮されていませんでした。

 聖徳太子に関する記述には疑わしいものが多いことは、早くから言われてきたことです。大山誠一氏や吉田氏が唱えた聖徳太子虚構説の特色は、律令制下における理想的な天皇像を示すために、『日本書紀』の最終編纂段階で藤原不比等・長屋王・道慈が、実在した廐戸王という人物を借りて聖人としての<聖徳太子>を創作したのであって、執筆したのは道慈だと特定した点にありました(道慈執筆を強調する点は、吉田氏も重視しているように、以前に井上薫氏が説いてましたが)。

 ところが、聖徳太子関連記述には和習が多く、長年中国で学んだ道慈の文章とは思えないことを、森博達氏が指摘し、私も多くの例をあげました。すると、大山氏や吉田氏たちの研究グループでは、「道慈プロデューサー」説となり、道慈は直接書いたのではなく、方向を示して作成スタッフを監督したのだといった論調になっていったようです。大山氏は、近年はその路線で書くようになっており、しかも、説を変えたことには触れません。

 これについても、ひどい文章をそのままにしておくなら、監督したことにならないではないかと、私などは批判してきたのです。そこで、吉田氏がそれにどう応えると思っていたところ、まったくの無視という結果となりました。旧稿を掲載した「道慈の文章」という章では、末尾で旧稿以後に吉田氏が書いた関連論文の名があげられているものの、森氏の批判にも私の批判にも触れておらず、立場は変わっていません。

 森氏については、新たに書かれた「緒論」の注19で、

国語学の視角から『日本書紀』の述作者を推定したものに、森博達『日本書紀の謎を解く』(中公新書、一九九九年)、同『日本書紀成立の真実』(中央公論新社、二○一一年)がある。森説を批判するものに、井上亘「『日本書紀』の謎は解けたか」(大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』(平凡社、二○一一年)がある。(18頁)

と記しているのみです。これでは、森氏が道慈述作説を徹底して批判していることは分かりません。

 しかも、「国語学の視角から」とするのは不適切です。森氏は、国語学の成果も活用しているものの、中国語音韻学の立場を中心とし、漢文の語法などにも注意してこれらの本を書いているのですから、「中国語学」とすべきでしょう。森氏の批判の意義が分かっていないのではないのかと、心配になってしまいます。

 このように、語法に注意すべきだという批判を無視する以上、吉田氏は相変わらず、『日本書紀』を漢文の文章として読んでおらず、目についた単語だけ拾ってあれこれ調べ、自説に合わせて解釈しているということになります。

 その一例をあげましょう。公伝記事のうち、欽明天皇が「西蕃」の仏は「相貌端厳」だと述べた箇所について、氏は「相貌端厳」という表現は仏書に基づくとし、『仏説大乗荘厳宝王経』や、『根本説一切有部毘奈耶薬事』や、『仏説最上秘密那拏天経』の用例をあげています(29頁)。

 しかし、『仏説大乗荘厳宝王経』は、10世紀末に北宋で活躍した天息災が訳したマイナーな密教経典、『根本説一切有部毘奈耶薬事』は7世紀末から訳経を開始した義浄(635-713)訳の戒律文献ですので、年代は『日本書紀』編纂にぎりぎりで間に合うにせよ、『仏説最上秘密那拏天経』も法賢(天息災)の訳であって、北宋成立のマイナーな密教経典です。あるいは、「宋」とあるのを見て、南朝の劉宋と思ったのでしょうか。

 つまり、『日本書紀』のうち、いくつかの用語にだけ着目し、仏典を検索して用例を列挙するのみで、訳出年代にも経典の内容にも注意していないのです。また、『根本説一切有部毘奈耶薬事』をあげるのであれば、こうした系統・性格の文献が日本ではいつ頃、どれだけ読まれていたかを考える必要があるでしょうが、そうした検討はなされていません。氏の重点は、その後に続く『法華経』などの類例の指摘にあるのですが、こうした用例列挙をやると、論証全体の信頼性をそこなうことになります。

 また、その箇所のすぐ後の30~31頁では、公伝記事中の「百八十神」という表現を問題としています。これに関する考察はなかなか興味深くて有益なのですが、問題は、これを論じた箇所の末尾でこう述べていることです。

 つまり、儒教や仏教の経典には「百八十神」というう表現は見えない。ただ、『日本書紀』では、「百八十紐」「百八十縫」(以上神代下第九段一書の二)、「百八十種勝」(雄略十五年条)、「百八十部」(推古二十八年是歳条、孝徳前紀)、「百八十部曲」(皇極元年十二月条)、「一百八十艘」(斉明四年四月条、同五年三月条)のように「百八十」という語が見えるため、「百八十神」については、「『日本書紀』編纂者たちが「百神」を改作して作文した独自の表現と見るべきだろう」(31頁)。


 確かに、「百八十」というのは、吉田氏が明らかにしたように、多数を表す日本風な表現なのでしょう。しかし、公伝部分は百済資料をたくさん利用し、変格語法が目立つ拙劣な漢文です。そうした箇所で、このような日本風な表現が用いられたのです。仏教と中国古典に通じた道慈がこの部分を書いたとしたら、仏教や中国古典が多数を表すのに用いる表現を使うのではないでしょうか? その部分については、道慈以前に既にそうした文章が書かれ、伝わっていたと考える方が自然ではないでしょうか。
 
 公伝部分は道慈の筆だと言い張るのであれば、道慈は、帰国してから1年ほどの間に、「百八十」の語が見える上記の様々な箇所も担当し、初歩的な文法ミスを含む変格語法を交えて書いたのでしょうか。以前からそうなのですが、吉田氏は、空想ばかりの大山氏と違い、文献をしっかり検討し、いろいろ検索も利用して重要な指摘をされます。しかし、その指摘は、実はこのように氏の基本主張のおかしさを示す場合が多いのです。

 本書には、すぐれた文献批判がなされている部分と、こうした初歩的な誤りや、氏の説とは逆の論拠となる部分が混在しています。このため、全体としては、「自説に都合の良い用例だけ取り上げ、自説に対する批判については、応答しやすいものに簡単に触れるだけで、自説に苦しい批判は無視する」傾向が見られます。

 以下、すぐれた部分と困った部分について紹介していきましょう。